第8話 ― 無限遠点でまた
4月12日、午後4時30分。港星大学の中央芝生ステージ。
海からの風と、満開の桜並木からこぼれる花びらが混じり合い、この街でしかありえない“塩桜”の香りが空気を満たしていた。
新入生歓迎ライブのトリとして、凛太郎は一人、ステージの中央に立っていた。彼が奏でるのは、あの冬の曲を春の陽光に合わせて再構築した《Parallel Lines – Spring Edit–》。
イントロ。
彼がサンプラーで再生したのは、冬の冷たい潮騒と、桜の花びらが擦れ合う微かな音だった。BPM78。去年のフェスよりずっと穏やかなテンポ。ざわついていた観客たちが、その音に耳を澄ませ、静寂がゆっくりと広がっていく。
今日のライブのフライヤーの片隅には、小さな文字でこう印刷されていた。
“F = Free wind / Function of two hearts”
何人かの学生が、その不思議な数式に首をかしげている。
終演後、午後5時10分。凛太郎は一人、あのシーガルターミナルへと続く桟橋にいた。
ステージの興奮を冷ますように、ハンディレコーダーを手にフィールド録音をする。桜吹雪が、まるで意思を持っているかのように、一直線の流れを幾重にも作りながら海面を滑っていく。花びら同士は決して触れ合わない。そのサヤサヤという微かな擦過音を、H2nのマイクが丁寧に拾っていく。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。
SNSの通知。ディスプレイには《Fuka▷LIVE👍✨》の文字。
地球の裏側にいるはずの彼女から届いた、たったそれだけのメッセージ。けれど、凛太郎の胸には、春の陽光よりずっと熱い何かが込み上げてきた。
同じ時刻、北欧の上空では、一台のドローンがバルト海の青い海面を捉えていた。その映像は、クラウドストレージへとリアルタイムで送信されている。モニターの隅に表示されたプログレスバーの横には、こんな文字が点滅していた。
“F: Fate-line footage uploading…”
翌日の4月13日、午前8時2分。
「白波荘」の古びたポストに、見慣れない一通の封筒があった。フィンランドの消印。差出人の名前はない。
部屋に戻り、震える指で封を切ると、中から一枚の、上質な五線譜カードが現れた。その中央に、ただ一つだけ記された、全音符。
単音のF。
インクは、夜空を思わせる銀色だった。そして、音符の下には、流れるような筆記体でメッセージが添えられていた。
“Parallel lines never break.
Let F be anything — Free, Function, Fate, Forte, even Forever.
I’ll be somewhere on yours.
– F”
(平行線は、決して壊れない。
Fを、何にでもしていい――自由でも、関数でも、運命でも、強く、そして永遠でさえも。
私は、あなたの線上のどこかにいるから。――F)
凛太郎は、指先でそっと五線譜に触れた。五本の線が、エンボス加工でわずかに盛り上がっている。それはまるで、触れることのできる距離の暗喩のようだった。
午後6時45分、再び、あの桟橋へ。
夕陽が水平線へと沈み、空と海を、金色と薄紅色、二層のグラデーションに染め上げていた。
凛太郎は父のギター、FG800の弦とボディの間に、風花からのカードをそっと挟んだ。そして、一度だけ、深く息を吸い込む。
ワンストローク。
ピックが弾いたのは、単音のF。
ギターの木胴が豊かに震え、潮風を巻き込みながら、どこまでも伸びていく長いサスティンを生み出す。遠くで、汽笛が五度上のCの音で、まるで計算されたかのようにハモった。
彼は、その音が消えないうちに、レコーダーのRecボタンを押す。液晶画面には、二本の平行な波形が、美しく伸びていった。一つは波の音。そしてもう一つは、Fの響き。
Fの余韻が空と海へ溶ける頃、桟橋に新しい風が生まれた。
Freeに吹き、Functionとして作用し、Fateを導き、Forteで鳴り、Foreverを誓う――そんな一音が、二本の線の間で静かに燃え続けていた。
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