第5話 対峙
春休みになると、山下たちからの干渉は減った。
冬休みの時もそうだったが、休みの日にまで僕を構うほど、彼らは僕への憎悪を持っていないということだろう。
僕との接点が無ければ、わざわざ絡みにきたりしない。
そういった彼らの態度は、僕を痛めつけ、屈辱感を与えることについて全く深刻に考えていないことの証に思えた。
だが、今のクラスが変わったとしても、僕は山下達に目を付けられたままだろうという暗い憂鬱は拭えなかった。
彼らに撮影されたトイレでの僕の写真が、やはり彼らの気紛れでネット上に公開されないかという不安は、春休みのあいだは常に頭の隅にあった。
こうした暗い感情が蓄積してくると、僕はジムに行きたくなった。
春休みに僕が通っていた塾は、高校の最寄り駅のすぐ近くにある予備校だった。塾がある日の帰りは、ほとんど毎日ジムへと足を伸ばした。
塾にも友人らしい友人が居なかったので、着替えや運動靴を詰めたスポーツバッグを塾に持って行っても特に目立つこともなく、他の塾生の誰も気にしなかった。
ジムで身体を激しく動かし汗を流している間は、山下たちのことや学校でのことを忘れることができた。
上須会長や加藤さんからは、いつかアマチュアの試合に出てみないかと何度も誘われたが、僕は断り続けた。そのことを残念がってくれることも嬉しかった。
学校生活とは全く関係のない時間の中で、僕は意義深い春休みを過ごすことができていた。
そんな春休みの終わりごろだった。
塾で勉強を終えてからジムに寄り、21時前に出る電車に間に合うよう駅へと向かう。その途中で北野を見かけたのだ。
北野は複数の男子に囲まれ、線路の下を通る地下通路に連れていかれようとしていた。
北野を囲んでいる男子たちは僕と同年代くらいに見えるが、彼らは赤や金色に髪の毛を染めて派手な格好しており、もしかしたら学生ではないのかもしれない。
北野と、彼らのうちの一人が言い合う大声が聞こえてきて、僕はすぐ近くの自動販売機の影に隠れた。
心臓が痛いほどに強く脈打っていた。僕は羽織っていたパーカーを被り、息を潜めて耳を澄ませた。
「ナオミに纏わりついてる、キタノってのはお前だろ」
「纏わりついてなんていねぇよ」
「嘘をついたって無駄だぞ。ナオミから聞いてんだからよ」
「あぁ、なんだと」
ナオミという名前にも聞き覚えがあった。
確か、以前から北野が付き合っていた女子だった筈だ。
僕が向かおうとしている駅で、北野がナオミという女子と待ち合わせをする約束をする会話を聞いたこともある。
音を鳴らさないように唾を飲み込んでから、僕は自動販売機から顔の半分をそっと出して、様子を窺った。
北野は何かを喚きながら拳を構え、身体を揺すりながら男子達を威嚇していた。必死に抵抗しようとしている。
だが、「黙れよ」「うるせぇ」などと言われながら、周囲の男子たちから横腹を殴られたり、太腿の横あたりを蹴られたりしながら、引き摺られるようにして地下通路に連れていかれる。
断続的に大声が響いてくる。その遣り取りの内容が、やはりナオミという女子を巡るものだということが分かる。
ナオミという女子が北野の他にも交際相手を作っていて、その別の交際相手が仲間を引き連れ、北野を痛めつけるために駅の近くで待ち伏せしていたといったところだろうか。
僕は安直な想像を膨らませながら、自販機の影に隠れて、唇を何度も舐めて湿らせていた。
警察という言葉が頭に浮かび、駅から少し離れたところにある交番の存在を思い出す。
その交番の住所と番号を調べ、電話をかけるためにスマホの画面の上で指を動かした。検索サイトに交番の情報が表示される。
交番の電話番号も分かったところで、僕の手は止まった。頭の芯が冷えていく感覚があった。
北野を助ける為に、僕が何らかの行動を起こす必要などあるのだろうか。
北野がどうなろうと、僕とは関係ないのではないか。むしろ、北野に降り掛かろうとしている集団での暴力は、北野という人間が受けるに相応しい苦痛なのではないか。
そういった自分自身への問いかけが湧きあがり、僕の心の奥深くで冷酷に響いた。
僕はそれらを肯定すべきだと思った。僕は何も見なかったことにして、地下通路を通らずに迂回して駅に向かい、そのまま家に帰ればいい。
この地下通路を通りかかる他の誰かが、警察や近くの交番に通報してくれるだろう。
滲んでくる汗を意識しながら、僕はスマホをポケットにしまう。自動販売機の影から出て、地下通路とは反対の方向へと歩き出そうとした。
そこで、自動販売機からの明るい光を背後から浴びる形となり、僕は、自分の影が足元から大きく伸びていることを意識した。
僕の影は歪に膨らんで伸びあがり、暗がりの路地に澱むようにして張り付いている。
その影を無視して僕は歩き出す。だが、影は僕を無視しない。形を変えながら僕の足元に燻ぶり続け、どこまでも着いてくる。
北野のことを頭から振り払おうとするが、それも上手くいかない。
身体に熱が籠り始めるのを感じながら、僕は地面に伸びる自分の影を見た。
その影は、ジムで身体を動かしている時の僕の影と、決定的に違うような気がした。
輪郭が曖昧な影は、地下通路から離れるにつれて形を整え、僕の姿に馴染み、はっきりとした輪郭を持ち始めているように見える。
僕の中で何かが確定しようとしていて、それを、この影が表しているのかもしれない。この影は、これから一生、僕に着いてくるのだと思った。
僕は自分の影を見下ろしながら、鼓動が早くなる。
気付けば足を止めていた。電車が走る音が響いてくる。北野の顔が浮かぶ。
僕の尻を蹴飛ばし、嗤っていた北野の顔だ。死ねばいい。本気でそう思った。
出来るだけ苦しんで、死ねばいい。心の底からそう願いながら、僕の足は自動販売機のところまで戻ってきていた。
僕は、自分が今から何をしようとしているのか詳細には理解できていなかった。ただ、何か行動をしなければと思っていた。
自動販売機に付いている住所カードを確認した。
財布は、塾で使う参考書などを詰めた鞄に押し込んだ。革靴を脱いで、ランニング用の運動靴に履き替える。
脱いだ革靴はナイロン袋に放り込んでスポーツバッグにしまい込んだ。学生鞄を右手に持ち、左の肩にスポーツバッグをかける。
それらの重さを確かめるように、軽く身体を揺らしてフットワークを踏む。大丈夫だと思った。これなら動ける。走れる。
僕は深呼吸をしてから屈伸をして、足首を回し、足元の影を見下ろした。
自動販売機の明かりに照らされた僕の影は、ジムで練習をしている時の僕の影に近づいているように見える。
身体を揺すりながら目を瞑り、足の親指の付け根に体重を乗せ、爪先立ちになり、ふくらはぎの筋肉に意識を集める。体を通う血液が熱を帯びていくのが分かった。
試合直前のボクサーも、今の僕のように強い緊張に縛られるのだろうか。悠長なことを考えると、また北野の顔が浮かんだ。
北野への憎しみは、僕の内部でさっきよりも鮮明になっていた。
だが、その憎悪に自分の行動を預けきってしまうことには、何故か抵抗があった。
僕は、僕自身と戦うような感覚で拳を握り、足を踏み出す。スマホを握り締め、地下通路へと向かう。
途中で、迷惑そうに顔を顰めて地下通路を振り返る男性とすれ違う。地下通路の方からは、暴力的な大声が重なって聞こえてくる。
もしかしたら男性は、トラブルの気配を察して地下通路を通らずに引き返して来たのかもしれなかった。
男性は僕を横目で見て、何か声を掛けてくれようとしている気配があったが、僕は気付かないフリをして足を速めた。
地下通路への階段を降りると、鈍い音が響いてきた。暴力の気配が一気に強まる。僕は息を殺してスマホを握り直す。
階段を降り切って通路を窺うと、北野が壁際に蹲っていた。髪を染めた男子たちが、その北野の肩を踏みつけたり、脇腹を押すようにして蹴飛ばしている。
何事かを喚いている北野は起き上がろうとしているが、そのたびに肩や脇腹、それに太腿を蹴られて押し倒され、地面に転がっていた。
その様子を見ている男子たちが大きな笑い声をあげている。
彼らの遠慮の無い声は通路に木霊し、僕の身体を包み込んでくるかのようだった。頭がぼんやりとして、視界が狭まってくる。
壁際で蹲る北野の姿が、僕の姿と重なって見えた。北野は顔を歪め、泣き出す寸前のような表情だ。
「お前ら、どけよ」
北野は声を張るが、明らかに強がっている声音だった。地面に手をついた北野は立ち上がろうとするが、やはり蹴り倒されている。何度もそれが続く。
地下通路の向こうから、OLらしき二人組の女性が歩いてくるが、北野達の様子を見て引き返して行った。
北野は取り残されている。
髪を染めた男子たちが、この狭い通路を支配していた。自分を守ろうとするように北野が「ゆるさねぇぞ」などと大声を出すが、虚しく響くだけだった。
「うるせぇんだよ」
髪を染めた男子のうちの一人が、靴の裏で北野の肩を蹴飛ばした。よろけた北野が体勢を崩し、地下通路の壁に顔をぶつけた。鼻血が出ている。
北野は鼻を押さえて壁に手をつき、まだ立ち上がろうとしている。
「ゆるさねぇのはこっちだぞ」
耳にピアスを幾つもつけた茶髪の彼は、さっきまでナオミという女子について北野と口論をしていた男子だった。
茶髪の彼は立ち上がろうとしている北野を踏みつけるように飛びかかり、何度も靴の裏で北野の肩や背中を蹴ったくっていた。
他の男子たちも、北野を包囲する輪を縮めていく。北野は抵抗をやめたようで、頭を抱えて蹲った。
地下通路の明かりが、無造作に北野の丸まった背中を黄色く照らしている。
弱々しく震える北野を踏みつけた茶髪の彼は、「こいつ裸にして、カメラで撮ってやろうぜ」と言った。
それは冗談めかした響きではあったが、周りの男子たちの盛り上がる雰囲気を爆発させた。
「やめろ、やめろ」
怯えた様子の北野が、顔を上げて必死に叫ぶ。だが次の瞬間には、茶髪の男子に蹴倒されていた。残酷な笑い声が北野を包み込んでいく。
「大人しくしろよ。さもねぇと、もっと痛めつけるぞ」
茶髪の男子が恫喝するのに続き、「その前に、みんなでコイツに小便かけて、傷の消毒してやろうぜ?」などと、他の男子がふざけた調子で手を挙げた。
男子たちの爆笑が最高潮に達する。北野はこれから、彼らから自尊心を奪われるのだろうと思った。
今の北野の姿が、完全に僕と重なり始める。そして北野を追い詰める男子たちの姿が、山下や児玉、それに北野の姿に重なっていく。
僕の意識は地下通路ではなく、講堂裏の景色を思い描いていた。体温が上がっていくのを感じながら、僕は鞄を握る左手に力を籠める。
講堂裏でいじめられていた時の記憶を胸に、身体に力を入れ直す。
夜が迫る校舎のトイレで一人、鋏を握りしめ、それを振り下ろしていた自分の姿を思う。
あの時に見た鋏の刃は白く、僕を否定することなく手に馴染んだ。今の僕は制服ではない。胸ポケットは無いし、あの鋏も此処にはない。
此処にはただ、僕の肉体だけがある。そして僕の内部には、本当に短いながらも身体を鍛える習慣と、ボクシングの経験が入り込んでいた。
僕は息を大きく吸う。そして鋭く吐き出す。集中力が上がるという、加藤さんと上須会長が教えてくれた呼吸法だった。
「今から練習をはじめます。よろしくおねがいします」
いつもジムでする挨拶を口の中で唱えてから、パーカーのフードを目深に被りなおす。そして僕は、地下通路へと飛び出した。
「すみません。交番ですか」
僕はスマホを耳に当てて、地下通路全体に響き渡る大声で言う。男子たちの笑い声が一斉に止み、彼らの視線が濁流のように僕へと注いできた。
僕は、この地下通路の状況の中に、自分が飛び込んでいることを意識した。背中と額から汗が噴き出してくるのが分かる。
北野が顔を上げて、僕を見た。
「なんだ、アイツ」「誰だよ」などと言いながら、男子たちは顔を見合わせながら、僕に向き直ろうとしている。
北野を踏みつけていた男子が舌打ちをして、ピアスを揺らしながら僕の方へと近づいて来ようとしているのが分かった。
「駅の近くの地下通路で喧嘩です、人数は5、6人です」
僕はスマホを耳に当てたままで、茶髪の男子を押し返す更に声を大きくする。
僕の声には、自分でも驚くぐらい震えが無く、夜の通路の中によく通った。
髪を染めた男子たちが物騒な表情になって、僕の顔を確認しようとするように視線を向けてくる。だが、僕は顔の上半分をフードで隠している。また舌打ちが聞こえた。
彼らが僕を捕まえて黙らせようと、距離を詰めて来ようとする気配がある。
男子たちの動きを見て、僕は膝を軽く曲げる。いつでも走り出せるように、重心をすっと落とす。
「そうです。すぐに来てください」
運動靴の踵を上げ、ゆっくりと後ずさりながら、僕はスマホに向けて大声で喋り続ける。
さきほどの自動販売機にあった住所と怪我人の有無を口にしたところで、「あいつ、交番に電話してんのか」と男子たちの誰かが焦ったような声を上げた。
彼らの間に動揺が走るのが分かった。僕の方へと詰め寄ろうとしていた彼らの足が止まる。
鼻血を流したままの北野は尻餅をついたままで、男子の集団と僕を見比べている。何が起こっているのかを理解できていない顔だった。
「はい。はい。おまわりさん、すぐに来てください」
僕が一際大きい声で言うと、髪を染めた男子たちが明らかに狼狽えた。
おまわりさんという言い方は幼稚で緊張感に欠けていたが、この地下通路に警察官が向かっていることを彼らに想像させるには十分だったようだ。
「おい、もう行こうぜ」
「面倒なことになるぞ」
彼らは顔を見合わせながら、僕とは反対方向へと走って地下通路を出ていく。
茶髪の男子は、鬱陶しそうに僕を眺めたあと、壁際に座り込んでいた北野に近寄った。
そして、「もう二度とナオミに近づくんじゃねぇぞ」と吐き捨てながら北野の肩口に蹴りを入れる。
北野は壁に背中と耳の後ろあたりをぶつけたようで、呻きながら座り込み、側頭部を両手で押さえていた。
茶髪の男子は北野の様子を見下ろし、さらに一撃を加えるかを迷うように足を揺らしていた。
だが、「おい、早くしろよ」と通路の出口あたりから仲間に声をかけられ、彼もすぐに地下通路から走り出ていった。
彼らの暴力と足音の余韻が残る地下通路に、僕と北野だけが残される。
僕は少しのあいだ立ち尽くし、壁際に蹲ったままの北野を眺めた。背中を丸め、耳のあたりを両手でおさえている北野は立ち上がらない。
呼吸のたびに、北野の肩が上下しているのが見える。地下通路の空気は冷えていて、静かだった。
遠くで電車の走る音が聞こえた。そのうち、若い男女が腕を組み、談笑しながら地下通路を歩いてきた。大学生だろうか。
彼らは蹲っている北野を遠巻きに見て顔を見合わせ、他者を見下ろすような冷たい笑みを無言のままで交わし合っていた。
地下通路の淡い黄色の照明の中に浮かび上がる北野の姿は、容赦も遠慮も一切ない、完全な侮蔑と嘲笑の視線に曝されている。
今の惨めな雰囲気を濃密に漂わせる北野の姿が、講堂裏での僕自身の姿を思い出させた。僕も北野と同じように、動くことができなかった。
歩いてくる男女は、立ち止まったままの僕の存在に気付いた。パーカーを目深く被った僕のことを気味悪そうに見たが、すぐに僕の存在を無視するように表情を変えた。
この地下通路を通りかかった時と同じように、楽しそうな談笑に戻りながら僕の隣を通り過ぎて行く。
地下通路には再び、僕と北野だけが残される。
僕は早くなっていた鼓動が静まってくるのを感じながら、手にしていたスマホをパーカーのポケットに突っ込んだ。
喉が渇いていた。スポーツバッグに入れてあった、飲みかけのスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、それを飲み干しながら、僕は蹲っている北野に近づく。
僕は加藤さんと初めて出会った時のことを思い出していた。
僕は北野の近くで立ち止まり、黙ったままで北野を見下ろす。蹲って肩を震わせている北野は、今まで僕がいた“場所”まで降りてきたのだと思った。
今の北野の胸の中にある感情は、なんなのだろう。
どのような気持ちで蹲っているのだろう。
自分は、こんなふうな人間ではないと思っているのだろうか。
本当の自分は、こんなふうに痛めつけられて、踏み躙られるような人間ではないと思っているのだろうか。
蹲って時間が過ぎ去るのを待てば、暴力によって踏み躙られた自尊心が、自分の内部で恢復していくと本気で思っているのだろうか。
このまま死ねばいいのにと思う一方で、僕は何故か、今の北野には優しくせねばならないとも感じていた。
「……も、もう、誰もいないよ」
僕が声をかけると、北野は肩を震わせて息を詰まらせた。
それから10秒ほどかけて、ゆっくりと顔を上げてきた。強張った目を充血させた北野は、喉を震わせながら唾を飲み込み、何かを言おうとしていた。
どうやら北野は、僕だと気づいていないようだった。僕は北野の視線を受け止めながら、パーカーのフードを脱いだ。
僕の顔を確認した北野は、動揺を必死に隠すようにして、怒ったような、泣き出すような表情になって頬を引き攣らせた。
「お前、なんで此処にいるんだよ」
北野は僕から視線を逸らし、鼻血を腕で拭いながら言う。僕は北野の質問に答える必要を感じなかった。くだらないと思った。
「け、警察の人も、こ、ここには、来ないよ」
「えっ? でもお前、さっき、電話してただろ」
「ぁ、あれは、演技。交番に電話をかけるフリをしただけ、だから」
「なんだよ、それ」
声に力を籠めた北野が、そこでようやく立ち上がった。
だが、すぐによろめいて壁に手を付き、肩や脇腹を蹴られた痛みに顔を顰めていた。何故か僕は、北野が喋り出すのを待っていた。
このまま立ち去ることも出来たはずだったが、今の北野が、どのような態度を取るのか気になった。北野は壁にもたれたままで、僕を睨みつけてきた。
「お前、俺に恩でも売ったつもりか」
唇を震わせる北野は、自分の声に迫力を籠めようと必死になっている。無様だった。
「礼でも言えばいいのかよ」
僕に対して威圧的な態度を取り、何とか自尊心を保とうとしているのは明らかだった。下らないと思った。
学校にいる時の僕なら、今の北野にさえ怯え、身体を硬直させていたかもしれない。
だが、この場所に立っている僕は、学校での僕とは違う。
僕は怯まず、北野の前でも胸を張る。腕と肩、肩の後ろ、背中、へと順番に力を入れていく。拳に力を入れる。
「礼なんて、いらない」
萎縮するどころか逆に睨み返して見せた僕に、北野の方が怯んでいた。
その僕への怯みが、つい先ほどまで暴力に翻弄され、傷ついていた北野の自尊心を更に揺るがしたのだろう。
北野は怒りを露わにし、「なんだよ、お前」と泣きそうな声で喚いた。そして僕に殴りかかって来た。僕の顔を狙った、右のストレートパンチだった。
北野の動作は大きく、速いものではなかった。僕は荷物を持ったままで身体の軸を左へずらし、北野のパンチを避けながら横合いへと回り込んだ。
力任せに拳を振り抜いた北野は、その勢いを殺しきれずに身体を泳がせていた。
北野は自分のパンチが避けられたことが信じられないといった表情で、僕を視線だけで見ていた。北野の顔も腹も、がら空きだった。
隙だらけの北野の身体が、一瞬だけサンドバッグに見えた。頭の中が沸騰しそうになる。僕は拳を握っている。
このまま荷物を手放し、北野を思うさま殴って、殴って、殴り抜いている自分の姿が脳裏を過る。それはやはり、いつか見た映画のワンシーンと重なっていく。
鋏を握った主人公が、憎い相手に何度もその鋏の刃を突き立てるシーンだ。あんなふうに僕も、自分の憎悪を解放してみたくなった。その権利は僕にはあるはずだ。
でも、別の選択肢もあることに気付く。
僕は北野を睨みながら、手にしていたスポーツバッグと鞄を放り捨てて、ファイテイングポーズを取った。
僕が握った両拳の向こうに、怯んだ北野の顔がある。今まで見たことのない景色だった。世界が変わったような気がした。
この地下通路は、僕にとってのリングだった。
「い、今の、ぼぼ僕は、殴り、返すよ」
こんなときでも僕は上手く喋れない。でも、僕の声に震えはない。
体幹を含め、上半身と下半身をバランスよく鍛えていた僕に比べて、北野が咄嗟にとったファイテイングポーズは、体格の割に腰が引けていて、いかにも弱々しかった。
僕はファイテイングポーズとフットワークを踏み、北野を見据え続けた。決して自分からは殴らず、だが目を逸らさず、戦う意志を示し続ける。
緊張はスタミナを奪う。上須会長の言葉通り、ファイテイングポーズを何とか維持している北野は、碌に動いてないのに息が上がっていた。
殴り返すと宣言した僕を、もう殴ってくることも出来ずにいる。
そのうち北野は、逃げ出すように僕から目を背けて、早足で地下通路から出て行った。捨て台詞すら吐かなかった。僕を振り返ることもしなかった。
僕は構えた拳の向こうに、北野の背中を見送る。その北野の足元には、か細く伸びた影が付き従っていた。
地下通路に一人残された僕は、それから少ししてからファイテイングポーズを解いた。重たい息を吐き切る。そこで気付く。
僕の真上には地下通路の照明があり、僕の影はその最も濃い部分を縮めて、僕の足元に寄り添っていた。影が、僕と一つになっている。
僕は北野に勝ったのだろうか。それとも、負けたのだろうか。分からない。ゴングは聞こえない。でも、北野を殴らなかった僕の拳には、熱い血の余韻があった。
自分の鼓動の速さを意識する。
僕の新しい血が、全身を巡っているのだと思った。
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