第4話 影と実体
僕がボクシングジムに通いたいと両親に打ち明けると、二人は目を丸くして驚いていた。
スポーツが苦手で、今まで運動の部活に所属したことすらなかった僕が、ボクシングをやりたいなどと言い出したのだから両親の反応も当然だった。
ジムに通いたいと思った理由について父に訊かれ、身体を鍛えて強くなりたいと思ったからだと答えた。
父は僕の答えに一定の理解を示してくれたが、どうしてボクシングなのか、他のスポーツでは駄目なのかと母からは反対された。
他者と殴り合うことによって、僕が怪我をするのは見たくないということだった。
上須ジムでは、希望すれば試合形式の練習メニューをしないことも可能であるから、怪我の心配はないと説得した。
ボクシングがしたいというよりも、上須ジムには友人も通っているから、その友人に誘われたのだと嘘を交えて答えた。
どうしてもジムに通いたいという熱意を見せる僕の姿は、今までになく必死な姿として両親の目に映ったのだろう。
二人は僕が学校の成績を下げないことと、怪我の危険があるような練習メニューを組まないことを条件に、ボクシングジムに通うことを許してくれた。
ジムの月謝のために、週末にはホームセンターのアルバイトも始めた。
僕が男子であることもあって、重たい肥料や植木鉢、コンクリートブロックや資材などに関わる売り場を社員の人が作る際には、そういった重たい商品をバックヤードから運び出したり、店内で陳列しなすことを手伝うことが多かった。
レジでの接客は苦手だったが、接客マニュアルや接客用語、レジの操作方法、ポイントカードを受け取るタイミングなどを必死に覚えることで、忙しい時間内でも業務をこなせるようになった。
平日の放課後は、塾に通う日を除いて、ほぼ毎日ジムに寄って身体を動かした。早朝にはランニングと筋トレをするようになり、僕の生活の中には新しい習慣が作られていった。
身体も細く、スポーツや格闘技の経験がない僕のジムでの練習は、その場でジャブやワンツーパンチを打ち、今度はステップからジャブやワンツーパンチを打ったりする、ボクシングの基礎的な練習に加えて、腕立てや腹筋、懸垂、スクワットなどの筋トレを行うものだった。
これは会長とジムのトレーナーの人達が一緒に考えてくれたもので、まずは身体を作るべきだという判断らしい。
「ジムまで来て筋トレなんてしなくても、練習してたら勝手に筋肉もついてくるけどな」と加藤さんは不服そうだったが、体力も無い完全な素人である僕にとっては、会長達が用意してくれた練習メニューはとても有難かった。
3分間ごとに鳴るブザーを1ラウンドとして練習メニューを行っている時は、肉体の感覚に集中できた。
慣れない筋トレも最初のうちは苦しかったが、その苦しみの核となる部分には、僕自身を変えてくれるような希望があった。
負荷と刺激を受ける筋肉に意識を集中している間は、山下達からのイジメの屈辱感や、クラスメイト達からの冷たい眼差しを向けられる疎外感を、自分の内部から排除できた。
僕が筋トレを行うスペースには床に青色のマットが組み合わされ、横長に敷かれている。
会長の知り合いに空手道場の経営している人がいて、道場で使わなくなった古いマットを譲ってもらったらしい。
空手は流派によって、前足を強く踏み鳴らすようにして拳を繰り出すらしい。その踏み込みに耐えるためだろう。マットには厚みがあり、弾力と硬さが備わっていた。
腕立てをしながら、今の僕が手をついているこのマットもやはり、己を鍛える神聖な場所から来たものなのだと思った。
今日もジムに足を運び、そのマットあるスペースでブザーを聴いていた。
腕立ては3分間の間に、いくつかの種類に分けて行う。まずは普通の腕立て伏せを30秒、全力でやる。
そのあと20秒ほど休憩をはさんで、腕を締めたり、広く開いたりする姿勢で腕立て伏せを行い、胸の筋肉に意識を向ける。
それが終わると、次は肩に負荷がかかるようにお尻を上げ、頭頂部をマットに向けて近づけるような体勢になる。腕や肩、それに背中の後ろあたりが重くなってくる。
この重さを感じる箇所の筋肉が、パンチを強くするのだろう。
腕立ての姿勢を崩さないことに注意する。呼吸を止めないように気を付ける。腕が震えてくる。スピードが維持できなくなる。汗が喉を伝うのが分かる。苦しいと思う。
それと同時に、ジム内に響いている音が、一つずつ僕に沁み込んでくるような感覚になる。
この瞬間が、僕は好きだった。誰にも疑われることなく、僕はこのジムの中に流れる時間に馴染むことができている。
トレーナーの人が持ってくれているミットを打つ時もそうだ。グローブを付けた僕の拳がミットを打つ感触は、僕を疎外しない。僕がミットを打った衝撃は、トレーナーの人の手にも響いている筈だった。
「そう、そう。はい、次」
トレーナーの人も、僕から目を逸らすことはない。僕は身体を揺らしながらステップを踏み、構えて貰ったミットにパンチを打つ。
インパクトの瞬間には、トレーナーの人がミットを僅かに押して、僕の拳を受け止めてくれている。
「はい、次はもっと早く。強く」
僕とトレーナーの人の間には、真剣な息遣いと筋肉の動きがだけがある。学校生活のなかで蓄積してきた暗い感情が、僕の拳とミットの狭間で弾けていく。
自分が強くなっていく実感は薄かったが、精神内部を空にしていくようで心地よかった。
イジメられているストレスを発散しているのではなく、イジメられている自分自身とは別人になったような感覚だった。ジムでの僕は、学校での僕とは違うのだと思えた。
ジムと隣の建物は塀で仕切られているが、ジム側の敷地には少しスペースがあり、そこにパイプ椅子などが幾つか置かれている。
加藤さんは、そこを雑談スペースなどと呼んでいた。僕がジムでの練習を終える時間にメッセージが入るときがあり、その時は先に練習を終わらせた加藤さんがパイプ椅子に座って、僕のことを待っている。
「ちょっとは身体もデカくなったか」
パイプ椅子にどかっと腰掛けた加藤さんが、僕を見て笑う。
「うん。鈴木くんは、真面目に頑張ってるからね」
今日は、加藤さんの隣で上須会長もパイプ椅子に座っていた。二人は飲みかけの缶コーヒーを手にしていて、僕がくるまでに何かを話しをしていたのだろう。
「すぐに筋肉は大きくならないけれど、密度は間違いなく上がったはずだよ。うん。見ていても、身体の動きも滑らかになったのも分かる。成長しているよ」
上須会長の言い方は優しい。だが、優しいだけではなく、声音の芯には真剣さがある。自分の言葉を大事に扱っているふうだった。
僕は成長している。でも、成長しているというだけで、まだまだ弱いのだろう。僕も、そんな簡単に強くなれるとも思っていない。僕は頭を下げる。
「が、頑張り、ます」
「真面目だな~、お前」
加藤さんが太い声を揺らす。
「うん。鈴木くんなら、まだまだ強くなれるよ」
微笑んでいる上須会長が、ゆっくりと小刻みに、でも、しっかりと頷いてくれた。
僕は胸の内に温かいものを感じた。この高揚感こそが、自分は変わって行けるという希望なのだと思った。
こうして僕の日常は少しずつ形を変え始めていたが、山下たちからのイジメは執拗に続いていた。
晴れている日は必ず講堂裏へと連れていかれ、彼らの暇つぶしか鬱憤を晴らすための道具のように扱われた。
雨の日は学校での緊張と不安が薄れたが、雨は必ず止む。降り続けることはない。
僕は今、楽しそうにはしゃぐ山下たちから、硬式のテニスボールをぶつけられていた。
学校のテニス部で使われているのは軟式のボールで、このボールは学校のものではない。僕を的にした的当てゲームをするために、山下が家にあったものを持ってきたのだ。
僕を痛めつけるためのバリエーションを増やすことに、彼らは何らかの楽しみを見出している様子でもある。
僕の視界には、くすんだ灰色をしたブロック塀の、ざらざらとした表面だけが見えている。
講堂裏の塀の前に立ち、頭を抱えるようにして両腕で守りながら、山下たちに背を向けているからだ。
僕の肩や背中、太腿、ふくらはぎにはそれぞれポイントが設定されているらしい。
「おっ、良いコース」
北野の興奮した声が聞こえてすぐに、僕の背中の真ん中あたりに衝撃があった。
その瞬間から2秒ほど息が止まる。じんわりとした痛みが背中に広がっていく途中で、今度は脇腹に衝撃があった。
僕は呻き、身体を折り曲げようとしたところで、頬と耳の中間あたりにボールが飛んできた。痛みよりもさきに視界が揺れる。
頭を抱え直して首をすくめた。足がもつれる。縮こまる僕を見て、山下たちの笑い声が背後で大きく広がった。
「背中のド真ん中。北野は10ポイントだな」
僕が肩越しに振り返ると、児玉がルーズリーフにボールペンを走らせて何かを記録していた。
「俺は脇腹だから、7ポイント。山下は0だな」
ルーズリーフを見下ろす児玉が言うと、山下が僕を指差して唇を尖らせた。
「だってアイツ、的のクセに北野のボールくらってから動いたじゃん」
「いやお前、明らかに後頭部か首のあたり狙ってただろ」
北野が吹き出した。
彼は楽しそうだった。
何がそんなに楽しいのか、僕には理解できなかった。理解する必要もないと思いながら、僕はテニスボールを拾い集める。
身体を動かすと、ボールをぶつけられたところに痛みが走った。
「おい、早く集めて持って来いよ」と、北野の威圧的な声が飛んでくる。
僕は地面を見詰めたままで頷く。
「アイツ、本当にキモいよな」
児玉が僕にスマホを向けているのが分かる。
痛めつけられる僕の姿を動画か写真として撮影しているのだろう。冬を前にした11月の空は澄み渡り、冷たい風が吹いてきている。
僕はテニスボールを3つ抱え、彼らのもとへ向かう。これで5回目だった。不意に、手の中にあるテニスボールの感触に意識が伸びた。
このボールは、健全なスポーツの為に使われるためのものであり、今のように僕の自尊心を奪い、痛めつけるための道具ではないはずだった。
そこまで考えると、テニスボールの次に、今も制服の内ポケットにいれている鋏に意識が移った。
鋏は、本来なら紙を切ったりするための道具だ。だが今の僕には、この鋏を本来の目的とは違う使い方をして、彼らを傷つける権利があるように思えた。
「さっさと動けよ。お前を見てるとイライラするんだよなぁ」
僕からテニスボールを受け取った山下は、低い声を降らせてきた。僕は俯いたままで何も言わなかった。それが唯一の抵抗だった。
「なに黙ってんだよ、おい」
半笑いの北野が、山下の手の中からテニスボールを掴みながら言う。
いつかの時のように、児玉はスマホを構えたままだ。これから僕は、また下半身を裸にされるのだろうかと思った。
だが僕は、それを拒絶する意思としての、「もうやめて」という言葉を飲み込んだ。
沈黙のままに痛めつけられることによって、僕の制服の内ポケットにある鋏に、何らかのエネルギーが蓄積するように感じられたからだ。
それは、怒りや憎しみといった感情に違いなかった。
そういった感情が一定値まで溜まれば、鋏を握り締めた僕が、その刃を彼らの顔面や喉首に振り下ろすような時が来ても、僕の行動にはある種の正当性らしきものが宿るではないかと思った。
ポイントカードのポイントを使う権利を行使するように、復讐されても仕方がないよねという気持ちで、僕は罪悪感も後悔も、そして一切の遠慮もなく、彼らの肉体へと鋏を振り下ろす権利を得ることができるのではないか。
黒々とした情熱が僕の内部で湧き上がってくる。
僕をイジメる山下たちにとっては、今のこの時間も、他愛ない高校生活の一部でしかないのだろう。
だが、イジメられているこの時間は、僕の人生の一部だった。
僕はこの時間を終生、忘れない。
喉が渇き、視界が狭まってくる。鼓動が速くなる。僕の鼓動が、怒りや憎しみと共に、左の内ポケットにある鋏に伝わっている。
この鋏は僕の人生の一部を見ているのだと思った。
僕が黙り込んでいるのが気に喰わなかったのか。山下は無造作に靴の爪先を突き出し、僕の脛を強く蹴ってきた。
ゴツンという鈍い音が、自分の脛の中に籠るようにして聞こえた。激痛が走る。
「いっ、痛ぃ」
僕は呻いてしゃがみこんだ。
脛を手でおさえようとしたが、出来なかった。僕が身体を屈めたところで、山下の靴の底が僕の左肩を強く蹴ったのだ。体重を乗せて押し倒すような蹴り方だった。
僕は尻餅をつきながら後ろにひっくり返ってしまう。手をついて起き上がろうとするが、そこで顔面のあたりにボールが飛んでくる。
北野がボールを投げてきたのだ。手で顔を守ると、すぐに立ち上がれない。
地面に背中をつけたままの僕は、顔を庇う腕の隙間から、山下がボールを持っている腕を降り被るのを見た。山下の背後には、無表情な青空が広がっていた。
僕は息を止めて、腕に力を籠める。顔を守る僕の腕へと、山下がテニスボールを投げつける。腕にボールがぶつかる衝撃のすぐあとに、股間にも痛みが走った。
持っていたテニスボールの二つ目を、即座に僕の股間めがけて投げつけたのだとすぐに分かった。腹筋が痙攣し、尻が跳ねる。
僕は掠れた悲鳴を漏らし、股間を押さえて地面にうつ伏せになる。息ができない。股間が濡れてくる感触が掌にあった。
「おい見ろよ、コイツ漏らしてるぞ」
僕を見下ろす山下が大笑いして、「きったねぇ」などと北野も腹を抱えて笑っていた。
彼らの笑い声が僕を圧し潰すかのようだった。うつ伏せに僕は蹲ったままで、肩越しに彼らを見た。児玉がスマホを片手に、肩を揺らしている。
蹲っている僕の足の間からは液体が流れ、地面のコンクリートを黒く濡らしていく。その様子を撮影しているのだろう。
僕は怒りや羞恥を感じるよりも先に、疲れと少しの安堵を覚えていた。
これだけ無様な姿を晒せば、彼らは納得しただろう。
もう今日のあいだは、彼らも僕に絡んでくることなどないだろう。もう十分だろう。今日は塾に行かない日だ。学校の帰りにジムに寄ろうと思っていた。
「これから練習をはじめます。よろしくお願いします」と小声で唱える。濡れた下半身に意識を向けたくなくて、ジムでの練習メニューを頭に思い浮かべる。
「これから練習をはじめます。よろしくお願いします」と小声で唱える。まずは腕立て伏せをして、腹筋をする。3分おきになるブザーに従って筋トレをする。
「これから練習をはじめます。よろしくお願いします」と小声で唱える。ミットを打ち、サンドバッグを叩く。グローブの中で、バンテージを巻いた拳を握り直す感触を、必死に思い出す。
「小便漏らしながら、なんかブツブツ言ってるぞ。キモ過ぎるだろコイツ」
山下が僕の背中にテニスボールをぶつけてきた。
ボールをぶつけられた背中の痛みに連動して、懸垂をして背中を鍛えなければという意識が浮かんだ。最初は1回できなかったが、今では4回ほどできるようになった。
ジムに居るときの僕は、間違いなく強くなっている。少しずつではあるが、筋肉もついてきたはずだ。力の籠ったパンチも打てるようになった。
あのジムに居る時の僕が、本当の僕なのだと思った。
股を濡らして蹲っている今の僕は、山下たちの前でだけ現れる僕なのだ。
山下さえいなければ、僕は、この僕にならずに済む。
イジメられていることを両親や学校に告白し、転校することはずっと考えていた。
だが、僕が山下たちの前から去ったとしても、彼らのスマホの中には、今の僕が存在し続けている。
下半身を剥き出しにされ、トイレの床に引き倒されて尿を撒き散らす僕の姿がある。
そして今は新たに、うつ伏せで蹲ったままし小便を漏らしている僕の姿が撮影されている。
これらの写真や動画が、メッセージアプリでクラスメイト達に広がることは恐ろしかった。SNSなどで拡散されれば、このイジメられている僕こそが、僕の意思とは関係なく真実となって広がっていくように思えた。
そうなれば僕はもう、ジムに行っても、ジムでの僕になることができないだろう。
新しい僕を見つけることもできなくなる。僕は死ぬまでイジメられている僕のままで過ごさねばならなくなる。
それだけは絶対に嫌だった。だから、山下たちが高校を卒業して、僕から興味を失ってくれるのを待つしかないと感じていた。
こうした写真や動画がネットに載せられ、広まってしまった場合の対処法方も調べてみたが、一度ネットに流れてしまった写真や動画は、完全に消し去るのは難しいということが分かった。
自分の性器を、不特定の誰かに見られることには強烈な忌避感や嫌悪感があったし、それを誰かが保存することによって、イジメられている僕の姿は、半永久的に何処かに残り続けるのだと思った。
僕の写真や動画がネットに出回るのを未然に防げるならば、それに越したことはないという消極的な決意の中で、蹲った僕は頬にコンクリートと細かい砂の冷たさを感じていた。
山下たちは蹲って動かなくなった僕に、さらにテニスボールをぶつけようとしていたが、そこで昼休憩が終わるチャイムが鳴った。
今日のチャイムの音はやけに遠くに聞こえる。山下たちは僕を放って校舎へと戻っていく。
足音が遠ざかるのを聞きながら、僕は首の後ろあたりを撫でていく風の冷たさを感じていた。
しばらく蹲ったままの姿勢で動くことができず地面を見詰めていると、僕はこの風景の一部として、人間であることを停止してしまいたいと思った。
胸ポケットにある鋏で、僕自身の喉首を切り裂いてしまいたくなった。
だが僕は、ジムで身体を動かし、加藤さんや上須会長と過ごしている僕を消してしまいたくなかった。ジムに行きたいと強く思った。
少ししてから僕はゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。
僕の弁当箱が、中身を食い散らかされたままで講堂の壁際に置かれているのを見つけた。僕は立ち上がり、弁当箱の中身をすべて食べる。
せっかく母が作ってくれたのだ。無駄にしたくなかった。また冷たい風が吹いてきて、尿で濡れた僕の制服を冷やした。
僕を置き去りにするように周囲が静まり返っている。もう授業は始まっているはずだった。
だが教室に戻る気にはなれず、僕は保健室に向かい、体調が悪くて漏らしてしまったと保健の教師に伝え、そのまま体操着に着替えて早退した。
担任の教師には、汚した制服を洗濯していかないかと声をかけられたが、家で洗うと言って断った。一刻も早く学校の敷地から外に出たかった。
荷物を教室に取りに戻った時に、山下たちは何食わぬ顔で授業を受けていたのが印象的だった。
彼らの人生の時間に、僕の苦痛や不安、憂鬱などは、まったく意味をもたないのだろうと確信した。
僕はそのままジムに行きたかったが、汚れた制服を洗うためにコインランドリーへ向かった。
途中で雑貨屋に立ち寄り、洗濯ネットも買った。買い物をしている間、僕は学校で授業を受けているクラスメイト達の姿を思い浮かべていた。
彼らとは違う時間を過ごしている自分自身が、何か、疚しい存在のように思えて息苦しかった。
雑貨屋のレジ係の女性の視線が気になり、早足で店を出た。コインランドリーには僕以外に誰も居らず、少し安堵した。
洗濯と乾燥が終わるまで、塾で貰った問題集を眺めて時間を潰そうと思ったが、内容が頭に入ってこなかった。
僕の鼓動は速いままで、全身に汗をかいているのが分かった。鼻の奥の方に、自分の尿の臭いが残っている気がして、軽い吐き気を覚える。
目の奥に鈍痛を感じた。手に持っていた問題集を地面に落としてしまう。だが、拾い上げる気力も無かった。
ベンチに腰掛けた僕は両手の掌で顔を洗うように擦り、そのまま無意識に頭をガリガリと掻き毟った。
トイレで下半身を露出させられたあの時も、学校を早退して家の洗濯機で制服を洗ったのを思い出す。
何かを叫び出しそうになったところで、ポケットに入れていたスマホが電子音を何度か鳴らした。メッセージが届いたのだ。恐らく、このメッセージは山下たちからのものだろう。
頭を掻いていた手を下ろし指の間を見ると、何本も髪の毛が抜けていた。その髪の毛を手に付けたままで、僕はスマホを取り出して確認する。
やはり、山下たちからのメッセージだった。届いたメッセージには文字はなく、動画が張り付けられている。講堂の裏で蹲り、失禁している僕の姿だ。
こうしてスマホの画面越しに見る自分の姿は、僕自身の内部に迫ってくるようだった。呼吸が上手くできず、息苦しかった。
洗濯機や乾燥機が微かに聞こえ、身体が冷えていく。ただ、身体の内部で動悸だけが高鳴っていく。
深く、激しくなっていく自身の拍動に閉じ込められるような錯覚のなかで、僕は足元に落ちた問題集の表紙を見つめながら、何度も拳を握り締めた。
制服の洗濯と乾燥が終わってすぐに、僕はジムへと走った。
一刻も早く拳にバンテージを巻き、グローブをつけて、サンドバッグを殴りたかった。トレーニングの時間のなかに自分の意識を置いて、もう何も考えたくなかった。
ジムについてガラス戸を開け、「おはようございます」と、いつもよりも大きな声で挨拶をした。
ジムに入ってときの挨拶は、時間に関わらず「おはようございます」で統一されている。
これは会長が決めたわけではなく、いつの間にかこの挨拶が定着していたらしい。建設現場で働いていた会員が多い時期があり、その頃の名残かもしれないと加藤さんが言っていた。
ジムの中は暗く、静かだった。人の気配が無い。
ジムの営業時間内である筈だが、今の平日の昼過ぎであるため、まだ他の練習生も来ていないのだろう。普段からこの時間にジムに来る者は居ないのだろう。
入口のスチール机にも会長の姿は無かった。僕は深呼吸をして、薄暗いジムの中を見回した。
黙したままで其処にあるトレーニング器具やサンドバッグは、やはり僕のことを無視することなく存在していた。
ジムの空間や風景は、僕に親しみを持って存在しているように感じた。少なくとも、今の僕にはそう見えた。
今になって涙が溢れてくる。自分の内部にある何かが、取り返しがつかない程に壊れてしまったかのような勢いだった。
すぐにガラス戸をから外に出る。ジムの中で泣いてはいけないと思ったからだ。
ジムの表に出てから、建物の横側に入った。いつも加藤さんたちと雑談をするスペースの近くで、僕は必死に呼吸を整え、体操服の袖で瞼を強く擦る。
「あぁ、鈴木君だったのか。今日は早いね」
ジムの裏口の方から、上須会長が歩いてきた。
「ぉ、おはようございます」
僕はすぐに頭を下げる。
「表の戸が開いた音がしたのに、ジムの中に誰も居なかったからね。泥棒でも来たのかと思ったよ」
首にスポーツタオルをかけた会長は、優しそうな表情をうかべて右手で首を摩っている。
「は、はぃ。すみません」
僕がまた頭を下げると、「いや、別にいいんだよ。今から電気を点けてくるから」と言ってくれた。だが会長はすぐには裏口の方には戻らず、じっと僕を見つめてきた。
「……今日は、制服じゃないんだね?」
普段の僕は制服のままジムに来て、学生鞄に押し込んだスポーツウェアに着替えていた。体操服でジムに現れた今の僕に、会長は何らかの違和感を覚えたのかもしない。
いや、そもそも僕は、自分の顔に残る涙と鼻水のあとを誤魔化しきれていない。情けなく震える声も、明らかに僕が泣いていたことを語っている。
「はい、ぁ、あの、制服を、汚してしまって」
「ふぅん……。何か在ったのかい?」
柔らかい声音でそう訊いてきた会長の目の奥には、スパーリングなどを見守っている時とは別の種類の真剣さが宿っていた。
「ぃ、いえ。な、なにも」
僕は言葉を詰まらせながら、何とか言葉を探そうとした。先程の動画が頭を過る。蹲って小便を垂れ流す自分の姿が、意識の奥の方で再生されていく。
その映像を早く消したい。自分の顔が引き攣っているのが分かる。会長に愛想笑いらしきものを浮かべようとしたが、喉や頬が強張ってしまって無理だった。、
「ぃ、いえ、ただ、せ、制服を、よ、汚してし、しまって」
初めてジムに来た時のように、言葉をぶつ切りにしながら浅い呼吸を繰り返してしまう。
「うん。うん」
そんな僕を見守るようにして、会長は初めて出会った時と同じように、ゆっくりと頷いてくれた。
会長の優しい声に、僕の内面の奥深くにある何かが激しく揺さぶられた。胸が打たれるように痛み、言葉と息が詰まる。
今まで学校からジムの前に着く頃には、僕は学校での自分を切り離し、ジムでの自分になることができていた。だが、今はそれができない。
僕は、自分の股間が濡れていくような錯覚を覚える。時間と場所が歪み、小便を垂れ流していた講堂裏での僕が、今の僕の意識を上書きしていくようだった。
この場から逃げ出したいと思った。
唾を飲みながら何度もまばたきをした。
そのまばたきによって訪れる一瞬の暗闇の隙間の、そこから更に奥まった場所に、廃ビルの踊り場から墜落していく僕の姿が見えた。
どうして今、こんな映像が見えるのだろう。学校でも家でもジムでもなく、何もない空間を頭から落下していく僕の姿こそが、僕という人間に相応しいのだろうか。
何かを言葉を発しようとしながらも、乱れた息を口から漏らすことしかできない僕を、会長はじっと見守ってくれている。
「鈴木君、まずは深呼吸をしよう。ゆっくり、ゆっくりと息をするんだ。ここでは遠慮はいらないよ。時間をかけて、息をすればいい。まずは身体の緊張を解こう」
会長は穏やかな声音で言いながら僕に歩み寄ってきて、そっと僕の両肩を掴んだ。
「緊張するとね、スタミナを使う。身体のスタミナが切れてくると集中力も無くなるし、強いパンチも打てなくなる。それに足もね、重くなるんだ。鋭いステップが踏めなくなる」
落ち着き払った会長の口調は、乾いてひび割れた地面に、澄んだ水を滲みこませるようだった。
この会長は、リングで必死に戦ったボクサーがコーナーに戻って来た時も、今のような口調で語りかけるのだろうと思った。
気付けば僕は、荒い呼吸のままで肩を上下させ、会長の目を見つめていた。会長は深くゆっくりと頷いてくれている。
「身体から力を抜くんだ。力むとね、身体の痛みも増す。力を籠めた場所に血がいくとね、血が熱くなる。熱くなった血は、すぐに頭に昇る。冷静さを奪う。客観も奪う。周りが見えなくなって、何も考えられなくなるんだ」
会長は目を逸らさず、震える僕の肩を掴んだ手に、ぐっ、ぐっと力を籠めてくる。
「鈴木君が抱えてるものを、ここにちょっと下ろして、深呼吸をしてみよう。ゆっくりでいいんだ。今は、ゴングを気にしなくていい。時間をかけていいんだ。さぁ、手を開いて、肩をまわして」
僕は、知らず知らずのうちに拳を握っていたようだ。
爪の先と指の付け根に痛みを感じたが、その感触を手放すように息を吐いた。細く長く、静かに息を吐きだしていく。会長に言われた通り、腕を下げたままで肩を回した。
僕の身体から余計な力が抜けていくのを感じたのだろう会長は、「よし、よし、その調子だ」と僕の肩を叩き、雑談スペースにあるパイプ椅子を一つ持ってきて僕を座らせてくれた。
パイプ椅子に体重を預けると、行き場を得た濁り水が流れ出ていくように、腕や脚の先から一気に身体から力が抜けていく。
その弾みで、心の底に押しとどめていた苦しさや悲しさが、みるみると水位を上げてきた。慌てて感情に蓋をしようとするが、もう間に合わなかった。涙が溢れてくる。
俯いて腕で拭う。会長が僕の首の後ろあたりを、指で揉んでくれた。
「緊張し過ぎるとね、身体だけじゃなくて、心のスタミナも使うんだ。身体のスタミナは回復しやすいけど、心のスタミナは回復するどころか、減り続けることもある。ワセリンを塗る前の傷口から、出血が続くみたいにね」
会長は落ち着いた口調で言いながら、僕の首のうしろあたりを揉んでいた手を止めて、今度は僕の背中をさすってくれた。
力強くも優しいその手つきは、自身の言葉を僕の内部に刷り込むかのようだった。背中で感じる会長の手の温度は、やけに熱く感じた。
「鈴木君は今日、何か悪いことをしたのかい? それで、身体も心も緊張させていたのかな?」
「い、いえ、違います。なにも、僕は、何も……」
「でも、その様子だと何か在ったんだろう? 僕でよければ話を聴くよ」
会長の優しい声にもたれかかるようにして、僕は無意識のうちに唇を動かして、今日のことを喋り出しそうになり、慌てて唇を噤んだ。
その気配は会長も感じ取っていた筈だが、何も言わずに、僕が話し出すのを待ってくれていた。穏やかで遠慮深い沈黙のなかで、僕は腕で涙を拭いながら俯き、緩く首を振った。
「ぃ、いえ、すみません。ありがとうございます」
自分が何に対して謝罪しているのか分からなかったが、感謝の言葉には、にごりけのない僕の気持ちを籠めた。
それ以上は何も言葉を繋げることができないまま、僕は会長が何かを言うのを待たねばならないと思った。すぐに会長が頷く気配があった。
「……そうか。うん。それなら、何があったのかもう訊かないけれど、心のスタミナを使いきりそうになったら、ここに来るといいよ。僕は鈴木君を決して拒まないから。うん」
会長は言いながら僕の肩を少し揺すって、裏口の方へと身体を向ける。僕は顔を上げることができないままで、「はい、はい」と何度も頷いていた。
「それじゃあ、うん、中の電気をつけてくるよ。あぁ、練習を急かす気はないから。鈴木君が落ち着いたらでいいからね。どうせ、まだ誰も来ないだろうし、好きなタイミングで中を使ってくれればいいよ」
この場の空気を深刻にし過ぎないためか、会長は少し明るい声を残して裏口のドアからジムの中へと入って行った。
その場に残された僕はパイプ椅子に座ったままで、地面を見つめていた。
少しすると、ジムの中に普段の音楽が流れ始めるのが分かった。建物の中に籠る音の響きを感じながら、僕はまた学校の教室での時間の光景を思い浮かべた。
クラスメイト達は、今も午後の授業を平和に受けている。
彼らは放課後になれば、部活動に励んだり、友人たちと遊びに出かけたりしているのだろう。
高校時代にしか経験できないことを楽しみ、この高校生活を懐かしく思いながら振り返るとき、彼らの思い出たちは煌めいて見えるに違いない。
それを青春と呼ぶのであれば、山下たちが居る限り、僕にはまったく縁のないものだろうと思えた。
だが、もうそれで良かった。
僕は立ち上がり、荷物を持ってジムの入り口に向かった。
まだ誰も居ないジムに入る。屋内用の運動靴に履き替え、荷物をロッカールームに置かせて貰ってから、僕は鏡張りのスペースの前に立った。
鏡の中の僕の顔を見ると、腫れぼったい目をしていた。充血した眼が強張っている。
何かを言いたそうに僕を見据えてくる彼と向き合いながら、僕はドラッグストアで買った鋏を思い出していた。
あの白い刃の煌めきに似て、今のジムの空気は冷たく冴えていた。ブザーが鳴る。鏡から目を逸らし、僕はジムの空間そのものに向き直るように姿勢を正し、胸を張る。
「これから練習をはじめます。よろしくお願いします」
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