第6話 ロープを潜って



「なぁ、こんなことを正面から訊くのもアレなんだけどよ」


 雑談スペースにあるベンチに座った加藤さんが、隣に座った僕に向き直ってきた。


「お前、学校でイジメられてたりすんのか?」


 練習終わりの加藤さんの頬と額には汗が浮かび、差し込んでくる夕日を受けて光っていた。僕を見据えてくる加藤さんの眼差しにも、鋭い光が宿っている。


「……ど、どう、して、で、ですか?」


 僕は咄嗟に応えられず、どもってしまう。そもそも、どうしてですか? と返した時点で、加藤さんの質問には、部分的に“はい”と答えたようなものだった。


「あぁ。ちょっと前にな、他の練習生から聞いたんだよ。平日の夕方前に、お前がもう練習を始めてたってな。それも、ちょっと泣きながら」


 僕はギクリとして、すぐに声が出ない。唾を飲み込む。思い出す。山下たちにテニスボールを股間にぶつけられ、漏らしてしまった日。会長に優しい言葉をかけてもらった、あの日だ。


「それで他の練習生どもの間では、俺がお前に厳し過ぎるメニューを強制したんじゃないかって、噂になってたらしい。そんなワケねぇだろうが、なぁ?」


 眉を寄せて顎を突き出した加藤さんが、頭を掻いた。


「……まぁ、前も言ったが、このジムは人が少ないからな。居心地もいいけど、その分だけ他の会員の様子も目に付くんだよ」


「僕の、ことを、見、見ているひとが居るんですか?」


 見られている。その言葉に、僕は唾を飲む。


 この上須ジムの空気や空間といったものに受け入れられているつもりだったが、やはり僕は、まだ異物のように見られているのだろうか。胸が軋むような気分だった。


 そんな僕の心情を察してくれたのか。加藤さんは軽く笑って「監視してるって意味じゃねぇぞ」と僕の肩を叩いてくる。


「お、アイツは今日もトレーニングしてるな、ってな具合だ。面子が少ないジムだとな、顔だけ知ってるヤツでも、妙に親近感を持っちまうんだよ」


「そ、その感覚は、わ、分かる、かもしれません」


「だろ? お前はジムでも真面目だからな。会長が用意してくれたメニューを、いつも手を抜かずにやるだろ? ああいうのは、周りのヤツにも分かるんだよ」


「で、でも僕は、初心者用の、き、筋トレベースの、メニューですけど」


「そんなもんは関係ねぇ。試合でもスパーでも、ストレッチでもな、どんなメニューでも真剣さってのは伝わる。こういうのは姿勢と態度の話だからな」


 加藤さんは笑いながら、また僕の肩を掌で叩いてくる。痛いくらいの力強さで。


「お前もな、他のヤツらにいい刺激を与えてんだよ」


 その言葉は、僕の胸の奥深くまで響いた。


 僕は、加藤さんと上須会長の雑談には何度か参加させて貰ったこともある。ミットうちの相手をしてくれるトレーナーの人とも、短い言葉の遣り取りをしたこはあった。


 だが、他の練習生や会員のひととは、ほとんど話をしたことがない。僕にとって彼らは、厳しい練習メニューを淡々とこなす、強靭で活発な先輩たちだ。


 尊敬と憧憬と、僕の臆病が混じり合った感覚で、彼らには近寄りがたさを感じていた。それでも、ジムに通ううちに、僕も彼らの顔は覚えていた。


 名前も知らず、話したこともない他の練習生や会員のひと達が、黙々と身体を動かして汗を流している姿は、いつも僕を鼓舞してくれていた。


 そして僕自身もまた、他の練習生や会員たちに影響を与えていたのだと、加藤さんは教えくれた。嬉しかった。今までに感じたことのない種類の喜びだった。


 ジムで身体を鍛えている僕の姿が、ぎこちなくでもパンチを打つ僕の姿が、息を弾ませて拳を握り締めている僕の姿が、僕以外の誰かの中にも息衝いている。


“学校でイジメられていた僕”とは違う、今、此処にいる僕が、僕以外の誰かの内部で真実になったのだと思った。


 僕の身体が、じんわりと熱くなっていくのを感じた。練習を終えたばかりだったが、またすぐにジムに戻って、筋トレがしたくなった。


 僕は分かりやすく高揚していた。浮かれてはいなかったが、強くなりたいと思った。今までにないほどに。気付けば僕は、ベンチに座ったままで、ぐっぐっと拳を握っていた。


「モチベーションが上がると、トレーニングしたくなるよな」


 僕の隣で加藤さんがニヤニヤと笑う。「は、い。はい」つっかえながら僕は頷く。


「……それで、話を戻すけどよ」


 そこで加藤さんは笑みの温度を変えた。穏やかだが、真面目な目になる。


「いずれな、お前に訊こうとは思ってたんだよ。ほら。お前と初めて会った時も、まぁ、あんな感じだったしよ」


 加藤さんと初めて会ったときの僕は、使われていないビルの階段から身体を突き出していた。


 あのとき、母からの着信が無ければ、そして加藤さんに見つけて貰っていなければ、僕は此処にいなかったかもしれない。


「はい。はい」


 加藤さんの目を見返した僕は、自分でも驚くぐらいに、すんなりと頷いていた。


「そ、そ、そうです。僕は……」


 どもってしまう僕は、いつも上手く喋ることができない。何度かつっかえたり、何度も同じ言葉や単語を連発してしまう。それでも、今の僕の声には芯が通っていた。


「僕は、い、イジメられ、てい、ます」


 現在進行形で言いきるのは、少し勇気が必要だった。だが、“今の僕”には、その勇気があった。ただ、どのような表情をつくればいいのか分からない。


 僕は加藤さんから目を逸らし、俯く。僕の両手の拳が、膝の上で握られている。この拳で、現状を打開することができるだろうか。


「そうか」と加藤さんは言ってから、また僕の肩を叩いてきた。さっきと比べて、かなり微弱な叩き方だった。


「それで、そのいじめっ子どもをぶん殴りたくて、真面目に身体を鍛えてるってわけか」


「い、ぃ、いえ、そういう、ことでは、ないです」


 僕の頭に浮かんだのは、今にも泣きそうな顔で、鼻息を荒くして、無様なファイテイングポーズを必死に維持する北野の姿だった。


「ぼ、僕は、殴れなかった、んです」


 僕は悩んだが、あの北野との一件を加藤さんに話した。それと、僕がどのようなイジメを受けていたのかを。


 加藤さんは憤怒形相で僕のイジメについて聞いていたが、僕が北野との対峙を話すあたりでは、心底から感心したような顔つきになっていた。


「お前……、えらいなぁ」


 詠嘆口調になった加藤さんはベンチに座ったままで、体ごと僕に向き直ってくる。


「今までお前のことをイジメてた奴を、身を張って助けてやったんだろ。しかも、やり返す絶好の機会なのに、それもしないなんてよ」


 小刻みに頷く加藤さんの表情には、僕に対する賞賛と尊敬と、ほんの僅かな羨望のようなものがあった。「お前は、えらい」と最後の言い足した声にも、やけに力が籠っている。


「え、えらく、なんて、ないです」


 加藤さんの方を見れないままの僕は、弱々しく笑うしかなかった。この場では、いや、加藤さんには正直に全てを話すべきだと思った。


 僕は、自分自身の内部を整理するような気持で、今まで誰にも言えなかった本音を、加藤さんに打ち明けていく。


 山下や児玉、北野のことを、殴りつけてやりたいと思っていること。死ねばいいと思っていること。法が許すなら、殺してしまいたいとさえ思うこと。


 だが僕には、北野に対して暴力を振るう決意ができなかったのだと。正しいことを行うよりも、自分の弱さを告白することよりも、僕にとってはずっと難しいことだったと。


「ぼ、僕にとって、は、ひとを、意図的にき、傷つけるのには、何か、普段は決して使うこと、の、ない勇気が、いるんです」


 もしも僕が、誰かに苦痛を与えることに対して躊躇のない人間だったなら、臆病でない人間だったなら、こんなふうにはなっていないだろうと思った。


「……あぁ。そうだよな。それが普通だよ。普通だから、立派なんだよ」


 苦しげに眉間を絞った加藤さんは深く、何度も頷きながら言ってくれる。噛み締めるような言い方だった。加藤さんも膝の上で、きつく拳を握っていた。


「そ、そ、そう、でしょうか」


 曖昧に答えた僕に、加藤さんは小刻みに何度も頷く。やはり苦しそうに。こんな加藤さんを見るのは初めてだった。


「俺も、お前には話しといた方がいいよな。こうやって色々と訊いちまったし、お前が勇気出して打ち明けてくれてんだからな」



 大きく息を吐き出した加藤さんはベンチに座り直し、指が白くなる程に力を込めて握っていた両手を開き、ごしごしと顔を擦った。


「実はな……。俺もイジメられてたんだよ。お前くらいの歳の頃」


 その告白は、僕の胸を打った。プロボクサー経験もある屈強な加藤さんが? 僕は信じられなかったが、今の加藤さんの態度には冗談らしさがない。


「俺の場合は、スマホでチンコを撮られたりとか、そういう陰湿なのとは違って、もっと単純で幼稚な暴力だったな。すれ違いざまに腹を殴られたりとか、いきなり後ろからケツを蹴られたりとか。財布を盗まれたりとかな」


 加藤さんの声音には、過去の苦痛を思い出しているような気配はない。加藤さんの太い声は、いつものように力強い。だが間違いなく、普段とは違う温度の口調だった。


「そういう暴力を日常的に振るわれると、心の緊張が解けなくなるんだよな。殴られたり蹴られたりする恐怖が、四六時中あるしよ。そのスレトスの円形脱毛症で、更にイジメられたぜ」


 ベンチに座っている加藤さんは、地面に向かって笑みを作っていた。加藤さんの足元の影が、夕日を浴びて伸びている。


「俺を殴ったり蹴ったりしてくるヤツは、面白半分の退屈しのぎだったんだろうな。俺が痛がってようが泣いてようが、笑いながら甚振ってきやがる。ああいうのは最悪だ」


「はい。はい」


 僕は加藤さんに何度も頷いていた。真剣に同意していた。加藤さんが顔を上げて僕を見た。穏やかな表情だった。


「やっぱり、お前もそう思うよな」


「はい。はい」


「でも俺は、お前とは違う選択をしたんだよ」


 懺悔のような言い方だった。加藤さんは、肺に溜まった澱んだ空気を、すべて掻き出すような長い溜息を吐いた。


「俺はな、イジメてきた奴らを、イジメ返した」


 そのときの僕は呼吸を忘れるほど、じっと加藤さんを見詰めていた。


「俺はボクシングを始めた。こことは違うジムでな。人の殴り方を覚えて、身体を鍛えてデカくして、他の練習生とつるんでな、復讐したんだよ」


 加藤さんは自嘲的な笑みを浮かべて見せる。この話の深刻さを、せめて和らげようとするかのようだ。


 復讐という生々しい響きは僕にとって、ある種の憧れにも似た、とても甘美なものに聞こえた。それは恐らく、僕には復讐を遂行する度胸が無いからかもしれない。


 だからこそだろう。僕は、加藤さんの話の続きが聞きたくて仕方がなかった。加藤さんが、自分をイジメてきた者達に復讐したという話に、猛烈に惹かれた。


 そこには、僕が選ばなかった、いや選べなかった生き方や経験のようなものがあるように思った。


 僕が生きられなかった人生の断片が、加藤さんの過去に混ざり込んでいるような、そんな感覚だった。


 僕は何度も唾を飲み込み、無言のまま、加藤さんを見つめ続ける。加藤さんも恐らく、今の僕の眼差しのなかにある暗い情熱には気付いている。加藤さんは薄く笑っている。


「聞きたいか?」


「はい。す、すごく、聞きたいです」


「そんな面白いモンじゃねぇけどな」


 加藤さんは片手で顔を擦ってから、また遠い目になって地面を見た。


「俺は、俺がされたことをやり返したんだよ。イジメてた奴を別個に付け回して、取り囲んで、泣くまで小突き回して、金をぶんどった。それも、何度もな。繰り返してやった」


 つまらないものを語るような口調の加藤さんは、動きのない表情で地面を見ている。


「俺がアイツらを取り囲んだ時の、アイツらの顔は傑作だった。鳩が豆鉄砲を食らったっていう言い回しがあるけど、まさにアレだ。何が起きてるのか分からないって顔つきだ」


 今まで散々、人のことを遊び半分で痛めつけてきたくせによ。そう付け足した加藤さんの足元の影が、さっきよりも夕日で伸びて大きくなっている。


「自分が殴られて地面に這い蹲ってるときになって、あいつら、謝ってくるんだよ。今までゴメン、許してくださいってな。涙を流しながら、必死になって拝んできやがった」


 そこで加藤さんが、出来の悪いコントでも思い出したような、乾いた笑い声を出した。


「許すわけねぇだろうが。なぁ?」


 暗い親密さを籠めて、加藤さんが僕を見た。感覚が無くなるぐらい両手の拳を握り締めながら、僕は何度も何度も頷いていた。


 僕の足元にできた影も、差し込んでくる夕日の炙られて大きく伸びている。加藤さんが、また顔を手で擦った。


「そうやってな、イジメてきた奴を順番に取り囲んで痛めつけてやると、あいつらも大人しくなりやがった。しゅんとしてな、俺を避けるようになりやがった。そこからはもう、完全に俺の番だった」


 また地面に目を落とした加藤さんは、口調は明るくした。声も太くなる。


「そいつらとすれ違いざまに、腹でも肩でも脚でも何でもな、殴りつけてやった。いきなり後ろからリバーブローをぶち込んでやったこともある。悶絶してたぜ?」


 だが、まったく楽しそうではなかった。


「やり返して来ようとするヤツはいなかった。そもそも、アイツらは俺をイジメてたんだからな。進学だの何だのを準備しているヤツも少なくなかった」


「自分が、い、ぃ、イジメを、していたことが、露見するのが、怖かった、んですかね?」


「まぁ、そうだろうよ。ザマぁねぇよな。助けを求める資格すら、アイツらには無かったんだからよ。結果的に俺は、暴力を暴力で圧し返して、アイツらを支配したってワケだ」


 そこまで言ってから、加藤さんは眩しそうに夕日を見上げた。それから、僕に笑いかけてくる。


「どうだ、最低だろ?」


「ぃ、いえ」


 僕はすぐに応えられない。だがそれは、頭の中にある言葉が声として出ないだけだった。僕の中には、既に回答があった。感情も落ち着いていた。


「その、と、ときの、加藤さんは」


 だから、どうしても訊きたくなった。


「ど、どんな、気分、でしたか?」


 僕の問いかけを予想していたのかもしれない。加藤さんは肩を竦めただけだった。


「そんなもん決まってる。最高の気分だったぜ。最初だけな。あとは最悪だ」


「そ、そう、なんですね……」


「あぁ。さっきも言ったけどよ。相手が痛がってようが泣いてようが、笑いながら暴力を振るうなんてのは最悪だ。復讐の途中でな、そういう、一番なりたくなかった人間に、俺もなっちまったって気付くんだよ」


「……うん。だからね、どんな理由があっても暴力はいけないんだ。うん」


 雑談スペースの奥の方から、夕日に乗って優しい声が届いてきた。僕と加藤さんは、ハッとして顔を向ける。


「いや、悪いね。うん。雑談に混ざるタイミングが掴めなくてね」


 スポーツタオルを首にかけた、上須会長だった。穏やかな表情で、両手にはミネラルウォーターを持っている。それを僕達に手渡してくれた。


「……盗み聞きはよくないっすよ、会長」


 バツが悪そうに顔を顰めた加藤さんは、ミネラルウォーターを礼も言わずに受け取り、キャップを開けてグビグビと飲んだ。会長が小さく笑う。


「人に暴力を振るうのは、もっとよくないよ」


 諭すような言い方の会長を見上げて、加藤さんは苦り切った顔になった。


「分かってますって。それにしても会長、何処から聞いてたんですか? 俺たちの話」


「あぁ、うん。そうだね。鈴木君が、学校でのことを語っているところからかな。うん」


 会長の穏やかな眼差し。僕は一瞬だけ目を逸らし、だが、すぐに受け止める。


「あのときは、そ、その、正直に、お話、できずに、す、すみません」


「いやいや、謝ってもらうことじゃないよ。うん。」


 僕は頭を下げた。会長が柔和な笑みのままで首を振ってくれる。


「学ぶには相応しいときがある、っていう言葉もあるけど、あれと一緒でね。何かを打ち明ける勇気というのは、相応しいときにでてくるものだから」


 言いながら会長は、加藤さんにも微笑みかけている。加藤さんは、苦笑しながら肩を竦めている。「えぇ、その通りっすね」という具合だった。


「コイツが真剣に話すのを聞いてたら、俺も打ち明けるべきだと思ったんす。会長の言ってた通りっすよ。やっぱりコイツ、他の人間にいい刺激を与えますね」


「うん。どんなリングの上でもね、相手のボクサーの真剣さや誠実さは、真正面から対峙する者には伝わるものさ。うん。それは、どんな場所でも同じだ。向かい合えば、必ず伝わる」


 上須会長の言葉を聞きながら、僕は、あのときの北野を思い出す。


 地下通路で僕と北野は、お互いにファイテイングポーズをとりあい、拳を握り締めて向かい合っていた。


 あのときの北野には、殴り返すという僕の言葉は、きっと真剣なものに聞こえたに違いない。


 それに、僕が構えたファイテイングポーズの奥に、僕が今まで受けてきた苦痛や屈辱を見たのかもしれない。それは北野自身が、僕に与えてきたもののだったはずだ。


「僕も、鈴木君はえらいと思うよ。うん。」


 言いながら会長が、僕の隣に座ってくる。そして、いつかのように、僕の肩や首の付け根を、片手で揉んでくれた。


「今まで受けてきた暴力に対して、理性的に、毅然とした態度をとれるというのは立派なことだよ。うん。とても勇気が必要だったはずだ」


 会長の腕は逞しく、繊細だ。強過ぎず弱過ぎず、絶妙な力加減だった。


「ぃ、いえ、僕のは、ゆ、勇気では無く、ただ、お、臆病だった、だけで……」


 僕は、会長の言葉を素直に受け取るのが難しかった。僕は顔を上げて、加藤さんを見た。


「……加藤さんが、暴力で、やり返したのも、……そもそもの、原因は、イジメてきた方にあるん、ですから。加藤さんが受けた、苦痛が、か、加藤さんを、う、動かしただけで」


 僕の言葉には、まとまりが欠けていた。つっかえてしまう。


 だが、会長はじっと聴いてくれている。加藤さんも、口を引き結んで僕を真っすぐに見詰めている。この2人は、僕が上手く喋れないことを責めることもしない。笑いもしない。


 だから僕も、自分自身の内側にある想いを、出来るだけに正確に言葉にしたくなる。そのために、僕はまたどもる。


 だが、どもっていること自体が、僕が真剣に話そうとしていることの表れだと、会長も加藤さんも、理解してくれているふうだった。


「だか、ら、加藤さんは、最低なんかじゃなくて……。そういう、さ、最低な行いを、させるような原因を、作った方が、最低なんだと、思います」


 僕は言い切る。加藤さんが苦笑した。


「それでも、復讐を選んだのは俺の意志だぜ。お前は、やり返さなかったじゃねぇか」


「やり返すか、やり返したかは、あ、あまり、問題では、ないと、思うんです。だ、だって、そもそも、イジメてくる、方が、絶対に悪いのに……!」


 頭に血が上る感覚があった。


「さ、最初に、暴力を受けた側が、ど、どうして、それに対する、態度の、善し悪しを、審判されなけいと、ぃ、い、いけないのか、わかりません」


 僕は、これだけは言わなければと思った。


「ぼ、僕は、今まで、い、ぃ、イジメられていた場面を、つ、ついさっきの事のように、お、思い出せます。その全部が、ほんの、数分前ぐらいの、鮮明さで……!」


 北野や児玉、山下のことを許せなどと言われても、到底無理だった。ついさっきまで自分のことを蔑み、暴力で甚振り、尊厳を破壊してきてた人間を、どうやって許せというのだろう。


「ぼ、僕は、イジメてきた相手を、許せません。そのことを、許されようとも、お、思いません。だか、ら、加藤さんのことも、最低だとか、そ、そんなふうにも、思いません」


 誰かをイジメた人間は、イジメてきた人間から返ってくる全てを受け容れるべきだと思う。


 お前達が笑いながら傷つけてきた人間は、お前達のことを一生忘れない。


 お前達が遊び半分で暴力を振るった時間は、それを受ける人間の、心の平穏を奪い去り、人生の時間全てに影響を与えるのだから。


 イジメている側が普通の生活をしているときでも、イジメられた側は、決して心が休まることがない毎日を過ごしていたのだから。


 その無責任さを、暢気さを、気楽さを、残酷さを、全て棚に上げて、自分達が幸福な人生を歩めると思っているのなら、僕は本気で、そういう人たちを呪う。


「……お前、やっぱり優しいヤツだよ。俺のことまで庇ってくれるなんてよ」


 加藤さんが眉下げて笑った。申し訳なさそうに。


「ぼ、僕も、加藤さんに、優しく、して貰いました」


 僕も小さく笑みを返した。こんなふうに誰かに笑みを向けるのは、初めてのことだった。


「初めて、会った日から、何度も、何度も、加藤さんは、僕が、い、生きていることを確かめるように、メッセージを、お、送ってくれましたし」


 愛想や見せかけの共感ではない確かな親密さを、僕は加藤さんに感じていた。


 あのビルから跳び下りずに済んだのも、こうしてボクシングを始められたのも、加藤さんの御蔭だった。それに、僕が、“今の僕”と出会えたことも。


「ぼ、僕は、加藤さんが、優しいひとだと、知っていますから。加藤さんのことを、さ、最低だなんて、思えない、です」


 僕が言うと、加藤さんは鼻を掻いてそっぽを向いた。


「ひとの優しさを感じられるとうことは、鈴木君も、同じように優しいということだからね。うん」


 うん、うん、と頷く会長は、ずっと僕の肩と首の付け根をマッサージしてくれている。


「そういうところは、鈴木君の美点だね。うん。これからも、大切にしていくといいよ」


「僕の、場合は、や、優しさでは、なくて、た、ただ、臆病な、だ、だけかもしれません」


 僕は、やはり会長の言葉を上手く受け取れなかった。山下たちに向ける僕の憎悪は本物だ。死ねばいいと願っている。そんな僕に、優しいという言葉は相応しくないと思った。


「臆病さというのは、いちばん柔らかい、優しさの形だよ」


 だが、会長は穏やかに微笑んでくれる。そんなものは関係ないというふうに。僕は、言葉が出なかった。代わりに、少しだけ涙が出た。僕が慌てて腕で拭ったときだった。


「会長。ちょっと、スパー見ててくれませんか」


 雑談スペースに声が飛んでくる。ジムの窓を開けたトレーナーの人が、身を乗り出し、手を挙げている。会長はゆっくりと立ち上がり、手を挙げて応じた。


「うん。すぐに戻るから、準備をお願いするよ。……それじゃあ、僕は少し外すよ。二人とも、今日は練習、おつかれさま」


 はい、おつかれさまです。僕と加藤さんが声を揃えて頭を下げると、会長も僕達に「うん、うん」と穏やかに頷いて、ジムの中に戻っていった。


 雑談スペースには、僕と加藤さんが残される形になる。建物の間を吹き抜けていく夕風が心地よかった。茜色が滲む地面に、僕と加藤さんの影が並んで伸びている。


「でもよ」


 おもむろに、加藤さんが太い声を出した。


「やられたら、やり返したいよな」


 爽快な言い方だった。僕も笑った。


「は、い。はい。それは、や、やっぱり、思いますよ」


「だよな。何か、負けたみたいな気分になるもんな」


 加藤さんは、また僕の肩辺りを軽く叩いてくる。


「でもよ、お前の命の“ランク”は、お前っていう人間の“ランク”は、まだ下がってねぇんだよ」


 それは、プロボクサーだったという加藤さんの自身が辿り着いた、ひとつの人生哲学なのだろう。ランクという言葉の響きには、やはり不思議な重みがあった。


 僕は頷きながら、無数の名が記された名簿を思い浮かべる。そこには僕の名があり、北野や児玉、山下の名前があり、命のランクと、魂のランクが明記されている。


「……僕は、こ、この春休みが、ぉ、終わったら」


 そして、僕と彼らのランクは同じなのだ。

 対等なのだ。優劣は無い。だからこそ――。


「や、やり、返そうと、思います。ぼ、僕なり、の、方法で」


 僕は加藤さんに宣言した。加藤さんがニヤリと笑った。


「おう」


 まるで、親しい友人の決意を祝福するように。


 加藤さんは、僕が暴力を振るい返すことを全く心配していない様子だった。事実、僕もそんなつもりはなかった。そんな勇気も無い。


 だが、戦う意志を見せることはできる。僕はベンチから立ち上がる。練習を終えた僕の体には、充実感が漲っている。小柄なこの肉体には、ちゃんと筋肉がついてきていた。


 それは、傍から見れば僅かな膨らみかもしれない。だが、その筋肉の密度に支えられた僕のパンチは、間違いなく、強くなっていた。


 僕はシャドーで拳を出す。ワンツー。フック。ショートアッパー。ジャブ。ジャブ。ストレート。夕日を浴びた僕の影も、滑らかに動いてパンチを打っている。


 僕は、僕を助けるのだと思った。

“今の僕”が、“イジメられていた僕”を、助けるのだ。


 シャドーをする僕を、加藤さんが見上げている。


「お前のやり方で、そいつらをリングに上げてやれ」


 ボクサーをリングに送り出すように、加藤さんは力の籠った声を発した。


 僕のゴングが、もうすぐ鳴ろうとしている。

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