第十四章 強制終了 (Shutdown)
和田が、通用口の電子ロックを、まるで自分の部屋の鍵でも開けるかのように無効化した時、間宮文彦は、自分がこれから足を踏み入れるのが、もはや自分の知る法治国家の領域ではないことを悟った。
内部は、地獄のディスコのようだった。
紫色の生産照明が、痙攣するように明滅を繰り返し、視界を奪う。焦げ臭い匂いが鼻をつき、足元は、誤作動したスプリンクラーから撒き散らされた水で、水浸しになっていた。そして、地鳴り。建物の基礎が軋むような、断続的な低い振動が、足の裏から内臓へと直接伝わってくる。
「こっちだ!」
和田は、スマートフォンの画面に表示した見取り図を頼りに、迷いなく工場の奥へと進んでいく。その背中を、間宮は必死で追った。道中、壁の配電盤が火花を散らし、棚から滑り落ちた苗が、泥水の中に無残に浮かんでいる。彼の脳裏に、災害対策マニュアルの条文が浮かび、そして意味をなさずに消えていった。これは、彼の知る、どんな災害のカテゴリーにも当てはまらなかった。
やがて、二人は第7プラント区画の入口にたどり着いた。
そこは、全てのカオスの震源地だった。
狂った光の洪水の中、棚から崩れ落ちた何百というレタスが、緑色の絨毯のように床を埋め尽くしている。その中央に、二つの人影があった。
一人は、長谷聖真。
彼は、両腕を広げ、天を仰いでいた。まるで、自らが引き起こしたこの破壊の交響曲に、恍惚と聴き入る指揮者のように。その表情は、歓喜と紙一重の狂気に満ちていた。
そして、もう一人。
彼の数メートル前で、魚留羽依里が、蹲っていた。目に見えない暴風に耐えるように、小さな身体を必死で丸めている。その肩は小刻みに震え、浅く、速い呼吸が、彼女の苦痛を物語っていた。
彼女だ。彼女の心臓の鼓動が、この空間全体を破壊する、巨大な槌となっているのだ。間宮は、理屈ではなく、本能でそれを理解した。
「やめろ、長谷ッ!」
間宮は、我を忘れて叫んでいた。それはもう、市役所職員の声ではなかった。ただの一個人の、剥き出しの叫びだった。
その声に、聖真がゆっくりと振り返った。その目は、神聖な儀式を汚しに来た不浄な者を見る、憎悪と侮蔑の色に染まっていた。
「来るな……! この美を、理解できぬ俗物が!」
「間宮、あの子を!」和田が叫ぶ。「私がこいつを止める!」
その言葉に、間宮は動いた。彼は、聖真の存在など無いかのように、一直線に、蹲る羽依里の元へと駆け寄ろうとした。
だが、彼女に近づくにつれて、凄まじい圧力が全身にのしかかる。空気が、コンクリートのように固くなる。耳の奥で、キーンという高周波が鳴り響き、心臓が、まるで巨大な手で鷲掴みにされたように、不規則に脈打った。呼吸ができない。
それでも、彼は足を止めなかった。歯を食いしばり、一歩、また一歩と、嵐の中心へと進んでいく。
「魚留さん……しっかりしろ!」
その間宮の背後で、和田は、聖真と羽依里の間に立ちはだかっていた。そして、聖真が恍惚と掲げているタブレット――現象を観測し、おそらくは増幅している元凶――に向けて、手に持ったEMP装置のトリガーを、躊躇なく引いた。
パシュッ!
閃光というにはあまりに静かで、音というにはあまりに乾いた、空気が破裂するような音がした。
その瞬間。
聖真の持つタブレットの画面が、ノイズを一瞬だけ走らせ、真っ黒に落ちた。彼が羽依里に向けていたスピーカーから、ブツッ、という断末魔のノイズが響き、そして、永遠の沈黙に沈んだ。
原因と、結果。増幅と、フィードバック。狂気の循環が、断ち切られた。
まるで、巨大な映画館の電源が、一度に落とされたかのように。
工場内の狂乱が、ぴたり、と止んだ。
狂ったように明滅していた照明は、その役目を終えて沈黙し、天井の非常灯だけが、赤い、穏やかな光を投げかけている。機械の異常な唸りも、通常の、眠たいような稼働音に戻った。
聖真は、腕を広げたまま、呆然と、手の中の黒い板を見つめていた。
「あ……ああ……俺の……俺の、作品が……」
彼の世界が、終わった音だった。
羽依里を苛んでいた、嵐のような圧力も、嘘のように消え失せていた。彼女は、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた人形のように、その場に、くたりと倒れ込んだ。
間宮は、最後の力を振り絞って、彼女の身体が床に打ち付けられる寸前に、その華奢な肩を抱きとめた。意識はない。だが、その胸が、か細く、しかし確かに上下しているのを確認し、彼は、全身の力が抜けていくのを感じた。安堵と、これまで感じたことのない奇妙な達成感が、彼の心を支配した。
和田は、役目を終えたEMP装置を、まるで吸い殻でも捨てるかのようにポケットに突っ込むと、呆然と立ち尽くす聖真を、冷徹な目で見下ろした。
「残念だったわね、神様気どり」
その声は、赤い非常灯に照らされた、静かな惨状の中に、無情に響いた。
「あんたの儀式は、ただの迷惑行為として、ここで強制終了よ」
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