第十三章 臨界

1.和田恵子


午前零時を少し回った頃。和田恵子のラボの静寂は、けたたましいアラート音によって、ガラスのように粉砕された。それは、彼女自身が仕掛けた、最終防衛ライン。長谷聖真と間宮文彦、二つの観測データに、設定した閾値を大幅に超える、危険な相関と振幅が同時に発生したことを示す、絶叫のような警告だった。

「……馬鹿が!」

モニターに映し出されたデータを見て、和田は思わず汚い言葉を吐き捨てた。

緑色の『原因波形』は、もはや波ではなかった。痙攣する心臓が描く、断末魔のパルスだ。人間の限界心拍数を遥かに超え、不整脈と心停止の兆候さえ示している。そして、それに呼応する赤い『結果波形』。観測史上、類を見ない巨大なスパイクが、グラフの天井を突き破っていた。これは、もはや『振動』などという生易しいものではない。局地的に発生した、指向性を持つ『衝撃波』だ。

あの音キチ、直接やりやがった。

理屈や分析は、もはや不要だった。聖真が、羽依里に直接接触し、彼女を精神的・肉体的に極限まで追い詰めている。このままでは、彼女の心臓が止まる。

三者会合で提示した選択肢も、築こうとした冷静な対話のテーブルも、あの男の狂気の前には、積み木細工のように無力だった。

和田は、椅子を蹴るように立ち上がった。壁のフックから、黒いライダースジャケットをひったくり、隅に置いてあったフルフェイスのヘルメットを掴む。思考の速度は、すでに物理的な身体を追い越していた。ラップトップに数個のコマンドを打ち込み、ベイサイド・グリーンファクトリーのネットワークへの侵入を試みる。

彼女は、ただの解析者であることを、この瞬間、やめた。


2.間宮文彦


間宮は、自室のベッドの上で、天井の染みを数えていた。眠れなかった。寺嶋茉輝の言葉が、彼の頭の中で、壊れたレコードのように回り続けている。『あんたも舞台に上がっちゃいなさいな』。だが、役を降りた自分に、何ができるというのか。彼の思考は、堂々巡りの袋小路に迷い込んでいた。

その時だった。

ビィィィィィッ!

書斎に置いていた、市役所から無断で持ち出した携帯型の環境観測端末が、甲高い警告音を発した。慌てて駆け寄ると、その小さな液晶画面には、赤い文字で『測定限界超過(OVER LIMIT)』という、絶望的な単語が点滅していた。

彼は、震える手でラップトップを開き、リアルタイムのデータにアクセスする。そして、絶句した。

千鳥町。あの植物工場を中心とした半径約三百メートルのエリアで、局地的な地震としか表現しようのない、凄まじい低周波振動が断続的に発生している。

これは、もう『現象』ではない。『災害』だ。

間に合わなかったのか……!

彼の逡巡が、彼の信じてきた手続きの正しさが、最悪の事態を招いた。激しい自責の念が、彼の胸を焼き尽くす。寺嶋の言葉が、今や、彼を断罪する声となって響いた。

保身も、規則も、秩序も、もはやどうでもよかった。守るべき市民が、今まさに、目の前で、未知の災害に巻き込まれている。

間宮は、ジャケットを掴むと、アパートの部屋を転がり出るように飛び出した。大通りに出て、猛スピードでタクシーを停める。

「千鳥町の、ベイサイド・グリーンファクトリーまで! できるだけ急いでくれ!」

運転手が訝しげな顔をするのを、彼は怒鳴りつけるように急かした。役人としての仮面は、もうどこにもなかった。


3.邂逅


深夜の首都高速を、一台の大型バイクが、赤い光の尾を引きながら疾走していた。和田恵子のヘルメットのシールドには、ハッキングに成功した工場の監視カメラの映像が、ノイズ混じりにAR表示されている。断続的に映し出される、狂ったような光の明滅。内部は、想像を絶するカオスに陥っているに違いなかった。


同じ頃、タクシーの後部座席で、間宮は携帯端末の数値が依然として危険なレベルを示しているのを見ながら、唇を噛み締めていた。

そして、二つの軌道は、巨大な箱型の建物の前で、交錯した。

キィィッ、とアスファルトを削るような音を立ててバイクを急停止させる和田。料金を叩きつけるように払い、タクシーから転がり出る間宮。二人は、排気ガスと潮の匂いが混じる空気の中で、初めて、互いの顔を見た。

「あんたが間宮?」ヘルメットを脱ぎながら、和田が言った。

「あなたが和田さんか。状況は!」間宮の声は、切迫していた。

二人の背後で、植物工場は、嵐の後のように、不気味な静けさを取り戻しつつあった。だが、その壁の向こう側から、くぐもった機械の唸りと、時折、窓から漏れる不規則な閃光が、まだ何も終わっていないことを物語っていた。

「最悪よ」和田は、吐き捨てるように言った。「あの馬鹿、姫さんを暴走させた。二人とも、まだ中にいる」

「……突入する」間宮は、決意を固めて工場の入口を見据えた。

「待ちな。あんた、丸腰でどうすんのよ」

和田は、そう言うと、バイクのシート下から、無骨な金属の塊を取り出した。掌サイズの、携帯型EMP――電磁パルス発生装置だった。

「気休めだけどね。中の電子機器を一時的にでも黙らせられれば、少しはマシになるかもしれない。あの現象、電気系統と相互作用してるフシがあるから」

彼女は、その装置を間宮にではなく、自分自身の手で握りしめた。

「行くわよ。死んだら、あんたの上司に、労災申請しといて」

軽口とは裏腹の、鋭い眼光。間宮は、ただ頷くことしかできなかった。

二人は、巨大な獣が眠るかのような工場の、暗い入口へと、同時に一歩を踏み出した。

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