第十五章 残響

夜明け前の、湿ったアスファルトの上。間宮文彦は、自分の腕の中で意識を失っている魚留羽依里の、穏やかな寝顔を見下ろしていた。背後では、サイレンの音が、悪夢の終わりを告げるファンファーレのように、徐々に近づいてくる。

彼は、ポケットからスマートフォンを取り出し、119番と110番に、立て続けに電話をかけた。その際、彼は、淀みない口調で、自分の所属と名前を告げた。「川崎市役所、地域環境課の間宮です」と。

結局、彼は、その「役」を降りることはできなかったのかもしれない。あるいは、その「役」を背負ったまま、舞台に上がることこそが、彼の選んだ戦い方だったのかもしれない。

腕の中の少女の、微かな重さ。自分が守ったものの実感と、これから始まるであろう、報告書と始末書の山に対する、途方もない憂鬱。その二つが、夜明け前の冷たい空気の中で、奇妙なバランスで彼の心に同居していた。


長谷聖真は、駆けつけた警察官に、何の抵抗も見せず、両手を差し出した。彼の容疑は、建造物侵入、威力業務妨害、そして許可なく特殊な電波を発信したことによる電波法違反。手錠をかけられ、パトカーの後部座席に押し込まれる時、彼は一度だけ、夜空を仰いだ。

取調室の、白い壁と、蛍光灯の光。彼は、疲れた顔の刑事を前に、自分のやってきたことの「真実」を語った。

「私は、未知の物理現象を観測していました。彼女は、ただの人間ではないのです。宇宙の奏でる音楽に共鳴する、生きた受信機で……」

刑事は、黙って聞いていたが、やがて、調書にこう書き込んだ。『被疑者は、意味不明な言動を繰り返しており、薬物使用による心神耗弱の疑いあり』

彼の、世界を揺るがすはずだった偉大な発見は、社会という巨大なシステムの中では、ただの陳腐な犯罪データの一つとして処理され、分類され、やがて忘れられていく。彼の孤独な探究は、最も凡庸な形で、終わりを告げた。


和田恵子は、パトカーのサイレンが聞こえ始める前に、闇に紛れて現場から姿を消していた。彼女は、夜明けの首都高速を、今度はゆっくりと流しながら、自分のラボへと戻った。

そして、いつものように、仕事を開始した。今回の事件に関わる、全てのデジタルな痕跡の消去。長谷聖真、間宮文彦との通信ログ。ベイサイド・グリーンファクトリーのネットワークへの侵入記録。そして、彼女のサーバーに保存されていた、全ての解析データ。それらは、数時間後には、専門家でも復元不可能な、意味のない情報の塵と化した。

ただ一つ、彼女が残したものがある。

暗号化された、ミリタリーグレードの外部ストレージ。その中に、彼女は、魚留羽依里の『心音』の、加工される前の、生のオリジナルデータだけをコピーしていた。

感傷からではない。これは、二度と手に入らない、極めて希少な『サンプル』だった。彼女は、この奇妙な事件から、誰よりも価値のある、美しいガラクタを手に入れたのだ。


数日後、魚留羽依里は、自分のアパートの、がらんどうの部屋で目を覚ました。

病院での検査結果は、異常なし。過労と極度のストレスによる、一過性の意識障害。工場での出来事は、高熱の時に見る悪夢のように、断片的で、現実感がなかった。ただ、あの、自分の内側から響き渡った、恐ろしくも力強い『音』の感触だけが、肌にこびりついていた。

彼女は、いつものように、部屋の静寂の中にいた。

だが、その静けさの質が、以前とは、ほんの少しだけ違って聞こえた。

以前は、外界のノイズから自分を守ってくれる、心地よい『壁』だった。今は、それが、ただ、何も無い『空虚』に感じられる。全ての音が消え失せた世界。それは、彼女が望んでいたはずの場所。なのに、どうしようもない喪失感が、胸に広がっていた。

羽依里は、ゆっくりとベッドから起き上がると、クローゼットの奥の、段ボール箱を開けた。そして、その中から、何年も前にしまい込んでいた、小さなポータブルオーディオプレーヤーを取り出した。

彼女は、その冷たい感触を確かめるように、しばらく握りしめていたが、やがて、付属のイヤホンを、おそるおそる、自分の耳につけた。


同じ頃、スナック「黄昏」のカウンターで、寺嶋茉輝は、挽きたての豆で、一杯のコーヒーを淹れていた。朝の柔らかな光が、店内に転がる無数のガラクタたちを、慈しむように照らし出している。

彼は、テーブルに置かれた新聞の、社会面の片隅に載っている、三行ほどの小さな記事に目を留めた。

『川崎市の植物工場でボヤ、電気系統のトラブルか』

その記事を読み、彼は、くつくつと、楽しそうに笑った。

「結局、幽霊も、神様も、魔法もなかったわねぇ」

彼は、立ち上る湯気の向こう側を見つめながら、独り言ちた。

「ただ、ちょっと不器用で、寂しがり屋で、自分の音叉にぴったり合う音を探してただけの、愛すべきガラクタたちが、いただけ。……まあ、それが、このどうしようもない世界の一番面白いところなんだけど」

寺嶋は、淹れたてのコーヒーを、ゆっくりと一口すする。


その時、店のドアベルが、カラン、と乾いた音を立てた。

物語の、次のページの、最初の音だった。

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