第四章 黄昏のガラクタ
寺嶋茉輝の住処は、川崎の古い商店街から一本路地を入った場所にあった。かつては「スナック 黄昏」という名の店だったらしい。色褪せた看板も、食品サンプルの埃をかぶったショーケースも、そのままになっている。だが、夜になっても、そこに明かりが灯ることはない。
その日、寺嶋はベルベット地のソファが並ぶ薄暗い店内で、カウンターに座っていた。彼が手にしていたのは、客に出すためのグラスではない。ブリキでできた、ぜんまい仕掛けのカナリアだった。精密ドライバーを器用に使い、錆びついた歯車を一つ一つ、ピンセットで磨いている。彼にとって、世界の価値は生産性や機能性にあるのではない。どれだけ美しい「物語」の残骸をその身に宿しているか、という一点にかかっていた。このカナリアは、とうに鳴き方を忘れていたが、その沈黙には半世紀分の時間が詰まっている。
カラン、とドアベルが鳴った。ぜんまい仕掛けの鳥の音ではない。本物の来客だ。
「……開いてるわよ」
寺嶋は手元から顔を上げずに言った。入ってきたのは、場違いなほどに糊のきいたワイシャツとスーツに身を包んだ男だった。年の頃は三十代半ば。その視線は、店の中の雑多なガラクタと、それを手入れする寺嶋の姿を、まるで未知の生物でも観察するようにゆっくりと検分している。
「……寺嶋茉輝氏で、お間違いないでしょうか」
「ええ、そうよ。まあ、座んなさいな。そんな蟻の巣でも見るような目で見られると、むず痒いわ」
男――間宮文彦(まみや ふみひこ)は、寺嶋の軽口を無視して、一番手前の椅子に、スーツの裾を汚さないように気をつけながら腰を下ろした。
「市役所の地域環境課の間宮と申します。先日はお電話で……」
「知ってるわよ。それで? アタシみたいな場末のガラクタ拾いに、お役所の方が何の御用かしら。この店が不法占拠だって言うなら、今すぐ出てってやってもいいけど?」
「いえ、そういうことでは……」間宮は咳払いを一つした。「実は、この千鳥町から扇島にかけての一帯で、ここ数ヶ月、奇妙な現象が観測されていましてね」
「奇妙な現象。素敵じゃない」
「……微弱ですが、非周期的な低周波振動です。発生源が特定できない。住民から苦情が出ているわけではないのですが、我々の定点観測機器が、無視できないレベルの異常値を記録している」
間宮はそう言って、手にしたタブレットの画面を寺嶋に見せた。小刻みに揺れる、無機質な波形のグラフが表示されている。
寺嶋はちらりとそれに目をやっただけで、すぐに手元のカナリアに視線を戻した。
「あら、都市の夢遊病じゃないの。普段はアスファルトの下で眠ってる配管や鉄骨が、みんなが寝静まった後に、こっそり伸びをしてるのよ。あんたたち、そういうロマンは教わらなかった?」
「我々は、事実とデータに基づいて動いています」
間宮は苛立ちを抑えた声で言った。「寺嶋さん。あなたはこの界隈の『情報』に明るいと伺っています。何か、心当たりはありませんか。例えば、違法な電波を発信している者がいるとか、あるいは大規模な機材を無許可で稼働させている工場がある、とか」
寺嶋は、磨き上げた歯車を元の位置に戻すと、ふ、と息を吹きかけた。
「さあねぇ。アタシが知ってるのは、この店の埃が昭和の溜息を吸って育ってるってことと、向かいの家の猫が最近恋に破れたってことくらいよ」
間宮の眉間に、深い皺が刻まれた。この男をからかうのは、上質なシルクをゆっくりと引き裂くような、背徳的な快感があった。
「……では、こういう名前はご存じないか。『HASE-ARMA』」
寺嶋の手が、ピタリと止まった。
「……さあ? どっかの外国の、お洒落なハムのブランドかしら」
「ネット上で活動するサウンドアーティスト、と自称しているようです。彼の活動地域が、このエリアと一致する」
「へえ」
「彼の集めている『音』が、この振動の原因ではないかと、我々は推測している」
「あら、大変。音を集めただけでお縄になるなんて、物騒な世の中になったものねぇ」
間宮は、寺嶋が何かを隠していると確信したようだった。彼は最後のカードを切るように、身を乗り出した。
「もう一つ。これは非公式な情報ですが……その異常な波形は、ある特定の人物の周辺で、特に強く観測される傾向がある」
「……ほう」
「魚留、という姓の少女が、この近くに住んでいる。彼女について、何かご存じのことは?」
魚留。あの、生身の反響板。長谷聖真がこだわっていた少女。
寺嶋の脳裏で、二つの点が線で結ばれた。いや、これは偶然ではない。あの小僧、あの少女に執着するあまり、ストーカーまがいの録音でもしているのではないか。そして、その彼の執心が、観測機器に引っかかるほどの「ノイズ」を世界に撒き散らしているとしたら。
「……知らないわね」
寺嶋はゆっくりと顔を上げ、初めて間宮の目をまっすぐに見た。
「ただ、一つだけ教えてあげる。あんたたちが追いかけてるのは、音の幽霊よ。捕まえようとすればするほど、指の間をすり抜けて、形を変えていく。今のあんたたちのやり方じゃ、その尻尾すら掴めやしないわ」
間宮はしばらく寺嶋の顔を見つめていたが、やがて諦めたように息をつくと、静かに立ち上がった。
「……失礼しました。何か情報があれば、ご一報いただけると助かります」
そう言い残して、彼は店を出て行った。
一人になった寺嶋は、カウンターの上に、ぜんまい仕掛けのカナリアを置いた。そして、ゆっくりと、その背中のねじを巻く。
カチ、カチ、カチ……。
ぜんまいの軋む音。やがて、カナリアはカタカタと震え、ぎこちなくブリキの羽を数回、羽ばたかせた。鳴きはしない。だが、それは確かに、半世紀の沈黙を破って動いていた。
「反響板の少女と、幽霊の声を聴く小僧、ねぇ……」
寺嶋は面白そうに口角を上げた。
「ガラクタ同士、惹かれ合って、とんだ騒ぎを起こしてくれちゃって。最高じゃないの」
彼の住処に転がる無数のガラクタが、その言葉に静かに同意したかのように、薄闇の中で鈍い光を放っていた。
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