第五章 盗まれた心音

長谷聖真の部屋は、音の墓場であり、同時に揺りかごでもあった。壁という壁には吸音材が貼られ、分厚い遮光カーテンが外界の光と音を完全に遮断している。その静寂の中で彼が対峙するのは、彼自身が都市の様々な場所から切り取ってきた、無数の音の断片だ。

彼の目的は、崇高でも、芸術的でもないと自分では思っている。それは分類学者のそれに近い。都市という巨大な生命体が発する音を採取し、分類し、系統樹を作る。いずれは、都市の音響的構造を完全に解明し、その法則性を記述する。それが彼のライフワークであり、誰にも理解されなくていい、自己完結した知的な遊戯のはずだった。

だが、この数日、その遊戯は滞っていた。

モニターには、一つの波形が表示されている。あの日、旧市営プールで録ってしまった、魚留羽依里の水の音。

彼はそのデータを、あらゆる角度から分析しようと試みた。スペクトルアナライザにかけて周波数特性を調べ、オシロスコープで波形を拡大し、位相をずらし、逆再生までした。しかし、何度やっても、その音の本質が掴めなかった。それは、他の環境音――雨音、コンクリートの反響、空気の振動――とは明らかに異質な要素を含んでいた。物理法則だけでは記述できない、非線形で、予測不能なゆらぎ。

それは、彼の完璧なデータセットにおける、許しがたいエラーだった。ノイズだ。削除すべき汚点。

しかし、彼はデリートキーを押すことができなかった。

この音だけが、彼のコレクションの中で、なぜか「生きて」いたからだ。他の全ての音が、死んだ蝶の標本のように美しいまま静止しているのに対し、この音だけが、ガラスケースの中でまだ微かに羽を震わせているように見えた。

寺嶋の言葉が蘇る。『自分の作り上げた完璧な世界の、そのど真ん中に、たった一つだけ、どうしても理解できない異物を置きたがる』。

馬鹿な。自分は研究者だ。アーティストではない。

聖真は苛立ちを振り払うように、チャットウィンドウを開いた。相手は、和田恵子(わだ けいこ)。彼が時折、データの解析や特殊なソフトウェアの開発を依頼している、フリーのプログラマーだ。彼女とは直接会ったことはないが、その技術力だけは信頼していた。


HASE-ARMA: データを送る。環境音に紛れ込んだノイズだ。

HASE-ARMA: この非線形成分の正体を突き止めてほしい。おそらく、記録媒体の磁気ヘッドか、プリアンプの微細な故障に起因する高調波だと思うんだが。


彼はそう打ち込むと、問題の音源ファイルを暗号化して送信した。これは、自分のシステムの欠陥を発見するための、必要な作業だ。そう自分に言い聞かせた。あの音が、羽依里という人間そのものに由来する可能性からは、無意識に目を逸らしていた。


返信は、思ったより早く来た。


W.Keiko: データ受け取り。ちょっと待って。


数分後、再びメッセージが届いた。


W.Keiko: あんた、面白いノイズを拾うね。

W.Keiko: これ、機器の故障じゃないよ。もっと有機的なアルゴリズムだ。

HASE-ARMA: 有機的?

W.Keiko: うん。試しに、うちで開発中の生体信号解析用のフィルターにかけてみたら、ビンゴ。

W.Keiko: これ、生体信号に酷似してる。っていうか、ほぼ心音の変調波形だけど。


聖真の指が、キーボードの上で凍りついた。心音?


W.Keiko: あんた、誰かの心臓の音でも盗録したの? それとも、自分の? 水中で録ったみたいな、妙な減衰とゆらぎがある。被験者の心理状態によって、こういう不規則なゆらぎが出るって論文を読んだことがあるな。


画面に並んだ文字が、意味をなさなかった。ただの白い記号の羅列に見えた。

心臓の音。

あの、ちゃぷん、という重たい水の音。あれは、ただの水が立てた音ではなかったのか。羽依里の、あの時の感情が、緊張が、あるいは安らぎが、心臓の鼓動のリズムを微妙に変化させ、それが彼女の身体を伝い、足から水へ、そして水中の音波となって、彼のマイクに届いたというのか。

彼は、ただの水の音を録ったつもりで、少女の心臓の音を、その魂の律動を、盗んでいた。


彼の科学的探究は、知的好奇心は、意図しないままに、人間存在の最もプライベートで、最も根源的な聖域にまで踏み込んでしまっていた。

これまで彼が集めてきた「都市の幽霊の声」は、所詮、過去の残響、死んだ音の標本だった。だが、これは違う。これは、今まさに生きている人間の、それも最も無防備な状態から発せられた「声」そのものだ。

聖真はゆっくりと顔を上げた。モニターの黒い画面に映る自分の顔から、いつもの理知的な冷静さは消え失せていた。そこに映っていたのは、解析不能な現象を前にした科学者の顔ではなく、神の領域を覗き見てしまった罪人のような、未知への畏怖と、それでもなお抗いがたい渇望が入り混じった、歪んだ表情だった。

これはもう、研究ではない。

彼は、そう悟った。

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