第三章 栽培された沈黙
魚留羽依里の夜は、紫の光に満たされていた。
京浜運河にほど近い埋立地に建つ、巨大な箱のような建物。その中で、彼女はアルバイトをしていた。《ベイサイド・グリーンファクトリー》と名付けられたその植物工場が、彼女のもう一つの水槽だった。
外の世界の季節や天候とは無関係に、ここでは全てが管理されている。温度、湿度、二酸化炭素濃度、そして光。天井から吊るされた無数のLEDライトが、赤と青の光を混ぜ合わせた、非現実的な紫色の光を放ち、棚に並んだレタスの苗を照らし出している。
ゴオォォ……という空調の低い唸りと、培養液がパイプを循環する、せせらぎのような音。それだけが、この巨大な空間の沈黙を支配していた。羽依里は、白い作業着に身を包み、苗が植えられたパネルを一枚一枚チェックしていく。根の張り具合、葉の色つや。作業は単調だが、苦ではなかった。むしろ、思考を停止させ、ただ目の前の生命とシステムの一部になる感覚は、心地よくさえあった。ここでは、誰も彼女に余計な意味を求めない。
「おっはよー、羽依里ちゃーん!」
その人工的な静寂を、ベルベットのカーテンを引き裂くように、明るい声が破った。
振り返ると、同僚の出村璃子(でむら りこ)が、更衣室から出てきたところだった。作業着に着替えてはいるが、その下からのぞく蛍光イエローのインナーや、手首につけたカラフルなブレスレットが、彼女の個性を隠しきれていない。
「……おはよ」
「聞いてよー、昨日観た映画、マジやばかった! 最後、犯人だと思ってたやつが実は双子で、しかもその片割れが主人公の初恋の人だったとか、もう意味わかんないし!」
璃子はこちらの返事など待たずに、立て板に水のごとく喋り続ける。羽依里は「へえ」とも「そう」とも言わず、ただ黙って作業を続けた。璃子はそんな羽依里の態度を気にするそぶりも見せない。彼女にとって、会話はキャッチボールではなく、一人で楽しむジャグリングのようなものらしかった。
「てかさ、この仕事って楽でいいけど、たまに自分がレタスになった気分にならない? この紫の光浴びてると、なんか光合成しちゃいそうじゃない?」
「……別に」
「あ、またそれー。羽依里ちゃんの『別に』、もうスタンプにしてほしいわ。ねえ、今度の日曜、空いてる? 駅前にできたクレープ屋、クリームの量が鬼で、めっちゃインスタ映えするんだって!」
「……日曜は、用事あるから」
とっさに出た、嘘だった。もちろん、何の予定もない。ただ、太陽の下、喧騒の中で、甘ったるいクリームを食べる自分の姿が、全く想像できなかった。
「そっかー、残念。じゃあまた今度誘うね!」
璃子はあっさりと引き下がり、自分の持ち場へと向かった。彼女の天真爛漫さは、時々、羽依里を戸惑わせる。悪意も、下心もない。ただ、そこにある太陽のような存在。その光は、水底の静けさを求める羽依里にとっては、少しばかり眩しすぎた。
しばらくして、休憩時間になった。工場の片隅にある休憩スペースで、羽依里が自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んでいると、璃子がスマホをいじりながら隣に座ってきた。
「あー、昨日のクラブの音、まだ耳の奥に残ってる感じ。心臓に直接ドゥンドゥン響くの、マジでヤバいよね。生きてるって感じしない?」
心臓に直接響く。その言葉に、羽依里はプールサイドで聞いた聖真の言葉を、不意に思い出していた。『ただの『圧』になる』。璃子が言う興奮と、聖真が語った収斂。まるで違うベクトルなのに、根は同じ場所にあるような、奇妙な感覚。
「あ、そうだ」
璃子が何かを思い出したように、スマホの画面を羽依里に向けた。
「この人、知ってる? “HASE-ARMA”って名前で、最近ちょっとアンダーグラウンドで話題のサウンドアーティスト? みたいな人。なんかさ、普通じゃ聴けないような音ばっか集めて、作品にしてるんだって」
画面には、短い動画が映し出されていた。どこかの廃墟らしき場所で、ヘッドホンをつけた男が、地面に置いた機材をじっと見つめている。雨に濡れたような、黒いジャケットの後ろ姿。
紛れもなく、長谷聖真だった。
動画には、金属的で、途切れ途切れの、耳障り一歩手前の音が流れている。おそらく、あの貨物線のレールの上で録った音なのだろう。
「なんか、マニアックすぎて全然わかんないんだけど、一部のガチ勢にはめちゃくちゃ刺さるらしいよ。『都市の幽霊の声を聴く男』とか言われちゃって」
璃子は「意味不明すぎ」と笑いながら、スマホをスクロールさせていく。そこには、好事家たちがつけたであろう、聖真の音源へのタグやコメントが並んでいた。#IndustrialNoise #Ghost_Voice #廃墟音響 #非可聴領域。
羽依里は、何も言えなかった。
あのプールで会った男。自分にだけ分かるような、パーソナルな言葉を投げかけてきた男。その男が、自分の知らない場所で、不特定多数の人間によって発見され、名前をつけられ、評価され、消費されている。その事実が、まるで自分のテリトリーに無断で杭を打ち込まれたような、ざらりとした不快感を胸に広げた。
彼は、都市の幽霊の声を聴いているのではない。
ただ、自分の聞きたい音だけを、身勝手に集めているだけだ。
「……変な人」
羽依里がようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「でしょー?」と璃子は無邪気に笑う。
羽依里は、ペットボトルの冷たい感触を確かめるように、ぎゅっと握りしめた。紫色の光が満たす工場の中で、彼女の守っていた沈黙に、小さな、しかし確かな波紋が立ったのを、自分だけが知っていた。
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