第59話 外伝 怪談師の異界漂流記 ⑩

​ 光の渦の中、只見誠二は奇妙な浮遊感に包まれていた。それはまるで、人生という名のビデオテープを高速で巻き戻されているような、あるいは巨大な流れるプールに身を任せているような感覚だった。


 ディンの泣き顔、エリシアの微笑み、そして北の空にそびえ立つ静寂の塔の残像が、急速に遠ざかっていく。

​(……ああ、本当に終わるんだな。あの大変な毎日が)

​ やがて意識は深い闇へと沈み、次に目を開けたとき、只見の視界を支配していたのは真っ白な天井だった。


 鼻を突く消毒液の匂い。耳に届く規則的な電子音。視線を動かすことはできるが、指一本動かすことができない。自分の体ではないような重だるさが全身を覆っている。

​「あら、只見さん! 気がついたの!?」

​ 駆け寄ってきた看護師が、驚きと安堵の表情を浮かべてナースコールを連打した。少しして、騒ぎを聞きつけた医師やスタッフたちが次々と部屋に飛び込んでくる。


 説明によれば、只見は事務所のビルの三階倉庫で意識を失い倒れているところを、翌朝出勤したスタッフに発見されたのだという。

​「丸三日間、ずっと眠り続けていたんですよ。脳波にも異常はなかったんですが、何かに深く没入しているような不思議な状態で……」


​ 三日間。


 異世界での一年間という月日が、現実の日本ではわずか七十二時間に集約されていた。只見は一般病棟に移された後、駆けつけたマネージャーの「葡萄玉三郎」からさらなる詳細を聞かされた。


​「只見さん、本当に心配しましたよ! このファイルをしっかり抱きしめて倒れていたみたいなんですが、何をしようとしてたんですか?」

​ 玉三郎が手渡してきたのは、使い古された一冊のクリアファイルだった。中には、只見が養成学校時代、脚本の授業で書いた拙いライトノベルの草稿が入っていた。


 課題のテーマは「正月料理の食材を物語に組み込むこと」。

 只見はその時、何気なく「カニ」と「かまぼこ」を選んでいた。

​ ファイルを開くと、そこには「言霊の勇者」が「カニカマー」を開発し、北の果ての少女を救い異界の体験そのもののストーリーが綴られていた。

(結末は現代に戻る前に世界の滅亡を防いだだなんて陳腐な展開だな……ただの夢だったのか? 昔書いた脚本の世界に、脳が逃避していただけなのか?)


​ 退院の日。

 病院の鏡に映った自分の姿を見て、只見は絶句した。

 そこには、かつてのふくよかな姿はなかった。頬はこけ、体は引き締まり、何より瞳の奥に宿る眼光が、現実の日本にいる誰よりも鋭い。三日間の昏睡で痩せたにしては、あまりにも「健康的」な筋肉の付き方だった。

​ 仕事に復帰した只見は、異世界での過酷な移動生活を忘れられず、不摂生を猛省してジムに通い始めた。肉体改造は驚くほどスムーズに進み、数ヶ月後には「怪談界の貴公子プリンス」と呼ばれるほど、筋肉質で精悍な姿へと定着した。


​ ある週末。

 リバウンドを警戒し、昔の太っていた頃の服を整理していた只見は、かつて異世界へ行く当日に着ていた黒のセットアップ・ジャケットを手に取った。

 ふと、ポケットに重みを感じて手を入れる。

​「……ん?」

​ 指先に触れたのは、現代の日本には存在し得ない、重厚な金属の感触だった。

 取り出した手のひらの上には、鈍い輝きを放つ古びた金貨が数枚。


 それは、ディンと旅をしていた頃に報酬として受け取った「エリュシオン金貨」そのものだった。

​「……夢じゃ、なかったんだな」

​ 只見は独りごちて、ふっと微笑んだ。

 彼は冷やかし半分、そして確認のため、テレビCMやラジオCMで頻繁に見聞きする貴金属類買取り店「ゴールド全買取り」の鑑定窓口へその金貨を持ち込むことにした。


​ 数十分後。

 鑑定室の奥から、顔を真っ青にした鑑定士が、震える手でルーペを置きながら出てきた。

​「只見様……これはいったいどこで? 純金なのですが何よりこの刻印……歴史上のどの文明にも属さない、しかし極めて高度な芸術性を持っています。オークションに出品すれば数百万円の値がつくかもしれません……」

 

​ 只見誠二は、金貨は売らないことを驚愕する鑑定士に伝え、軽やかな足取りで店を出た。その後、テレビのお宝鑑定番組に出演し、出品した金貨の鑑定額にスタジオが騒然となるのはまた別の話になる。


 空を見上げると、そこには大阪の街並みとは違う、あの懐かしい紺碧の空が広がっているような気がした。

​ 今日もまた、彼はマイクの前で口を開く。

 異世界で磨き上げられた、最強の「声」を届けるために。

​「——さて。今夜は、少し不思議な旅の話をしましょうか」

​(完)

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