第33話 散華の雷光

 黒炎が渦巻く。

 歪んだ空は地獄の炎のように禍々しく燃え盛り、視界を赤く塗りつぶしていた。

 大地は黒砂で覆われ、そこかしこに得体の知れぬ生物の骸骨が突き出ている。

 瘴気が空気そのものに染み込み、吸い込むだけで肺が焼けるようだ。



 ――ここはアスモデウスが創り出した人の理が及ばぬ異界。



 その中心で、グレアムは神槍グングニルを構えて立っていた。

 正面には、不敵な笑みを浮かべるアスモデウス。

 背後の巨大な黒い鏡には揺らめく影が映り、無数の邪悪な目が覗いている。



 「……こんな空間まで引きずり込むとはな。悪魔の巣そのものか。」



 グレアムが吐き捨てるように呟くと、アスモデウスは喉の奥で愉快そうに笑った。



 「ホホホ……勇ましいな、悪魔殺し。

 だがここではお前の命も魂も、この我の糧にすぎぬ。

 この空間は我が創り出した獲物の墓場…。

 貴様はじっくりゆっくりと死んでいくぞおぉ。」



 嘲笑と同時に、黒炎が奔流となって襲いかかる。

 グレアムは大地を蹴り、槍を横薙ぎに振り抜く。

 炎は裂かれるが、燃え残りが鎖のように絡みつき、皮膚を焦がす。わずかに顔をしかめながらも、彼は怯まなかった。


 「悪魔の力がどうあろうと俺は戦うのみだ!」



 槍が神速のごとく走り、アスモデウスの胸を狙う。

 しかしその刹那、黒い鏡が蠢き、中から伸びる腕が槍を逸らした。

 背後から迫るもう一本の腕をグレアムは肘で弾き飛ばすが、四方八方から同じような影が次々と現れる。



 「フッ……さすがだな。だが数には勝てぬだろう?」

 アスモデウスの声が、歪んだ空に木霊する。



 グレアムは影の一撃を受け流し、槍を突き込む。

 分身のような影は次々と砕け散るが、そのたびに身体を削られる。瘴気に肺を焼かれ、視界が霞んできた。


 「……ぐ……っ……!」


 片膝をついた瞬間、アスモデウスが悠然と歩み寄る。黒炎の刃を形作り、振りかざした。


 「どうした、終わりかな?」


 振り下ろされる一撃。

 その刃に、別の鋭い閃光が割り込んだ。



 ギィィンッ!!と響き渡る剣戟の音。

 アスモデウスの攻撃を弾いたのは――漆黒の剣を握る男。赤く燃える瞳、闇を纏った気配。


 「……ッ!? お前は……。」

 グレアムは驚愕に目を見開いた。


 「……お前…グレゴールか……!」



 かつて共に戦場を駆けた戦友。その姿が、闇を纏いながらも、確かにそこに立っていた。


 その姿に、グレアムは息を呑む。

 (まさか……本当に生きていたのか……だが……その姿は……。)



 彼がここに来る前、胸に抱いていたのは疑念と覚悟だった。

 ――かつての英雄が、権威と己のプライドに溺れ、暴走しているのではないか。

 ならば、かつての戦友であろうと自分の手で討たねばならない、と。



 だが目の前に立つその背中は、黒き魔力に包まれながらも確かに悪魔へと剣を向けている。


 「フンッ、悪魔殺しと呼ばれた元英雄が情けない姿だな…。」



 振り返らずに言い放つその声は、あの頃と変わらぬ響きを帯びていた。

 グレアムの胸に、驚きと疑い、そして言葉にできぬ感情が渦巻く。

 だが、今は――。



 「……それを言うなら貴様も同じようなものだろう…。 

 事情はわからんが、今はこの悪魔を倒すことだけを考えなくてはな。」



 ボロボロになりながらも立ち上がり、槍を構え直したグレアムの瞳に強い光が宿った。

 


 アスモデウスはグレゴールを見ると、嘲笑して言った。

 

 「ホホホ…確かに心臓を貫いた筈だが、死に損なったか…。

 ……だがその闇の魔力の気配……どこかで……。」



 アスモデウスの黒い分身の群れが襲いかかる。

 グレアムは槍を振り抜き、同時に三体を斬り裂くも、背後から迫る刃までは防げない。

 その刹那、漆黒の剣が振るわれ、影の分身がまとめて両断された。



 「…ぐっ…! すまんグレゴール…。」


 「気を抜くな、グレアム!」


 言葉とは裏腹に、二人の動きは噛み合っていた。

 互いの死角を補い合い、時に背を預け、二十年前と変わらぬ連携が自然と蘇っていた。



 アスモデウスは不快そうに顔を歪める。

 「ちっ…元英雄の亡霊め…。」



 黒炎の奔流が地を薙ぎ払い、砂と骸骨を灼き尽くす。

 瘴気に蝕まれたグレアムの肺は焼けるように苦しい。

 それでも槍を構え直し、叫ぶ。


 「グレゴール、合わせろ!」


 「私に指図するな!」



 二人は同時に駆けた。

 グレアムの神槍グングニルが鏡から伸びる黒腕を裂き、空いた軌道をグレゴールが一気に駆け抜ける。

 闇を纏った剣が振り下ろされ、アスモデウスの片翼を抉った。



 「ぐぅッ……!」

 悪魔が初めて血を流す。



 怯んだ隙を逃さず、グレアムが槍を突き込む。

 「滅びよ!」


 穂先がアスモデウスの胸をかすめ、黒き異界の空間に亀裂が走った。


 「なに……ッ!? 我が世界が……!」



 アスモデウスの悲鳴とともに、周囲を覆っていた鏡と瘴気が砕け散る。

 異界の空が崩れ、紅蓮の裂け目が広がり、現実世界の光が差し込んできた。



 グレアムとグレゴールは同時に飛び退き、最後の爆ぜる衝撃波を抜ける。

 次の瞬間、彼らの身体は現実世界へと弾き出された。


---


 裂けた空間から三つの影が弾き出された。

 先頭にグレアム。隣に闇を纏うグレゴール。

 そしてその後ろで、黒炎を渦巻かせるアスモデウスが現れる。



 舞い散る砂塵の向こうに、皆がグレゴールの姿を見た瞬間、驚愕した。

 

 

 「グレゴール……!?」 


 「生きていたのか…!

 …まさかあんたも闇の力で…。」



 蒼井レイモンドは父の姿の変わりように驚き、レオンとザフィーラは目の前でアスモデウスに殺されたはずが生きていることに驚きつつも、闇の魔力を纏うその姿に納得する。



 グレゴールはふたりの動揺を切り捨てるように低く言い放つ。


 「くだらん話は後にしろ。

 目の前の悪魔を斬り伏せる方が先だ。」



 そして視線を蒼井に移し、短く告げる。


 「レイモンド……この一時だけだ。この悪魔を討つまで手を貸せ!」



 蒼井は雪霞を構え、静かに頷いた。

 槍と剣が再び持ち上がり、アスモデウスを挟んで対峙する。


 黒炎が爆ぜ、空気が焼けただれる。

 決戦は、ここから始まる――。


---


 砂漠が震えた。

 アスモデウスが怒号を放つと同時に、地平線まで広がる大地が闇に呑まれていく。

 空が赤黒く染まり、時空がねじれ、砂漠の砂は黒く染まり、そこかしこから不気味な影が蠢き始めた。


 「まさかザフィーラ……本当に正気に戻っただと……!? 我が闇を拒むかァァッ!!」



 アスモデウスの声は天地を裂き、姿はさらに異形に変貌した。

 筋肉と闇の瘴気が入り混じった巨大な腕。背から伸びる無数の黒い刃。

 その爪が振り下ろされるたびに残像が走り、空間そのものが切り裂かれていく。



 「来るぞッ!!」

 グレアムが叫び、全員が迎え撃つ。



 仲間全員が総力を振り絞り、次々と連撃を叩き込む。


 だが――。


 「ハハハァ、我が闇に敵うものなどない!!」


 アスモデウスは咆哮し、その傷口を闇の瘴気で即座に再生させていく。

 確かに斬り裂き、確かに穿っているはずなのに、その姿には揺らぎすら見えなかった。



 「ちっ……どれだけ攻撃しても効いてねぇ!」カイルが歯ぎしりする。


 「あれが“混沌”の悪魔……。みんな!」ザフィーラが仲間達に呼びかける。



 彼女の声に皆の視線が向く。

 ザフィーラは、闇に覆われたアスモデウスを睨みつけながら、みぞおちに嵌め込まれた蒼雷の魔導石へと手を添えた。



 「武器で傷をつけても意味はない。必要なのは闇を掻き消すための、強大な“光の力”。」



 その言葉に、全員が一瞬、攻撃の手を止めた。

 アスモデウスが追撃を仕掛けようとするのを、グレゴールとグレアムが剣を交差させ、時間を稼ぐ。



 そして――ザフィーラは静かに目を閉じた。


 蒼雷の魔導石に手を当てたまま、ザフィーラは深く息を吸い込んだ。

 彼女の表情に、もう迷いはなかった。


 「……聞いておくれ…。」

 静かな声に、皆の動きが止まる。



 「シエラ、ライザ……。」

 振り返ったその瞳は、慈しむ母そのものだった。


 「二人とも……強く、綺麗な女の子になってくれたね。私の誇りだよ。これなら……安心だ。」



 シエラとライザは涙を浮かべながらザフィーラに駆け寄ろうとするが、彼女は優しく微笑み制止した。

 


 次に視線はカイルへ。

 「カイル。私はあんたを本当の息子だと思って育てた。その剣を託したのも……あんたならその剣を正しいことに使う、強い男になると思ったからだ。

 ……これからも熱い男で居続けるんだよ。」


 「何言ってんだ…?よせよその言い方……!!」カイルの目が大きく揺れる。



 そして――最後にレオンの前に歩み寄る。

 頬にそっと手を伸ばし、撫でる。

 「どうやら……私はどこまでも、あんたを愛してるみたいだ。」


 レオンの瞳が震え、何かを言おうとする。

 しかし、ザフィーラは小さく笑って遮った。


 「でも、ちゃんと“親父”としての責任は果たすんだよ、レオン。」



 その瞬間、彼女の身体が蒼雷の魔導石と共鳴し始める。

 青白い光が走り、雷鳴が空を裂いた。



 「よせぇぇ!!」

 レオンが叫ぶ声を背に、彼女はただ前を向いた。



 アスモデウスが迫る。

 空間を裂き、歪な残像を残し、巨大な爪が振り下ろされる。



 ザフィーラは一歩も退かず、雷光を纏ったまま、真正面からその爪に向かって突進した――。


 雷鳴が轟き、闇に染まる砂漠の大地を駆ける。

 ザフィーラの全身は蒼雷の魔導石と同化し、青白い稲妻が迸っていた。


 「我がものにならぬなら死ねえぇぇ!!」


 アスモデウスの口から咆哮がほとばしる。


 歪んだ体躯がさらに膨れ上がり、両腕から伸びた爪が影の残像を幾重にも生み出し、全方位から切り裂こうと迫った。


 だが――ザフィーラは止まらなかった。


 雷光と共に突進する。

 その身は爪に貫かれ、肉を裂かれ、血が弾け飛んだ。

 しかし痛みをものともせず、青白い閃光が闇を押し返していく。


 「消えなクソ悪魔!!」


 彼女の叫びが空を震わせた瞬間、雷光が爆ぜ、稲妻がアスモデウスの胸を貫いた。


 「ぐ……ぐあああッ!!」


 アスモデウスが絶叫する。

 闇の衣が裂け、心臓部に走った雷光が内側から肉体を焼き尽くす。


 次の瞬間――。

 強烈な光が炸裂し、ザフィーラの姿は雷鳴と共に掻き消えた。



 砂漠に残ったのは、膝をつき呻くアスモデウス。

 その身体を覆っていた闇は消え失せ、震える声で呟いた。


 「ば……かな……。我が闇が……砕けるなど……!

 ありえん…!!」



 涙を流し立ち尽くす仲間たちの前で、アスモデウスはなおも必死に立ち上がろうとする。



 レオンは既にアスモデウスに向かって駆けていた。

 ザフィーラの最後の想い、そして涙と共に。


 「終わりだ、クソ悪魔ぁ!!」


 レオンの刃は真っ直ぐアスモデウスに振り下ろされた。

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