第34話 英雄の最期

 レオンの両目から、とうに枯れ果てたはずの涙が溢れ出していた。

 それでも彼は、己の使命を忘れない。



 満身創痍の体を振り絞り、レオンは大剣を構えて高く跳躍した。

 落下と同時に振り下ろされた一撃は、もはや抵抗する力を失ったアスモデウスの身体を深々と断ち割る。


「ぐ……おおぉ……!」



 禍々しい咆哮とともに、アスモデウスは膝をついた。

 闇に覆われていた外殻が崩れ落ち、見るも無惨に弱り果てた悪魔の姿が露わになる。



 その瞬間、カイルが歩み出た。

 眼差しは怒りに燃え、声は低く、震えていた。


「よぉ……俺を殺したくてたまらなかったんだよなぁ。」


 アスモデウスが何かを言い返そうとした刹那、カイルは吐き捨てるように叫んだ。


「残念だったな、ストーカー悪魔がぁッ!!」



 大剣が唸りを上げる。

 凄まじい速度で乱舞する刃は、有無を言わせずアスモデウスの身体を細切れに刻んだ。

 血も肉も飛び散らない。ただ虚ろな塵となり、悪魔は断末魔すら許されず消えていく。



 その場にはただ静けさだけが残された。



 カイルは大剣を地面に突き立て、肩で荒く息をする。

 怒りを吐き出した直後の空虚さに襲われ、歯を食いしばりながらも、ただ剣を握り締めていた。



 レオンは崩れ落ちそうになる身体を無理やり支え、血に濡れた頬を拭おうともしなかった。

 視線は、最後まで戦い抜いたザフィーラが消えていった場所に釘付けになっている。


「……お前の犠牲、無駄にはしない……。」


 誰に聞かせるでもなく、かすれた声で呟いた。



 ライザはハンマーと共にその場に倒れ込み、シエラは胸を押さえ、涙を流していた。

 戦いが終わった安堵よりも、ザフィーラを失った痛みのほうが大きい。

 リタはそんなシエラの肩を抱き寄せながら、じっと前を向いていた。

 ふと震える手で自分の腹部の聖なる魔導石に触れる。

 ザフィーラが同じようにみぞおちに魔導石を抱き、最後の光となった姿が頭から離れない。


 彼女は祈るように小さく呟いた。


「……あなたが守ってくれた道を、私達が……。」



 エリックは倒れ込むように膝をつき放心状態で空を見上げ、そしてグレアムは血に濡れた胸を押さえながら静かに目を閉じる。


「……悪魔がこの世界にまだいるのか…。」



 かつて数々の仲間を失いながらも悪魔を葬り去った戦いの記憶と喪失感が入り混じる。


 それぞれの想いが渦巻く中、ただ砂漠の風だけが吹き抜けていく。



 ――だが、終わりではなかった。



 皆が疲弊し、膝を折り、互いに寄り添う中――ただ一人、グレゴールだけが立っていた。


 赤い眼光を放つその姿は、英雄と呼ばれたかつての面影をかろうじて留めながらも、闇に蝕まれた異様な気配を漂わせている。

 彼は大きく息を吐き、血に濡れた口元を拭った。


「……まだ終わりじゃない…!!」


 低く、地を揺らすような声が響く。

 その声音に、全員の視線が一斉に彼へ向けられた。



 グレゴールは剣を握り直し、前に出る。

 その瞳がまっすぐに捉えたのは、ただ一人――息子、蒼井レイモンドだった。


「…騎士団を裏切った愚息……レイモンドをここで粛清する…。」


 声が震え、しかし確かな響きをもっていた。


「……英雄に求められるのは確かな強さ、そして実績だ。何としても……最後に示さねばならぬ…。」



 息子の前に立つその背筋は、死を悟りながらもなお折れてはいない。

 彼は剣を持ち上げ、重く言い放った。


「我が血を継ぐ者よ、最後の決闘を申し込む…!」



 場の空気が凍り付く。

 グレアムも苦しげに咳き込みながら、必死に諌める。


「グレゴール…。この期に及んでまだ戦う気か…!」


 だがグレゴールは首を振り、赤い眼でグレアムを見返した。


「これが……私の誇りだ。英雄としての矜持を、最後に刻まねばならん…!!」



 レイモンドは父を見据え、静かに刀の柄へ手を置いた。

 その瞳に迷いはない。


「……わかった。」


 父の意志に確かに応える。


「父上の最後の誇り……この手で受け止めよう。

 手出しは無用。」



 グレアムも息を呑み、他の仲間たちも黙って成り行きを見守るしかなかった。



 砂漠の風が、二人の間を吹き抜ける。

 英雄であり、父であった男と、その血を継ぐ息子。

 一瞬の静寂――そして決戦の幕が上がろうとしていた。


 

 砂漠に沈黙が落ちた。

 ただ風の音と、二人の呼吸だけが響いている。



 最初に動いたのはグレゴールだった。

 闇を纏うその巨躯が、一瞬で距離を詰める。

 砂を爆ぜさせながら、剣がとてつもない速さで振り下ろされた。



 ――重い。鋭い。

 幾多の戦場を駆け抜け、英雄と呼ばれた剣。

 その一撃は容赦なく息子の命を奪わんとして迫る。



 だが蒼井レイモンドは、微動だにせず刀を横に払った。

 火花が散り、衝撃で砂が舞う。

 彼は一歩も退かず、ただ冷静に受け流す。



「ほう……!」


 グレゴールの目に赤い光が揺れた。

 次の瞬間、斬撃、突き、足払い、体当たり。

 怒涛の猛攻が襲い掛かる。



 レイモンドは一歩下がり、流し、受け止め、身を捻り――すべてを難なくいなした。

 刃と刃がぶつかるたび、耳を裂く金属音が響く。

 だがその瞳は決して揺れない。



「防ぐだけで勝てはせんぞ!」


 グレゴールは笑った。荒々しく、血を吐きながら。

 その剣には命の灯火が消えかかっているとは思えぬ気迫が宿っている。

 しかし、確かに隙も生まれはじめていた。



 次の瞬間――

 グレゴールが踏み込む。砂を抉る音と同時に、渾身の突き。

 見守る仲間たちの誰もが、避けられぬと思った。



 だが、レイモンドはほんの半歩、身体を捻っただけだった。

 突きは空を裂き、彼の肩先を掠める。



 そして。「影抜き……。」


 小さく呟いた瞬間、蒼井のアマツ刀は吹き抜ける雪の結晶のように横に振り抜かれた。

 流れるような動作。一切の力みのない一閃。

 それでも刃は鎧ごと父の胸を断ち切った。



 時間が止まったように見えた。

 次の瞬間、鮮血が砂を赤く染め、グレゴールの巨体がぐらりと傾く。


 グレゴールはゆっくりと膝を折り、剣を地面に突き立てる。

 

 赤い眼光が揺らぎ、闇を纏った巨躯が大きく揺れる。

 グレゴールは胸を押さえ、切っ先を地に落としながらも、まだ剣を手放さなかった。



「……見事だ、レイモンド……。」



 次の瞬間、血に濡れた砂の上に、グレゴールは膝をついて崩れ落ちた。

 その巨体から剣が滑り落ち、砂に突き刺さる。呼吸は荒く、すでに命の炎は今にも消えようとしていた。



 グレアムがゆっくりと歩み寄り、倒れ伏した戦友に声をかける。


「……グレゴール。」


 苦痛に歪む顔を上げ、グレゴールはかすかに笑った。


「戦友よ……どうやら私は……英雄の器ではなかったようだ……。

 力を…示せなかった…。」



 その言葉に、グレアムは静かに首を振る。


「お前は誰よりも正義に固執した。

 だが世界は、そう単純じゃない…。

 そのズレがお前を狂わした。」


 彼は血に濡れた戦友を見下ろし、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……そんな中でも、お前は戦い抜いた。

 胸を張れ、グレゴール。

 俺達の時代は終わったんだ。

 次の世代に託すんだ…。」



 その時だった。


 薄れていく視界の中で、グレゴールは懐かしい姿を見た。

 和服の裾が揺れ、柔らかな黒髪が光に照らされる。そこに立っていたのは、亡き妻――蒼井静。

 しかし彼女の姿は、グレゴールにしか見えていない。


「……静……!」


 震える声で名を呼ぶ。


 静は何も言わない。ただ優しく微笑みを浮かべ、こちらを見ている。

 その微笑みは、戦乱に身を投じた男の荒んだ心を、ひとときで癒す。


「……静……私を……許してくれるのか……。

 すまない…私は…強さこそ……力でしか守れないものがあると……それでもお前を……守れなかっ……。」


 掠れる声が、風に消えていく。


 静はゆるやかに手を差し伸べた。

 その手は温かく、優しい光を帯びているように見えた。



 グレゴールは震える手を持ち上げる。だがその力は、もはや尽きかけていた。

 それでも彼は妻に触れようとする――最後の望みを込めて。



 指先が届きそうになった瞬間、彼の瞳から光が失われた。

 大地に倒れ伏すと同時に、赤い眼光も、闇の気配も、すべてが消え去った。



 英雄グレゴールは、妻の幻影に見守られながら――静かに絶命した。

 その場にいた誰もが、沈黙したまま目を閉じ、ひとりの男の終焉を心に刻んだ。



 皆が見守る中、レオンは深く息を吐き、静かに口を開いた。

「……この英雄を、丁重に葬ろう。」



 その言葉に、皆がうなずく。

 蒼井はわずかに目を伏せ、鞘へ刀を納めた。


「……ああ。」


 戦いの熱が過ぎ去った砂漠に、静かな風が吹いた。



----


 砂を積み上げ、石を並べ、グレゴールの墓は形を成した。

 一同はその前に立ち、沈黙の祈りを捧げる。

 風が吹き抜け、砂が舞い上がる。

 その音だけが、彼らの胸の重みを語っていた。



 やがて祈りを終え、グレアムとレオンが前に出る。

 二人の顔には、安堵ではなく深い憂慮が刻まれていた。


 グレアムは低い声で告げる。

「悪魔アスモデウス、騎士団長も死んだ……だが問題は山積みだ…。」



 レオンが眉をひそめ、墓を見据えたまま応じる。


「あの村を滅ぼしたことで、過激派ザイファは必ず報復に動く。」



 さらにグレアムは言葉を重ねる。


「それだけではない。政府も国王も、どんな手を使ってでもノア連邦に責任を押し付ける……戦争の火種となるだろう…。」



 砂漠に重苦しい沈黙が降りる。

 ひとつの戦いは終わった。しかし、次なる脅威の気配はすでに迫っていた。



 英雄の墓に残された影は、決して消えない――。

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