第三十九話【広辞苑・六版・生体反応有】
言葉とは不思議なものでございます。
定義されることで生まれ、使われることで育ち、忘れられることで死ぬ――まるで命のよう。
そして古書として綴じ込められた“言葉の墓場”には、時として息を吹き返すものもあるのです。
さて今宵、私が読み語るのは……
決して声に出してはならぬ、意味が変化を続ける“生きた辞書”にまつわる一冊。
どうか言葉を信じすぎず、慎重に読み進めて――
⸻
辞書に違和感を覚えたのは、書斎の整理をしていたときだった。
本棚の奥にあった段ボール箱。
その中に、やけに重たい辞書が入っていた。
『広辞苑 第六版』
表紙は革のようにしっとりとしていて、持つとほんのりと温かい。
日焼けもカビもないのに、どこか古びて感じるのは気のせいだろうか。
ページをめくると、そこには見慣れた語釈がずらりと並んでいた。
だが、ふと目にとまった項目――
《ヒト(人)》
この文字がふと気になり、手が止まった。
> ヒト【人】
> 哺乳綱霊長目ヒト科の動物。個としての存在は曖昧であり、社会的役割を失うと識別不能となる。感情と理性はしばしば錯誤を起こし、最終的には「別モノ」として再定義される。
……こんな説明、載っていただろうか?
試しに別の言葉も引いてみた。
《死》は、
> シ【死】
> 現象の一種。肉体の終わりではあるが、認識が継続する場合がある。
> 他者によって観測されることで固定されるが、観測がなければ曖昧な状態を保ち続ける。
背筋に冷たいものが走った。
まるで、辞書が“概念の再定義”を始めているようだった。
辞書は、それでも静かに、そこにあった。
何が「おかしい」のかを誰かに相談することもできず、ページを閉じて元の箱に戻したが……不思議なことに、それ以来、日常の中の“言葉”が少しずつ狂い始めた。
たとえば、朝の通勤電車。
車内放送がこう言った。
「次は……“境界”です。お降りの際は、存在の輪郭をご確認ください」
周囲の人々は何も気にしていない様子だったが、自分の耳には確かに「存在の輪郭」と聞こえた。
それが「境界駅」のことでないのは明らかだった。
そもそもそんな駅、存在しない。
会社に着いて同僚と交わした挨拶も、妙だった。
「おはようございます」
「おはよう。今日はちゃんと“在って”ますね」
在っている……? “いる”ではなく?
帰宅して広辞苑を開いた。
紙の手触りが変わっている。さらさらだったはずのページが、どこかしっとりと肌に吸いつく。文字は、少しずつ組み替わっていた。
> アイサツ【挨拶】
> 人と人との存在確認。視線や発声を通じて、「ここに居る」と示す儀式的行為。応じない者は認識が曖昧となり、次第に記録から消える。
気づけば、「曖昧」という言葉の使用頻度が急に増えている。
辞書の中だけではない。
広告、メール、テレビの字幕――どれもが、じわじわと変容していく。
まるで、言葉の“根”が掘り直されているようだった。
その夜、自室に置いた広辞苑が勝手に開いていた。
ページは「ひ」の項。開かれていたのは――
> ヒト【人】
> 発語により自己を規定し、記録により世界に定着する存在。言葉を失った者は、人ではない。
声を上げかけたが、喉から言葉が出なかった。
舌が重い。
発声がうまくいかない。
いや、それ以前に、思い浮かべるべき言葉がどこにもない。
ページが音もなく、するり、とめくられていく。
「ま」「み」「む」……目の前で辞書が勝手に動いていた。
あたかも、誰かが――いや、「それ」が、読み進めているように。
止まったのは、「よ」の項。
目を凝らすと、赤黒いインクでこう記されていた。
> ヨビゴエ【呼び声】
> 未定義の語に向けて発せられる音の総称。応じた瞬間、定義が与えられ、存在が確定する。ゆえに、応じてはならない。
息を呑んだ瞬間、背後から――
「……あなたは、何?」
誰かの声がした。
男とも女ともつかぬ、しかし確かに「読んでいる」声だった。
振り返れない。
だが感じる。
ページを捲る気配と共に、「わたし」が書き換えられていく。
広辞苑の最後のページに、見たことのない項が現れた。
> トウドウ・シマ【藤堂 梓馬】
> 書に棲まう語り部。読まれることで生き、語ることで他者を定義する。名を失うと語る力も消える。
その瞬間、本のページが風もないのに荒れ狂った。
声が、いくつもの声が、語彙の海から湧き上がる。
「だれ?」
「だれ?」
「あなたのことばは?」
書き換えられるのは、世界のほうだった。
語ることを止めれば、「意味」は崩れ、「人」は消える。
だから、語り部は黙ってはいけない。
どれだけ恐ろしくとも。
どれだけ言葉が歪もうとも。
――読むことで、繋ぎとめるのだ。この世界を。
⸻
言葉とは、道具であり、武器であり、そして――呪いです。
日常に当たり前のようにある広辞苑という存在が、もしも“意志”を持ったなら。
それは、言葉を定義することをやめないでしょう。
世界を、他人を、あなた自身をも「書き換える」ために。
言葉にできるものは、存在し。
言葉にできないものは、存在しない。
その無言の支配に、あなたは気づいていましたか?
読む者の名を、語る者の意味を。
ページの隙間で待つ“それ”は、今日も誰かを「記す」準備をしているのかもしれません。
……どうか、発する言葉にはお気をつけて。
次にそれが記すのは、あなたの名前かもしれませんから。
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