第三十八話【真贋ノ帳】
読書とは、不思議なものです。
己を深く知る手がかりにもなれば、
まったく別人の人生を旅するきっかけにもなる。
けれど、もし――
読むたびに、自分が“他人の言葉”に塗り替えられていくとしたら。
もし、本の中の物語に、自分自身の“明日”が書かれていたとしたら。
その本を、あなたは――読み進めますか?
読むことよりも、読み終えてからが肝心なのです。
さて今宵、私が読み語るのは……
決して声に出してはならぬ、
「贋のまま生きることの甘美さ」にまつわる一冊。
どうか最後のページまで、自分を見失わずに――
⸻
それは、よく晴れた冬の日だったという。
閉店間際の「しじま堂」に、一人の若い女性が駆け込んできた。
肩で息をしながら、コートの下から大事そうに何かを抱えている。
「……これ、引き取ってもらえませんか」
彼女が差し出したのは、黒革で装丁された小さな手帳だった。
手のひらより少し大きい程度だが、まるでそれが全てを記しているような、重さと気配を湛えていた。
藤堂梓馬は手袋を外し、丁寧にそれを受け取る。
「どういった経緯のものか、差し支えなければ」
女性は一瞬、躊躇した様子を見せたが、やがてぽつぽつと語り始めた。
その手帳は、彼女の曽祖父にあたる人物が使っていたという。
医師として戦前から戦後を生き抜き、後年は大学で解剖学を教えていた。
彼の死後、遺品の整理中に見つかったのがこの手帳で、中には細かな走り書きと共に、数多くの人物の“観察記録”のようなものが残されていた。
……ただし、問題はその内容だった。
「どのページにも、“私のこと”が書かれているんです。生年月日や性格、口癖……ついには、これから言うであろう言葉まで。まるで、未来を予言しているみたいに」
最初は悪戯だと思った。だが読み進めるうち、彼女はあることに気づいてしまう。
――その記録の主語は「彼女」ではなかった。
常に「私」と記されていたのだ。
私は〇〇と話した。私はこう思った。私はこの先こうする、と。
書かれていたのは、彼女自身の視点からの“未来”であり、彼女が何をして、何を考え、誰と出会い、何を失うのか――その全てだった。
「このままじゃ、私は……この帳面の“誰か”になってしまう気がして……」
語り終えた女性は、涙を浮かべながら手帳を差し出した。
藤堂は黙って手帳を開き、最初の一文を確かめる。
《私が“本物”だったのは、たった一度きりの夜だけだった》
それは、書いた者のものなのか、読まされる者のものなのか。
真贋の境が曖昧になる夜が、またひとつ始まろうとしていた。
その夜、藤堂は帳面を開いたまま、読書灯の下でじっと動かずにいた。
ページの端がわずかに湿っている。
インクがにじんだ跡は、記された内容の重さと比例するかのように、いくつかの言葉をぼかしていた。
──次に手帳を開いた者は、その内容に抗えぬ。
そんな言葉が、背表紙の裏に赤いインクで書かれているのを見つけたとき、藤堂は唇の端をゆるく上げた。
「随分と手の込んだ……これは“そういう類”のものだな」
彼が指先でなぞったのは、女が語っていた「私」の一人称視点の記述だった。
しかし、そこに違和感が生じたのは、二十ページ目を過ぎたあたりだった。
《私は“古書店の男”に帳面を託した。だがあの男は、すでに“もう一つの私”に気づいていた》
……これは、彼女の記憶ではない。
そしてさらにページをめくると、ある記述が目に留まる。
《“語り部”が読めば、真贋の帳は次の“器”を求める。だから、彼は読んではならない》
藤堂の目元から、静かに光が消えた。
ゆっくりとページを閉じると、背後にあったはずの時計の音が止まっていた。部屋の空気が重くなる。
「なるほど、選ばれたのは“私”というわけか」
そしてふと、彼はあることに気づく。
帳面の内容が、読んでいた順番と一致しない。
まるで、帳面の方が“読み手に合わせて”構成を変えているかのように、記述が再構成されている。
つまり、「読む」という行為自体が、この帳面にとっては“改変”であり、あるいは“上書き”なのだ。
気づいた時にはもう遅い。
ページの余白に、新たな筆跡が浮かび上がっていた。
《“彼”は今、ページを閉じた。だから次に開く者に、この続きを託す》
しじま堂の扉が軋みを上げて閉じられると、店内は再び、まるで時を止めたかのような静寂に包まれた。
だが──
帳面はまだ、読まれ終えていなかった。
閉じられたはずの表紙が、ぴたり、と勝手に開く。
風はない。
誰の手も触れていない。
それでも、帳面はページをめくり始めた。
藤堂は読書灯を消し、静かに椅子を離れた。
だが帳面の「記録」は止まらない。
《語り部が本を閉じた後、その視線の先にはもう“自身”はない》
その行に、彼は立ち止まった。少しだけ、微笑む。
「……どうやら、手強い“本”だ」
帳面が映し出す記述の中に、次第に“しじま堂の内部”と酷似した描写が増えていく。
床に敷かれた畳の擦れ具合。
棚の左から三段目に並ぶ書物の背表紙。
何より、“帳面を読んでいる男”の様子──
まるで、今まさにここで起きていることが、そのまま「帳面」の中に転写されているかのように。
《読まれるたび、帳は真実と虚構の比率を変える》
《読者の意識が現実に強く寄れば、帳は虚を実にし、真を歪ませる》
《最後に残るのは、“帳に書かれた”読者の姿だけ》
その直後、ページの中央に真新しい一文が浮かび上がった。
《“あなた”は今、何を読んでいる?》
藤堂は、静かに帳面を閉じた。
ぴたり、と音もなく表紙が閉ざされたその瞬間、空気のざわめきが止み、読書灯の灯りが一瞬、揺れた。
「……この本は、いずれ“書き手”を食う」
まるで“誰か”に伝えるように呟き、藤堂は棚の奥へとその帳面を滑り込ませた。
ただし──背表紙には、元の題名ではなく、こう記されていた。
《帳面・続》
⸻
真実と虚構、その境目が曖昧になる瞬間。
人は「信じたいもの」だけを選び、「信じたくないもの」には目を背ける。
だが、もしもあなたの目の前にある“記録”が、あなた自身を写したものであったなら──
そのとき、帳を綴るのは、誰なのでしょうか。
帳面は読むためのものではなく、
“読まれたがっている”のかもしれません。
どうか、開くときにはご注意を。
そこに記されるのは、もしかすると──あなたの番かもしれませんから。
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