番外編《語り部の影》

 語り部という存在は、本来、物語の外にいるものです。

 聞き手と語り手のあいだに立ち、物語の“在処”を指し示すだけの影のような役割。

 けれど──私が語るこの物語だけは、どうにも他人事とは思えない。


 なぜなら、これは“私が語り部となった夜”の記録なのですから。

 ……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある過去にまつわる話です。



 あの頃の私は、まだしじま堂を構えたばかりだった。

 小さな古本屋。路地の奥にひっそりと灯る、小さな明かり。

 妻の沙月と、まだ幼い娘の千早と三人で暮らしていた。


 ある晩、閉店間際にひとりの老女がやってきた。

 身体の輪郭がどこか曖昧で、立ち姿が風のように揺れていたのを覚えている。


「これを、引き取ってほしいのです」


 そう言って差し出されたのは、黒革装丁の無題本。

 タイトルも著者もなく、ただ古びた重さだけが確かだった。


「この本は、“読む人”を選びますから。あなたなら、読めるでしょう」


 その言葉が、胸に引っかかった。

 気づけば、私は頷き、受け取っていた。


 ページをめくると、見知らぬ文字が流れるように綴られていた。

 けれど不思議と意味がわかった。理解ではない。“感覚”として、言葉が染み込んでくるのだ。


 その夜から、家の中の空気が変わった。


 娘が眠りながら何かに怯え、妻が鏡の前で立ち尽くすようになった。

 「この家に……もう一人、いるのよ」

 沙月の言葉は、冗談には聞こえなかった。


 私は読み続けた。理解できないはずの文字が、どんどん意味を持ち始めていた。

 次第にそれが“物語”なのか、“祈り”なのか、“呪い”なのか、境が曖昧になっていった。



 ある夜、千早が突然──言葉を話さなくなった。

 泣きもせず、笑いもせず、ただ、私の顔をじっと見ていた。

 その目の奥に、“私ではない何か”がいる気がして、背筋が凍った。


 沙月も、何度か「夢と現実の区別がつかなくなる」と言っていた。

 私は焦りながら、本を閉じた。もう、読むのをやめようと決めた。


 だがその時にはすでに遅かった。


 夜が明け、目を覚ましたとき、家の中は“音が消えたように静か”だった。まるで世界から音という概念そのものが奪われたかのように、空気が凍りついていた。


 寝室には誰もいなかった。妻も、娘も。


 散らかっていたはずのおもちゃは、床に整然と並び直されており、ベッドには人の形に僅かに凹んだシーツだけが残されていた。湯気の立つカップも、開きかけた絵本もない。

 確かに昨夜まで“誰かがそこにいた痕跡”だけが、薄皮一枚のように残っている。ぬくもりは消え、声も香りもなく、ただ「不自然な消失」の感触だけが空間にへばりついていた。


 そして居間の中央には、開かれたままの“あの本”が置かれていた。

 開かれたままのページには、こう記されていた。


「言葉に触れた者は、語る者となる。

 代価を払いし者に、門は開かれる。」


 その言葉を目にした瞬間、私は理解してしまった。

……いや、“理解させられた”のだ。


 この本は読まれるために存在し、語られるたびに“それ”を現実に呼び込む。

 誰かの口を借りて滲み出し、記憶に宿り、やがて世界の“奥側”を染めていく。


 私が読んだ時点で、もう手遅れだった。

 家族を喰らって門を開いた“それ”は、私を語り部に選び、この世の縁を開き続ける器に変えたのだ。


私は語らされる。望もうと望むまいと、次の“声”を渡すまで。




 私はすべてを失い、“それ”を語る者になった。

 以降、語るたびに私は、本の怪異と現実を繋ぐ橋となる。

 忘れられた書物に記された怪異を、そっと、この世に滲ませる“通路”のような存在へ。


 ──そうして、“午前零時の古書店”は始まったのだ。




 時々、私は思います。

 もしあの夜、本を開かなければ、家族はまだ隣にいただろうかと。


 けれど、語ってしまった以上、もう後戻りはできません。

 私は今も語り続ける。あなたに、“それ”が届くまで。


 ……次の話もまた、とある本にまつわるものです。

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