第二十話【耳打ちの帳面】

 声というのは、非常に奇妙なものです。

 人と人を繋ぐ手段であると同時に、真っ先に侵される境界でもある。

 耳元で囁かれた言葉が、いつの間にか自分の思考になっていることも──ありますよね。


 今宵は、一冊の帳面のお話です。

 書かれていたのは、誰かの“耳打ち”の記録。

 けれどその帳面が書き留めていたのは、果たして本当に誰かの声だったのでしょうか?


 ……さて。語らせてもらいましょうか。これは、とある本にまつわる話です。





それは、使い古された学習帳だった。

 表紙に「国語ノート」と手書きされ、角は擦れて丸くなっている。

 ページの間には、湿気を吸ったようなふくらみ。

 しじま堂に送られてきたそれは、付箋もなく、宛名も書かれていなかった。


 中を開くと、ところどころに鉛筆で書かれた走り書きがある。

 本文はほとんど空白で、代わりに罫線の隅に細々と、こういった記録が並んでいた。


「さっきの問題、三番だって」

「田中先生、今朝トイレで倒れたんだって」

「今日、帰りに事故あるってよ」


 最初は、教室での他愛ない噂話や、聞きかじった会話を記録したように見えた。

 だが、ページを追うごとに、内容は徐々に変質していく。


「机の下、見た? 誰かいるって」

「このノート、先生のことも知ってるらしいよ」

「あんたの声、もう誰も覚えてないよ」


 文体も変わり、まるで“書いた本人の言葉”ではないように読める。

 それどころか、読む者に“何かが語りかけてくるような錯覚”さえ生まれるのだった。


 不意に、ページの一部が濃い鉛筆の筆跡で塗りつぶされていることに気づいた。

 その黒の下に、何かが隠れている。

 削るようにして擦ると、かすかに読める文字が現れた。


「読むな。もう、こっちに来ている。」


 そして、その直後のページには──

 書いた覚えのない言葉が、藤堂自身の筆跡で記されていた。


「今、後ろで聞いているだろう?」


 藤堂はページから顔を上げた。

 しじま堂の帳場に客の姿はない。

 だが、誰かの視線が背後に貼り付いているような気配だけが残っていた。


 帳面の紙面には、さらに文字が追加されていた。

 先ほどまではなかった、微かに震えるような筆跡。


「読んだら、聞こえる。聞いたら、話す。話したら、残る。

 もう、あなたの声ではないのです」


 ページの間から、またひとつ──“別の声”が割り込んできた。


「田中先生、まだ、地下にいるんだって」

「あの席、もう誰が座ってたか分からないんだって」

「さっきから返事してるの、誰?」


 それは誰の記憶でもなく、誰かの証言でもない。

 帳面そのものが語っている。

 読まれるたび、声を得て、記憶の奥に染み込んでいく。


 藤堂は一瞬、己の耳が妙に“開いて”いることに気づいた。

 誰かの吐息のような、濁った囁きが鼓膜のすぐそばを撫でている。


「……やはり、これは“書かれた声”ではなく、“声そのもの”か」


 そっと帳面を閉じる。

 だが紙の表面に、書いていないはずの最後の一文が浮かび上がっていた。


「このノートを読んだ人は、次の声を記録しなければならない。」


 ──帳面の余白が、一気に白く広がる。

 まるで、まだ何も書かれていない“次のページ”が読者の頭の中に用意されているかのように。


 そして、最後の一行がゆっくりと染み出していった。


「次は、あなたの耳元で囁く番です。」




 “声”とは、記憶に残るだけのものではありません。

 時に、それは物質のように形を持ち、誰かの中に“棲みつく”ことがあります。


 この帳面は、その痕跡を拾い集め、書き留めたものでした。

 ……そして今、その続きを書くのは、あなたかもしれませんね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る