第8話 貸本屋の再開
家に帰った真衣は、真っ先に預かった印税を店の金庫に入れる。
金庫の鍵は盗まれないよう、紐を通して首にかけることも忘れない。
それから、代理人としての初仕事をがんばった自分へのご褒美として、近所の和菓子屋へお菓子を買いに行った。
とは言っても、贅沢はできないからお饅頭を一つだけ。もちろん、自分のお金だ。
現在無職の真衣は、収入がない。
これまでの給金を貯めていた分と、君江が残してくれたわずかな遺産を切り崩しながら、細々と生活をしている状態だ。
執筆の手伝いが落ち着いたら、志明に許可を貰って何か仕事を始めるつもりだった。
お茶とお饅頭で一息ついたら、さっそく作品の手直しを始める。
原稿を手に取れない志明のために、畳の上や座卓の上に一枚ずつ並べていく。
志明はそれを見ながら訂正・修正箇所を口述していき、真衣が書き留める。
真衣は新しい用紙に書き直すのだと思っていたが、それは清書をするときだけ。
今は修正箇所には線を引くだけで、以前のものも残しておくのだという。
全体の流れを確認したあと、場合によっては元に戻すこともあるのだとか。
「志明さん、ここは直さないのですか?」
「そこは、いまの表現のままでいく」
「でも、真田さんは修正しろって……」
「全部を相手の言う通りに変更するわけじゃない。話し合って、納得してもらうのだ」
なるほど、そういうものなんだと思ったところで、真衣はハッとする。
(これは、もしかしなくても、もしかするのでは……)
「この作品の命運はすべて真衣の交渉術にかかっているからな、頼んだぞ!」
やはり、確認するまでもなかった。
志明いわく「真衣は、私が隣で話すことを店主へ伝えてくれればいい」のだそう。
それなら、真衣はこれから『霊の通訳をします!』と看板を掲げたら仕事になるのでは?なんて冗談も思い浮かぶ。
自分の思いつきをフフッと笑っていたら、志明が真剣な表情を向けた。
「……なあ、真衣。君江さんの貸本屋を、再開しないか?」
「えっ?」
それは、何の前置きもない突然の提案だった。
順調にペンを走らせていた真衣の動きが止まる。
「でも、執筆の手伝いはどうするのですか?」
「真衣さえ良ければ、両立してもらって構わない。それに、執筆の仕事が毎日あるわけではないからな」
志明の言う通り、彼の筆が乗る日と乗らない日では作業量に天と地ほどの差がある。
読書だけをして一日が終わったことも、何度かあるのだ。
「私と初めて会った日に、真衣はここの掃除をしていただろう?」
「……見ていたのですね」
「君江さんから真衣の話は聞いていたけど、実際にどんな子なのか知りたかった……覗き見をして、ごめん」
「謝る必要はないですよ。借金の
私だって、どんな
「ですから、相手が志明さんで本当に良かったと思っています。だって、借金返済のために娼館に売り飛ばされても、文句は言えないですからね」
「私も、真衣で良かった。まあ、立場を利用していろいろと君に無理強いはしているが……」
自嘲気味に笑った志明は、ぐるりと貸本屋を見回した。
「この店は、私にとって大切な憩いの場所だった。他にも、そういう客がたくさんいたと思う」
店内が見渡せる座敷の中央。そこに敷かれた座布団の上に座っていた君江の姿が真衣の脳裏に浮かぶ。
店はいつも常連客で賑わっており、君江を中心に皆が楽しそうにやり取りをしていた。
時折、真衣も仲間に入り、本の感想を言い合ったこともある。
あの楽しかった時間は、今も思い出の中で輝いている。
「私も含めて、店の再開を待ちわびている人は大勢いる。だから、ぜひお願いしたい」
「わかりました。私がどこまでできるかわかりませんが、頑張ってみます」
せっかく君江が残してくれたこの店を、このまま廃業してしまうのは忍びない。
そうと決まれば、明日から少しずつ準備を始めていこう。
真衣は、頭の中でさっそく計画を練り始める。
「私のわがままを聞いてくれて、ありがとう。今日貰った金は、開業資金・運転資金・生活費として受け取ってくれ」
「……はい?」
「妻の経営する店に夫が金を出したり、生活費を渡すのは普通のことだろう?」
志明は事もなげに、サラッと言い切った。
「あと、貸本屋用と普段着用と訪問着用に、新しい着物をいくつか購入すること。あっ、別に洋装でも構わないよ」
「洋装など、とんでもないです! それに、まだ借金の返済も残っていますし……」
「真衣なら洋装も似合いそうだけど……本人が嫌なら無理強いするつもりはない。あと、借金とこれは別の話。必要経費だからね」
「でも……」
「だったら、債権者として命令する。債務者は必ず従うこと。いいね?」
「……はい」
強権を発動されてしまったら、真衣は言うことを聞くしかない。
改装資金をポンと貸せることでわかってはいたが、やはり志明は良いところのお坊ちゃんなのだと確信する。
洋装は着物よりも高額なため、庶民では手が出せない。
洋装しているのは主に男性で、たまに女性を見かけるくらい。
気軽に「買っていいよ」などと言える代物ではないのだ。
「行為そのものは普通かもしれませんが、この金額は普通じゃありません!!」と、声を大にして叫びたかった真衣だった。
◇
数日後、真衣は貸本屋を再開した。
君江が『客には、店内でものんびり過ごしてほしい』と居心地の良い空間を追及した結果、近所の常連客に愛される場所となった店。
その遺志を、しっかりと継いでいくのだ。
多少は店を手伝っていたこともあり、運営の仕方はわかっている。
以前と同じ、何も変えない。
店が再開したと知り、近所の常連客が徐々に戻りつつある。
皆が君江の死を悲しみ、真衣が受け継いだことを喜んでくれた。
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