第7話 版元へ
翌日、立派な店構えを前にして、真衣は早くも怖気づいていた。
よく考えてみれば、版元は貸本屋にとって大事な仕入れ先の一つなのである。
店が再開できるかはわからない。
君江は、都に数多くある版元から直接ではなく、貸本類仕入所から購入をしていた。
それでも、今回版元の心証を悪くしては、もし今後直接取引をする際に影響が出てくるかもしれない。
絶対に失敗は許されないのだ。
「真衣、中へ入らないのか?」
「こんな
真衣が着ているのは母の形見である訪問着だが、庶民が持っている物など
「私は、いつもこの恰好で出入りしていたから、そんなに畏まらなくても大丈夫だぞ」
志明は、自身の恰好を指差す。
絣の着物に丸首のスタンドカラーのシャツ。短めの袴に下駄履き。
霊だから、初対面のときからずっと同じ書生姿をしている。
今は被っていないが、店に来るときは学帽で顔を隠していたようだ。
一般庶民が着ているものと、なんら変わりはない。
しかし、着手が良いからか上等なものにしか見えないのが、真衣とは大きく違うところ。
「…………」
「うん? どうかしたのか?」
「……いえ、何でもありません」
志明は、自分の魅力に気付いていない。
作家としての才能。
外見の見目の良さ。
温厚な性格。
少々子供っぽいところはあるが、品行方正な青年で誰からも愛される人物だ。
しかし、なぜか人間関係は希薄。
以前、真衣が聞いた話では、周囲には優秀な者たちが揃っているらしい。
それが、彼の自己肯定感の低さにつながっているのでは?と真衣は(勝手に)分析をしている。
(もっと、自信を持ってもいいのに……)
小さく呟くと、真衣は大きな戸に手をかけた。
◇
真衣が案内されたのは、応接室だった。
「へえ~、あの志明がこんな
もじゃもじゃの顎ヒゲを撫でながら、厳めしい顔をした壮年の男が豪快に笑っている。
世辞を言ってくれた店主の
見た目に
「で、あんたが旦那の代わりに原稿を持って来てくれたのか?」
「はい。主人は所用がありまして、『修正・訂正箇所があれば、私へ伝えてほしい』と申しておりました」
「じゃあ、さっそく見せてもらうとするかな」
そう言うと、真田は真剣な表情で読み始める。
分厚い紙の束を太い指で器用に捲っていく様を、真衣は眺めていた。
真田には見えていないが、真衣の隣にはもちろん志明もいる。
こちらも真剣な顔つきで彼の反応を窺っていた。
静かな室内に、時折、ガシャンガシャンと印刷機の稼働音が響く。
志明によれば、この版元では印刷所も併設しているとのこと。
だから真田の声が異様に大きいのだと、真衣は妙に納得してしまった。
「……ふむ。まあ、及第点といったところか」
(「良かった……」)
志明はホッとしているが、真衣としてはギリギリ合格と言われたみたいでかなり不満がある。
それが表情に現れていたようで、真田はフフッと笑った。
「おまえさんは、納得していないみたいだな。では、今からいろいろ言わせてもらうが、いいか?」
「はい、お願いします」
持参した紙とペンを取り出したが、隣で志明本人が聞いているため、真衣は書くフリだけだ。
「あいつには何度も言っているが、同じ言い回しが多すぎる。表現を変えろ」
(「そうか。いつもの悪い癖が出てしまったな」)
「この
(「う~ん、あれでは物足りなかったか……でも、削除はいくらなんでもひどいぞ」)
その後も、真田は遠慮なくズバズバと指摘をしてくる。
志明はそれに納得したり反発したりと、なかなか忙しい。
それでも、彼が終始楽しげなのは二人の間に信頼関係があるからなのだろう。
生き生きとした表情を見せる志明を、真衣は隣から微笑ましく眺めていたのだった。
◇
「はあ……緊張した」
版元から帰ってくるなり真衣が座り込んだのは、二階の自室ではなく貸本屋の座敷の上。
どっと疲れが押し寄せてくる。
精神的疲労で、もう一歩も動けなかった。
「アハハ! 真衣は大袈裟だな……ただ、金を持って帰ってきただけなのに」
「あなたにとってはそうかもしれませんが、私は違います!」
帰り際に真田から渡されたのは、著作物の印税だった。
こんな大金を持ち帰るのは無理です!と即答した真衣に、真田は「旦那は、いつも無造作に懐に突っ込んでいたぞ」と言う。
隣へちらりと視線を向けると、当然とばかりに大きく頷く夫の姿が見えた。
無理だときっぱりと言い切ったものの、どう考えても、持ち帰るのは妻である真衣の役目だ。
覚悟を決め、震える手で受け取るとすぐに財布へしまう。
真衣は迷った末に、志明と同じように懐へ入れることにした。
こうすれば、万が一荷物を引ったくられても金を盗られることはない。
帰り道、ずっと挙動不審だった真衣の隣で、志明はいつまでも笑っていたのだった。
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