第4話『ダンボールの中の、ただの紙』
面談は、思ったよりも簡素だった。
書類の確認、収入の有無、住居形態、病歴の聞き取り。
担当の職員は、若い女性だった。二十代後半か、三十歳前後。
落ち着いた口調と、事務的な態度。
その笑顔に、真人は救われるでもなく、責められるでもなかった。
帰り道、真人は何も考えられなかった。
自分が「審査中の人間」になった、という事実だけが残った。
ふらふらとアパートへ戻る。
玄関に手をかけたとき、ふと視界に入ったのは、扉の脇に置かれた一箱のダンボールだった。
「……?」
差出人の名前は、見覚えのある旧姓だった。
母の名前。
そして、送り主の住所は、十年以上前に住んでいた団地のもの。
――母の荷物、だ。
老人ホームに入所する前、処分されたはずの荷物。
それが、なぜ今さら送られてきたのか。
部屋に持ち込み、そっと開ける。
埃っぽい匂いが鼻をつく。
中には、古びた手帳や、封筒、処方薬の説明書。
そして、茶封筒に無造作に押し込まれた数枚の書類と、一冊のノートがあった。
そこに、「真人へ」と書かれていた。
*
ノートの中身は、驚くほど普通だった。
冷蔵庫に貼るメモのような走り書き。
献立の案。
介護保険の書類についての愚痴。
かかりつけ医の名前。
どれも母がひとりで“生きていた時間”の痕跡だった。
真人は、めくる手を止めた。
何も書かれていないページが、真っ白に残っていた。
そして、封筒の中に入っていたのは──中学の卒業証書だった。
彼は一度、それを捨てた。
とっくの昔に。
引っ越しのときに、「こんなもん、あっても仕方ねえ」と、破ったはずだった。
でも、それを──母は拾って、取っておいたのだ。
折り目のついた卒業証書には、シワがいくつも刻まれていた。
文字はにじんで、端には指のあとらしき薄汚れがあった。
まるで、何度も何度も握られて、しまわれたように。
真人の喉が、かすかに鳴った。
「……なんで、こんなもん……」
卒業証書なんて、ただの紙だ。
学校を出ただけの記録。
誰にとっても意味のない、それだけのものだ。
でも、きっと母にとっては、**“真人が社会にいた証”**だったのだろう。
働いてなくても、
彼女にとっては、きっと──
「ちゃんと……育てた、って……思いたかったのかな」
その声は、自分でも驚くほど震えていた。
*
ダンボールの底に、一枚の写真があった。
黄ばんだ、ピンボケの一枚。
中学の卒業式の日。
制服の胸ポケットに花を刺した少年が、笑っていた。
傍らには、目を細める母の姿。
カメラ目線ではない。
誰かを見て、笑っている。
この写真を──真人はまったく覚えていなかった。
でも、母は捨てなかった。
何も言わず、何も責めず、
母はこうして、自分の“存在証明”をずっとしまっていた。
真人は、写真を胸に抱えた。
何も考えず、涙も出ない。
ただ、身体が、重かった。
そして、そのまま、ダンボールの前で眠った。
パジャマではなく、今日初めて外に着ていった服のままで。
*
その夜、スマホが震えた。
春乃からだった。
> 「あの頃のこと、私はまだ覚えてるよ」
> 「真人くんが、保健室にいた私に、ノート持ってきてくれたこと。
> あれ、嬉しかったんだ」
> 「“ありがとう”って言ったら、真人くん、笑ったよ」
記憶は、ぼやけていた。
けれど──その“ありがとう”だけは、急に胸の奥で響いた。
誰かに、そんな風に言われたのは、いつ以来だっただろうか。
返事はまだできなかった。
でも、スマホの光は、今夜は優しく思えた。
卒業証書は、机の端に置いたまま。
ダンボールの中の、ただの紙。
けれど、確かにそこには、“あの頃の自分”が残っていた。
(つづく)
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