第4話『ダンボールの中の、ただの紙』

面談は、思ったよりも簡素だった。


 書類の確認、収入の有無、住居形態、病歴の聞き取り。

 担当の職員は、若い女性だった。二十代後半か、三十歳前後。

 落ち着いた口調と、事務的な態度。

 その笑顔に、真人は救われるでもなく、責められるでもなかった。


 


 帰り道、真人は何も考えられなかった。


 自分が「審査中の人間」になった、という事実だけが残った。


 


 ふらふらとアパートへ戻る。

 玄関に手をかけたとき、ふと視界に入ったのは、扉の脇に置かれた一箱のダンボールだった。


 


「……?」


 


 差出人の名前は、見覚えのある旧姓だった。


 母の名前。

 そして、送り主の住所は、十年以上前に住んでいた団地のもの。


 


 ――母の荷物、だ。


 老人ホームに入所する前、処分されたはずの荷物。

 それが、なぜ今さら送られてきたのか。


 


 部屋に持ち込み、そっと開ける。

 埃っぽい匂いが鼻をつく。


 中には、古びた手帳や、封筒、処方薬の説明書。

 そして、茶封筒に無造作に押し込まれた数枚の書類と、一冊のノートがあった。


 


 そこに、「真人へ」と書かれていた。


 



 


 ノートの中身は、驚くほど普通だった。


 冷蔵庫に貼るメモのような走り書き。

 献立の案。

 介護保険の書類についての愚痴。

 かかりつけ医の名前。

 どれも母がひとりで“生きていた時間”の痕跡だった。


 


 真人は、めくる手を止めた。


 何も書かれていないページが、真っ白に残っていた。


 


 そして、封筒の中に入っていたのは──中学の卒業証書だった。


 


 彼は一度、それを捨てた。

 とっくの昔に。

 引っ越しのときに、「こんなもん、あっても仕方ねえ」と、破ったはずだった。


 


 でも、それを──母は拾って、取っておいたのだ。


 


 折り目のついた卒業証書には、シワがいくつも刻まれていた。

 文字はにじんで、端には指のあとらしき薄汚れがあった。


 まるで、何度も何度も握られて、しまわれたように。


 


 真人の喉が、かすかに鳴った。


 


「……なんで、こんなもん……」


 


 卒業証書なんて、ただの紙だ。

 学校を出ただけの記録。

 誰にとっても意味のない、それだけのものだ。


 


 でも、きっと母にとっては、**“真人が社会にいた証”**だったのだろう。


 


 働いてなくても、

 彼女にとっては、きっと──


 


「ちゃんと……育てた、って……思いたかったのかな」


 


 その声は、自分でも驚くほど震えていた。


 



 


 ダンボールの底に、一枚の写真があった。


 黄ばんだ、ピンボケの一枚。

 中学の卒業式の日。

 制服の胸ポケットに花を刺した少年が、笑っていた。

 傍らには、目を細める母の姿。


 


 カメラ目線ではない。

 誰かを見て、笑っている。


 


 この写真を──真人はまったく覚えていなかった。


 でも、母は捨てなかった。


 


 何も言わず、何も責めず、

 母はこうして、自分の“存在証明”をずっとしまっていた。


 


 真人は、写真を胸に抱えた。


 何も考えず、涙も出ない。

 ただ、身体が、重かった。


 


 そして、そのまま、ダンボールの前で眠った。


 パジャマではなく、今日初めて外に着ていった服のままで。


 



 


 その夜、スマホが震えた。


 春乃からだった。


 


 > 「あの頃のこと、私はまだ覚えてるよ」

 > 「真人くんが、保健室にいた私に、ノート持ってきてくれたこと。

 >  あれ、嬉しかったんだ」

 > 「“ありがとう”って言ったら、真人くん、笑ったよ」


 


 記憶は、ぼやけていた。


 けれど──その“ありがとう”だけは、急に胸の奥で響いた。


 誰かに、そんな風に言われたのは、いつ以来だっただろうか。


 


 返事はまだできなかった。

 でも、スマホの光は、今夜は優しく思えた。


 


 卒業証書は、机の端に置いたまま。


 ダンボールの中の、ただの紙。


 けれど、確かにそこには、“あの頃の自分”が残っていた。


(つづく)

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