第5話『やり直しが、効くとしたら』
午前二時を過ぎていた。
佐原真人は、灯りの落ちた部屋の中で、スマホを握ったまま固まっていた。
手の中の画面は、ぼんやりと青白く光っている。
そしてその中心には──
春乃からの、新しいメッセージ。
> 「……ごめん。名前、勝手に言って。
> でも、“sahara_1980”って、私の中では、ずっとヒーローだったんだよ」
ヒーロー。
その言葉に、真人は反応できなかった。
胸の奥がざわついた。
そんな風に呼ばれたことなんて、人生で一度もなかった。
誰の前でも、存在感のない“その他大勢”で。
群れにも混ざれず、でも孤独に浸る強さも持たず、
ただ、“避けられる側”の人生だった。
それなのに──
「ヒーロー」?
──ありえない。
──勘違いだ。
──別人の記憶と、間違えてる。
思考が否定を繰り返す中で、真人は気づいてしまっていた。
その言葉が、どれほど自分の中の「なにか」を震わせているかを。
たった一人だけでいい。
自分のことを、必要だったと──言ってくれる人がいたら。
たったそれだけのことで、今日までの“無”が、少しだけ“意味”に変わるかもしれない。
「……そんなの、甘えだろ」
言葉にした瞬間、自分の声に自分で吐き気がした。
何を守ってるんだ。
何に抗っているんだ。
誰に、そんな必死に言い訳してるんだ。
スマホを握る手に、汗が滲んでいた。
返信欄に、文字を打ち始めては、消す。
「ありがとう」
──あまりに、軽い。
「覚えてないけど、嬉しい」
──嘘くさい。
「実は……」
──怖い。
カーテンの外、空はまだ黒い。
音は何もない。
テレビも、冷蔵庫も、エアコンも切ってある。
まるで、自分の存在がこの世界から一時的に“ミュート”されたみたいだった。
それでも、指だけは動いた。
> 「……ほんとに、俺のことだったの?」
送信。
既読になるまで、わずか五秒。
すぐに返信がきた。
> 「うん。
> 真人くんは、あのとき──
> 保健室でノート忘れて帰ろうとしてた私に、
> 『これ、君のだよ』って、無言で手渡してくれた。
> 誰も話しかけてくれなかったのに、
> それだけで、なんか、生きててよかったなって思えたの。
>
> 変かな?」
真人の手が止まった。
記憶の奥に、霞のような風景が広がる。
雨の降った午後。
昼休みに、校庭の隅で膝を抱える女子。
保健室の帰り道。
渡すのが、怖かった。
話しかけたら、嫌がられると思った。
でも、置き去りのノートが、あまりにも寂しそうで──
気づいたら、手を伸ばしていた。
──そんなこと、あったかもしれない。
たしかに、自分の中にも、そういう“やさしさ”の芽があったかもしれない。
ずっと忘れてた。
いや、忘れることにしていた。
「どうせ、意味なんかなかった」
「俺なんかに、誰かの人生を変えられるわけがない」
そうやって、自分のことを“何者でもない”って言い聞かせていた。
でも──
たった一つでも、誰かの記憶に残るなら。
それは、自分が“存在していた”って証明なんじゃないか。
*
次の朝。
陽が差し込んでいた。
カーテンの隙間から洩れる光が、布団の端を照らしていた。
いつもと同じ時間。
でも、昨日と違うのは、“スマホを手にしていたこと”だった。
春乃から、もう一通、短いメッセージが届いていた。
> 「あの時も、今も。
> ありがとうって言いたいのは、私のほうだからね」
真人は、画面を見つめたまま、小さく笑った。
それは、ほんの一瞬だったけれど──
ちゃんと、「笑っていた」。
画面の向こうの春乃は、どんな顔をしてるんだろう。
覚えていてくれた。
忘れていた自分の、たった一つの“やさしさ”を。
もう、何も取り戻せないと思っていた。
やり直しなんて、できるわけがないと思っていた。
でも、
誰かの記憶の中で、やり直せることがあるのなら。
それだけで、今日一日を生きてみようと思えた。
*
午後、真人はパジャマのまま、部屋の掃除を始めた。
ゴミ袋を広げ、放置していたレジ袋や、折れたハンガー、読まなくなった同人誌、壊れたヘッドホン、賞味期限の切れたレトルト食品を次々に放り込んでいく。
埃を吸い込みすぎて咳き込んだ。
でも、止まらなかった。
作業の途中で、棚の奥にしまっていた箱から、古いゲームのパッケージが出てきた。
表紙に描かれた少女のCG。
ピースをしながら、こちらを向いて微笑んでいる。
ふと、その笑顔が春乃と重なった。
──あの頃、これを誰かに勧めた記憶がある。
──でも、名前までは、覚えていなかった。
それでも、今。
“誰かが覚えてくれていた”というだけで、こんなにも、人生が変わるのか。
誰にも言えない痛みも、
誰にも見せられない過去も、
画面の向こうの誰かが、そっと抱きしめてくれたような気がした。
「……ありがとう、春乃」
声に出してみた。
返事はない。
でも、もうそれで良かった。
今日の自分は、昨日より少し、確かだった。
(つづく)
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