第3話『カーテン越しに差すものは』
六月十二日、水曜日。午前十一時。
部屋の中は、まるで前日と時間が繋がっているようだった。
空気は重く、昨日と同じ湿り気が、布団の上に沈殿している。
空腹はあるが、起きるほどの活力にはなってくれない。
けれど──今日は「面談」の日だ。
「……行くか」
声はかすれていた。
体内のどこからその言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
けれど、その小さな一言が、まるで“電源ボタン”のように、身体を強制的に起動させた。
布団から起きる。
Tシャツは湿っていて、かすかに汗と加齢臭が混ざっていた。
パジャマ代わりのジャージの裾は、毛玉だらけ。
起き上がった瞬間、ふらついて手をついた。
冷蔵庫にあった最後の卵を、フライパンに落とす。
割り方が雑で、殻が一部混じったまま焼けた。
そのまま茶碗も使わず、フライパンから直接食べる。
味は──昨日よりもしょっぱい。
食後、歯を磨く。
歯ブラシは毛先が開いていて、歯茎に痛いほど当たった。
鏡に映った自分の顔が、ひどく老けて見える。
いつの間にか、顎に白髪が一本混ざっていた。
「……俺、ほんとに、四十二か?」
誰にも確認してもらえないまま、歳だけが進んでいた。
*
面談は午後二時。
区役所までは、徒歩で二十五分。
十二時半には出ないと間に合わない。
それなのに、なぜか十一時過ぎから、真人は“カーテンの前”に立ち続けていた。
光が、差していた。
昨夜は曇っていた空が、今日は晴れていた。
夏の予兆のようなまぶしい陽光が、カーテンの布越しに淡く滲んでいた。
真人は、その光に触れるのが怖かった。
まるで、それが“世界との接続”のように思えて。
もう何年も、真昼の直射日光にきちんと晒されたことがなかった。
夜のコンビニ、閉店間際のスーパー、深夜の駅前。
人目を避けて、避けて、生きてきた。
だから、この光が眩しすぎた。
カーテンの向こうには、人がいる。
働いている人。歩いている親子。
買い物をする主婦。手を繋いだ高校生。
汗をかきながら自転車で走る青年。
……そして、もうそこに自分の“年齢層”はいない。
外に出れば、誰かとすれ違う。
目を合わせなくても、何かが伝わる。
「あ、ああいう人なんだ」っていう目線。
見られる、という事実。
そのすべてが、怖かった。
──でも、行かなきゃいけない。
この面談に行かなければ、申請は打ち切られるかもしれない。
この生活が、終わる。
いや──この生活すら、失う。
「……せめて、服、ちゃんとしないと」
そう呟いて、押入れを開けた。
そこにあるのは、二年ほど前に一度だけ面接に着て行ったシャツと、ユニクロのスラックス。
クリーニングには出していない。
畳んだまま、紙袋に詰めて放置していた。
シャツにシワがある。
アイロンはない。
けれど、もうどうでもよかった。
むしろ、この“くたびれた感”が、今の自分にふさわしく思えた。
下着を替え、洗顔をし、最低限の身だしなみを整える。
鏡の中の男は──どこにでもいるような、疲れた中年男だった。
目の下にクマ。
頬はこけ、髭がまばらに残っている。
体重は減っているのに、腹だけが出ていた。
けれど、それが“現実”だった。
真人は意を決して、シャッターを上げた。
光が、思ったよりも優しかった。
外は、夏の入り口だった。
セミはまだ鳴いていない。
空は、高く、白く、どこまでも遠かった。
*
歩いて、十五分。
途中で、思わず立ち止まる。
コンビニのガラスに映る自分が、あまりにも“異物”に見えたからだ。
外は若者と、主婦と、家族と、スーツの会社員であふれている。
その中に、灰色の顔でぽつりと歩く自分だけが、まるで止まった時間から出てきた幽霊のようだった。
でも──行かなきゃ。
汗をかきながら、区役所に向かう。
その途中で、何度もスマホを開いては閉じた。
春乃からのメッセージが、新たに届いていた。
> 「あのね、違ってたらごめん。でも……私、中学の頃、すっごく助けられたことがあって」
> 「忘れてるかもだけど、“sahara_1980”って名前、懐かしくて、ずっと気になってたんだ」
それを読んで、真人は立ち止まった。
思い出せない。
誰かを“助けた”なんて記憶は、どこにもない。
むしろ、自分は──誰にも気づかれず、何もせず、ただいた“だけ”の人間だった。
けれど、そのメッセージだけが、今日一日の中で、唯一“温度”を持っていた。
「……面談、終わったら、返すか」
そう決めて、もう一度歩き出す。
カーテン越しに見ていた“世界”は、たしかにそこにあった。
自分はそこに、まだかろうじて“混ざって”いた。
どこにも属していないようで、
何にもなれないようで、
それでも、一歩だけ前に進んだ。
それが、今日のすべてだった。
(つづく)
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