第2話『パジャマのまま、昼が終わる』
雨は止んでいた。
窓の外に広がる街は、乾きかけたアスファルトが濃い灰色に染まり、電線に引っかかった水滴が、昼の陽にかすかに反射していた。
けれど、そんな眩しさの気配すら、部屋の中までは届かない。
シャッターは半分だけ開き、厚手のカーテンが閉じられたままだった。
室温は少し高め。
扇風機の風が弱々しく回っている。
佐原真人は、毛布の上でパジャマのまま、膝を抱えて座っていた。
──朝、起きる気力がなかった。
スマホの通知は、昨夜のまま。
春乃からのあのメッセージは、いまだ未読のまま。
> 「ねえ、もしかして……真人くんって、中学のとき、○○中だったりする?」
それが、何を意味するのか。
自分が誰かに“バレた”ことなのか、あるいは――
「そんなわけ、ないよな」
誰に向けるでもなく、声が漏れる。
自分の声が、耳にざらつく。
午前中ずっと寝ていたせいで、口の中が妙に苦い。
着替えようと思った。
でも、服を選ぶのが面倒だった。
風呂に入ろうと思った。
でも、浴槽の底に昨日の毛髪が浮いていた。
掃除しようと思った。
でも、埃を見た瞬間に、ため息が出た。
だから、何もしなかった。
布団の上で、ただ時間を眺めるだけだった。
扇風機のタイマーが切れると、すぐに空気がよどみ始める。
重い、湿った空気。
それは、自分自身の皮膚から染み出た“だらしなさ”そのもののように思えた。
腹は減っていた。
でも、冷蔵庫にはもう卵しかなかった。
昨日の残り。焼いても、同じ味しかしない。
じゃあ買いに行けばいい。
でも、外に出るには服を着なきゃいけない。
顔も洗ってないし、髪もボサボサだ。
人に会いたくない。
見られたくない。
──というか、そもそも金がない。
「なんだそれ……」
笑ってみた。
口角だけが動いた。
音のない笑い。
それが、ただただ虚しい。
真昼間の時間に、パジャマのまま座っている。
テレビも点けていない。
SNSも開けない。
ゲームの起動音だけが、薄く部屋に鳴り続けていた。
昨日食べた卵焼きの匂いが、まだフライパンに残っている。
それが、無性に嫌だった。
*
昼過ぎ、スマホが小さく震えた。
着信ではなかった。
Twitterでも、LINEでもない。
福祉課からのショートメッセージだった。
> 「明日午後二時、生活保護担当の面談予約を確認しています。お越しいただけない場合、再度連絡をお願いします。」
面談。
真人は、スマホを握ったまま動かなかった。
行かなくちゃならない。
でも、何を話せばいい?
生活の困窮状況?
就労意欲?
家族の有無?
病歴?
精神状態?
……どれも、言葉にならなかった。
むしろ、喋れる自信がなかった。
ちゃんと声が出るかもわからない。
履歴書の空白を、どう説明すればいい?
「実家で母の介護をしてました」──それすら、証明できない。
冷蔵庫の中の卵が、自分を見ているような気がした。
それも、睨むでもなく、哀れむでもなく、ただ「変わってないね」と言いたげに。
「……でも、行かなきゃな」
ようやく出た声は、かすれていた。
行かなければ、何も変わらない。
けれど、それがどれほどの“体力”を必要とするか、自分が一番よく知っていた。
*
それからの時間は、ただ静かに過ぎていった。
パジャマを脱ぐタイミングを失い、布団の上で横になっては起き、
スマホを見ては通知を閉じ、
ゲームを開いてはすぐに終了し、
過去の写真フォルダを開いては、何も映っていない空の画像で閉じる。
──時間だけが流れていく。
いつの間にか、午後五時を回っていた。
部屋の中が、ほんのりと赤く染まり始める。
カーテンの隙間から、夕陽が漏れていた。
その橙色が、パジャマにしみついた汗じみや、床に積もった埃を妙にリアルに照らしていた。
夕飯をどうするか──考える気力はなかった。
食べなくても死なない。
そう思った。
けれど、食べなければ、明日きっと起きられない。
面談に行けない。
“終わってしまう”かもしれない。
そう分かっていても、身体は動かなかった。
*
夜が来て、再びスマホが震えた。
また春乃からだった。
> 「ごめん、変なこと聞いたかな」
> 「でも、私……ずっと気になってたんだ」
> 「あのときの“ありがとう”、覚えてるよ」
何の“ありがとう”だろう。
真人には、もう思い出せなかった。
誰かに何かをして、「ありがとう」と言われた記憶が、ない。
むしろ、いつも“ごめんなさい”のほうばかりだった。
──それでも、たった一行のその言葉だけで、心が揺れた。
「……俺なんかに、そんなこと言うなよ」
そう呟きながら、画面を閉じた。
返事はしなかった。
けれど、スマホは手から離さなかった。
パジャマのまま、布団に沈みこみ、深く目を閉じる。
その日は、何も食べずに、終わった。
口に残っていたのは、昨日の卵焼きの味だった。
──人生が変わる瞬間は、もっと劇的なものだと思っていた。
でも、現実には、こうしてただ、“何もしなかった一日”が重なっていく。
パジャマのまま、昼が終わる。
それが、今日という日のすべてだった。
(つづく)
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