第1話『雨の音と、卵焼き』
目が覚めたのは、午後の三時を少し回った頃だった。
外は雨。
しとしとと、一定のリズムで降り続いている。
窓は曇っていて、遠くの景色はぼんやりとしか見えない。
灰色の空に、遠く走る車の音。
そのどれもが、自分とは関係のない世界に感じられた。
「……寝すぎたか」
声を出したのが、何日ぶりだっただろうか。
部屋の中には、誰の気配もない。
自分の発した声が、反射して戻ってくることすらなかった。
布団から身体を起こす。
首と背中が固まったように痛い。
マットレスは薄く、枕はぺたんこで、布団の中は微妙な湿気に包まれていた。
足元に転がっていたスマートフォンを手に取る。
スワイプで解除しようとするが、指先が乾きすぎて反応しない。
何度かやり直して、ようやくホーム画面が表示された。
■6月11日(火)
■15:13
■バッテリー残量:13%
通知は来ていない。
LINEも、メールも、Twitterも、DMも、ゲームアプリも。
自分に何かを知らせるべき存在は、今やどこにもいなかった。
「よし……飯、作るか」
誰に向けたでもない呟きだった。
空腹だったわけではない。
けれど、何かをしなければと思った。
じゃないと、自分の“今日”が、ただの無だったことになってしまいそうで。
――せめて、卵焼きくらいは作ろう。
そう決めた。
*
キッチンは、部屋の片隅にあるミニサイズのユニットタイプ。
コンロは一口。シンクも小さく、まな板を置く場所もない。
ただ、その狭さが今の真人には心地よかった。
冷蔵庫を開けると、卵が四つ残っていた。
先週の金曜日に買ったもの。
賞味期限は、今日だった。
「よし」と小さく呟き、割る。
ボウルはない。小さめの器に直接、卵を入れる。
箸でかき混ぜ、少量の砂糖と塩を入れた。
料理をするのは好きではなかったが、卵焼きだけは昔から作る癖があった。
「……母さんの、味だったからな」
誰も聞いていないのに、そう言ってしまった。
フライパンに油を引いて、火をつける。
ジュッという音がする。
そこに卵液を流し込み、くるくると巻いていく。
不恰好だが、焦げ目のついた厚焼き卵が、少しずつ形になっていく。
こんなにも静かな時間の中で、唯一確かに“生きている”と感じられる瞬間だった。
卵焼きが焼き上がるころ、炊飯器のスイッチを入れる。
朝にといだ米が、ずっとそのままになっていた。
雨の音と、炊飯器のかすかな湯気の音が重なる。
真人は、それをしばらく黙って見つめていた。
*
食卓と呼べるようなテーブルはない。
ローテーブルの上に、焼きたての卵焼きと、炊きたての白飯だけが置かれる。
インスタント味噌汁は、湯を注いで一分で完成した。
いただきます、と呟いた声は、すぐに消えた。
ひと口、卵焼きを噛む。
甘さと塩味が舌に広がって、記憶の底が少しだけ刺激された。
もう十年以上、母の作る卵焼きを食べていない。
けれど、味だけは身体に残っていた。
「……似てないな」
ぽつりと漏らした。
似てない。それでも、自分はこの味を作っている。
誰かの代わりでも、なぞっているだけでもない。
それが、空虚で、重かった。
箸を動かすたびに、心が少しだけ軋む。
涙は出ない。
空っぽのようでいて、ちゃんと重たい感情だけが、じんわりと胸に残っていく。
食べ終えた食器を、流しに置く。
洗う気力は、今日は湧かなかった。
*
部屋に戻ると、モニターが待っていた。
ログイン中のゲーム画面は、タイトル画面のまま放置されている。
画面の向こうでは、フレンドリストに数人の名前が点灯していた。
誰にも声はかけなかった。
誰からも声はかからなかった。
オンラインでつながっている。
それだけで、充分なようで、何も足りなかった。
「sahara_1980」──彼のユーザー名だった。
もうすぐ、このアカウントも使えなくなる。
クレカの支払いが止まり、サブスクは次々と切れていく。
インターネットの海の中で、彼は“存在しない者”になっていく。
ふと、思い出したようにメールを開く。
通知オフにしていたアカウントに、ひとつだけ、未読があった。
件名:【生活保護申請に関するご連絡】
本文:(一部抜粋)
「当区福祉課よりご連絡差し上げます。先日ご提出いただいた生活保護申請に関して、再度面談が必要となりました……」
──現実は、ログアウトできない。
自分は、今日という日を“クリア”できたのだろうか。
誰もいない部屋で、そう考える。
卵焼きは、美味しかった。
それだけが、今日の成果だった。
ゲーム画面に戻ると、メッセージが届いていた。
春乃:
> ひさしぶり!最近、あんまり見かけないね。
> ちょっと心配してた。
真人の手が、止まった。
春乃。それは、ただのネットの友人。
でも、もしかしたら──
「……いや、ないない。そんな都合よく、人生にフラグなんか立たない」
返事を打とうとして、やめた。
手が、震えていた。
*
その夜、真人は風呂に入らず、ベッドに倒れ込んだ。
着替えもしないまま、部屋着のままで。
枕元に置いたスマートフォンが、バイブで震える。
通知:
■春乃:「ねえ、もしかして……真人くんって、中学のとき、○○中だったりする?」
画面の光が、ぼんやりと頬を照らした。
夜は、まだ終わっていなかった。
(つづく)
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