第1話『雨の音と、卵焼き』

目が覚めたのは、午後の三時を少し回った頃だった。


 外は雨。

 しとしとと、一定のリズムで降り続いている。


 窓は曇っていて、遠くの景色はぼんやりとしか見えない。

 灰色の空に、遠く走る車の音。

 そのどれもが、自分とは関係のない世界に感じられた。


 


「……寝すぎたか」


 


 声を出したのが、何日ぶりだっただろうか。

 部屋の中には、誰の気配もない。

 自分の発した声が、反射して戻ってくることすらなかった。


 布団から身体を起こす。

 首と背中が固まったように痛い。

 マットレスは薄く、枕はぺたんこで、布団の中は微妙な湿気に包まれていた。


 足元に転がっていたスマートフォンを手に取る。

 スワイプで解除しようとするが、指先が乾きすぎて反応しない。

 何度かやり直して、ようやくホーム画面が表示された。


 


 ■6月11日(火)

 ■15:13

 ■バッテリー残量:13%


 


 通知は来ていない。

 LINEも、メールも、Twitterも、DMも、ゲームアプリも。

 自分に何かを知らせるべき存在は、今やどこにもいなかった。


 


「よし……飯、作るか」


 


 誰に向けたでもない呟きだった。

 空腹だったわけではない。

 けれど、何かをしなければと思った。

 じゃないと、自分の“今日”が、ただの無だったことになってしまいそうで。


 


 ――せめて、卵焼きくらいは作ろう。


 


 そう決めた。


 



 


 キッチンは、部屋の片隅にあるミニサイズのユニットタイプ。

 コンロは一口。シンクも小さく、まな板を置く場所もない。

 ただ、その狭さが今の真人には心地よかった。


 冷蔵庫を開けると、卵が四つ残っていた。

 先週の金曜日に買ったもの。

 賞味期限は、今日だった。


 「よし」と小さく呟き、割る。

 ボウルはない。小さめの器に直接、卵を入れる。

 箸でかき混ぜ、少量の砂糖と塩を入れた。

 料理をするのは好きではなかったが、卵焼きだけは昔から作る癖があった。


 


「……母さんの、味だったからな」


 


 誰も聞いていないのに、そう言ってしまった。


 フライパンに油を引いて、火をつける。

 ジュッという音がする。

 そこに卵液を流し込み、くるくると巻いていく。

 不恰好だが、焦げ目のついた厚焼き卵が、少しずつ形になっていく。


 


 こんなにも静かな時間の中で、唯一確かに“生きている”と感じられる瞬間だった。


 


 卵焼きが焼き上がるころ、炊飯器のスイッチを入れる。

 朝にといだ米が、ずっとそのままになっていた。


 雨の音と、炊飯器のかすかな湯気の音が重なる。


 


 真人は、それをしばらく黙って見つめていた。


 



 


 食卓と呼べるようなテーブルはない。

 ローテーブルの上に、焼きたての卵焼きと、炊きたての白飯だけが置かれる。

 インスタント味噌汁は、湯を注いで一分で完成した。


 いただきます、と呟いた声は、すぐに消えた。


 ひと口、卵焼きを噛む。

 甘さと塩味が舌に広がって、記憶の底が少しだけ刺激された。

 もう十年以上、母の作る卵焼きを食べていない。

 けれど、味だけは身体に残っていた。


 


「……似てないな」


 


 ぽつりと漏らした。


 似てない。それでも、自分はこの味を作っている。

 誰かの代わりでも、なぞっているだけでもない。

 それが、空虚で、重かった。


 


 箸を動かすたびに、心が少しだけ軋む。


 涙は出ない。

 空っぽのようでいて、ちゃんと重たい感情だけが、じんわりと胸に残っていく。


 


 食べ終えた食器を、流しに置く。

 洗う気力は、今日は湧かなかった。


 



 


 部屋に戻ると、モニターが待っていた。

 ログイン中のゲーム画面は、タイトル画面のまま放置されている。


 画面の向こうでは、フレンドリストに数人の名前が点灯していた。


 誰にも声はかけなかった。


 誰からも声はかからなかった。


 オンラインでつながっている。

 それだけで、充分なようで、何も足りなかった。


 


 「sahara_1980」──彼のユーザー名だった。


 もうすぐ、このアカウントも使えなくなる。

 クレカの支払いが止まり、サブスクは次々と切れていく。

 インターネットの海の中で、彼は“存在しない者”になっていく。


 


 ふと、思い出したようにメールを開く。


 通知オフにしていたアカウントに、ひとつだけ、未読があった。


 


 件名:【生活保護申請に関するご連絡】

 本文:(一部抜粋)

 「当区福祉課よりご連絡差し上げます。先日ご提出いただいた生活保護申請に関して、再度面談が必要となりました……」


 


 ──現実は、ログアウトできない。


 


 自分は、今日という日を“クリア”できたのだろうか。


 誰もいない部屋で、そう考える。


 卵焼きは、美味しかった。

 それだけが、今日の成果だった。


 


 ゲーム画面に戻ると、メッセージが届いていた。


 


 春乃:

 > ひさしぶり!最近、あんまり見かけないね。

 > ちょっと心配してた。


 


 真人の手が、止まった。

 春乃。それは、ただのネットの友人。

 でも、もしかしたら──


 


「……いや、ないない。そんな都合よく、人生にフラグなんか立たない」


 


 返事を打とうとして、やめた。


 手が、震えていた。


 



 


 その夜、真人は風呂に入らず、ベッドに倒れ込んだ。

 着替えもしないまま、部屋着のままで。


 枕元に置いたスマートフォンが、バイブで震える。


 


 通知:

 ■春乃:「ねえ、もしかして……真人くんって、中学のとき、○○中だったりする?」


 


 画面の光が、ぼんやりと頬を照らした。


 夜は、まだ終わっていなかった。


(つづく)

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