第16話『ただいま、と言わない靴音』

鍵を差す。回す。開く。


 ほんの数秒の動作なのに、奈緒の肩はすっかり重たくなっていた。


 ドアの内側に一歩足を踏み入れた瞬間、「帰宅」という言葉が心のどこにも見当たらなかった。ただの、「室内への移動」。自分の居場所に戻ったはずなのに、何ひとつ変わらぬ静寂がそこにある。


 靴を脱いでスリッパに履き替える。だが、その音さえも、部屋に吸い込まれて消えていく。


 「ただいま」なんて、何年も口にしていない。


 誰かに聞かせるための言葉だったはずだ。なのに、いつからだろう。自分にさえも、そう言えなくなったのは。


 リビングの電気をつけようと手を伸ばしたが、途中で止める。窓の外は、まだわずかに明るい。照明のスイッチに触れずに、そのまま部屋に入った。


 昼のまま放置されたテーブルの上には、今朝のカップと使いかけのティッシュがそのままだ。朝の自分の残骸。


 奈緒はそれを片付ける気力もなく、ソファに腰を下ろした。荷物を足元に置いたまま、膝に腕を載せて、そのまま俯く。


 今日は、声を出していない。


 コンビニのレジで「温めお願いします」と言ったきり、あとは無言だった。面接のときの言葉も、どこか他人の声のようで、奈緒の中には残っていなかった。


 ふと、スマホを取り出す。


 通知はゼロ。メールもLINEもなし。SNSには通知すら来ない。


 タイムラインに流れる、他人の幸せそうな日常。「今日、彼と映画行った!」「お母さんと喫茶店でランチ」「パート採用されました!」


 投稿する人が悪いわけじゃない。誰かの幸せが、誰かの悲しみになるなんて、思っても仕方のないことだ。


 それでも。


 それでも、奈緒はスマホをテーブルに伏せて置いた。


 画面が見えないように。通知が光っても気づかないように。


 いや、光ることなんて、ほとんどないのに。


 


 ──今日も、名指しで呼ばれなかった。


 


 冷蔵庫の中に、食べられそうなものは何もなかった。卵が1個、期限切れの豆腐、しなしなのキャベツ。買い物に行く元気は、今の奈緒にはもうなかった。


 なにか食べよう、という気持ちが起きなかった。


 それでも、何かしなければ、と立ち上がる。部屋の空気が、ただの“動かない日”になることに、耐えられなかった。


 洗濯物を畳もうとするが、手が止まる。


 この部屋には、誰の匂いもしない。柔軟剤の香りだけが、乾いた繊維からほのかに上がってくる。


 誰のためのシャツでもない。干されたままのブラウスも、着る機会が来るかどうかさえ怪しい。


 “もういいかな”と、思いそうになった。


 でも、奈緒はその思考を途中で止めた。


 「まだ……食べてないし」と、つぶやく。


 なにを、誰に言い訳しているんだろう。そんな自分の声が、少し可笑しくなった。


 


 外は、暮れかけていた。


 カーテンの隙間から、うす紫の光が差し込んでいる。きれいな空だった。


 この景色を見て、「きれいだね」と言える相手がいたなら──。


 奈緒は首を振った。そんなことを考えてしまう自分が、弱くて、惨めで、だから嫌だった。


 でも、きっと明日も、明後日も、同じことを思うのだ。


 「おかえり」と誰かが言ってくれる夢を、毎晩見るようになって久しい。


 声はいつもぼやけていて、顔も見えない。けれど、胸の奥にその声だけが残る。


 ──“ただいま”って、言いたい。


 ただそれだけの願いを胸に、奈緒は洗濯物をもう一度手に取った。片付けなければ。この部屋を、せめて今日だけでも、生きていた証にしなければ。


 洗濯物を畳みながら、靴音の記憶がよみがえった。


 高校生のころ。駅から家までの帰り道。母が台所で夕食をつくる音。父のくしゃみ。玄関を開けて、「ただいま」と言えば、「おかえり」と返ってきた日々。


 それが当たり前だと思っていた。


 だけど今、靴音はただの物音に過ぎない。玄関のドアを開けたって、誰もいない。声もない。空気が、音を跳ね返す。


 でも。


 それでも。


 奈緒は今日、ちゃんと家に帰ってきた。


 自分の足で、ひとりの体で、今日という一日を終えに来たのだ。


 


 洗濯物を畳み終えたその瞬間、ふと胸の奥が熱くなった。


 涙、ではない。かといって、希望とも言いがたい。


 ──でも、何もないよりは、少しだけマシかもしれない。


 奈緒は深く息を吸った。


 夜が、今日もやってくる。


 音のない部屋。呼び鈴は鳴らない。スマホも光らない。


 だけど、明かりだけは、自分でつけられる。


 そして、それはたしかに“誰かが生きている部屋”の証だった。


 


 パチン、と照明をつけた瞬間。


 部屋に、音が戻ってきた気がした。

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