第15話『その質問に、答える義務はありますか?』

 電車に乗るのは、何日ぶりだっただろう。奈緒は手帳をめくっても、最後に駅名を書いた記憶があいまいだった。

 久しぶりに履いたパンプスが、足に合わずにかかとを擦った。ストッキングの内側がじわりと湿っていくのを感じながら、奈緒は小さく息をついた。


 パートの面接。週三日、弁当工場の包装部門。

 求人サイトの「未経験歓迎」「和やかな職場です」という文言に、一瞬だけ希望のようなものを抱いてしまった自分を、今では少し恥ずかしく思っていた。


 控室は狭く、壁に貼られた社訓が色あせていた。

 「元気な挨拶、明るい職場、感謝と誠意」

 その下に貼られた貼り紙には、“無断欠勤は即日解雇”と太字で書かれている。奈緒は膝の上で手を重ね、うつむいた。


「では、お入りください」


 呼ばれて入った部屋には、やや年配の男性と、無表情な女性事務員が座っていた。机には履歴書。開かれるページ。


「失礼ですが、おいくつでしたっけ?」

 最初の質問に、奈緒は一拍遅れて「四十三です」と答えた。

「お子さんはいらっしゃらない?」

「いえ……おりません」

「結婚のご予定は?」

「……特には」


 パチ、とボールペンの音。


「体力には自信ありますか? 女性の方でも意外と重いもの持ちますからね。あ、ひとり暮らしですよね? 体調崩したとき、誰か看病してくれる人は……?」


 気がつけば、奈緒の履歴書の上には、“仕事”とは無関係な項目ばかりが並んでいた。

 そして、面接官はふと笑いながらこう言った。


「まぁ、これまでずっと働いてこなかったなら……ちょっと心配にはなりますよ。ねぇ?」

 隣の女性職員が、笑うでもなく、目を伏せてペンを動かすだけだった。


 奈緒は笑おうとした。でも喉がつまって、声が出なかった。


「……はい」

 とだけ返す。何に対しての返事だったのか、自分でもわからなかった。


 面接室を出たあと、控室に戻る通路の途中で、奈緒は自販機の横にしゃがみこんだ。

 誰もいない通路。古い蛍光灯の明かりが、じわじわと濁っていた。


 水を飲もうと思った。けれど財布を開いたら、五十円玉が一枚。

 買えない、と気づくまでに、三十秒かかった。


 奈緒はそのまま、しゃがんだ姿勢で目を閉じた。


 ──なぜ、答えてしまったのだろう。

 誰にも強制されてないのに。笑われるとわかっていたのに。


 わたしは、なんでいつも、“嫌われないように”してしまうんだろう。


 自販機の下で光るホコリにまみれたペットボトルのキャップが、風もないのにころん、と転がった。


 誰も呼ばない名前を、今日もまた胸の中で言ってみた。

 それは“奈緒”という自分自身の名前だった。


 遠くでチャイムの音がした。

 どこかの事務所で、また誰かが呼ばれている。

 奈緒の出番は、たぶん、もう来ない。


 それでも奈緒は、立ち上がった。

 背筋を伸ばすためじゃない。

 ただ、帰らなければいけなかったから。


 誰もいない部屋に。誰もいない部屋が待つ場所に。


 午後の空は、妙に晴れていた。


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