第17話『窓口の向こうは、誰の国』
区役所の自動ドアが開いた瞬間、奈緒は一歩だけ足を止めた。
空調の効いた館内に、冷たい風が吹き抜けてくる。けれど、それが心地よいとは感じなかった。
右手の指先に、小さく震えが残っている。何度読み返したかわからない申請書類が、古びたクリアファイルに綴じられていた。
「……生活保護申請、ですか?」
受付で尋ねられた時、奈緒は少しだけ目を伏せてしまった。
声を出すのが、こんなにも難しいなんて。何かが喉につっかえたような感覚だった。
「はい……お願いします……」
番号札を渡され、待合席に案内された。少し古い椅子。剥がれた布の下から、ウレタンが覗いている。
周囲に人の姿は少ない。月曜の午前、雨が降った翌日の役所は、いつもより静かだった。
しばらくして、番号が呼ばれた。
「二番窓口の方へどうぞ」
立ち上がると、頭が少しふらついた。昨晩は結局何も食べていない。カップ麺も作れず、お湯を沸かす気力さえ湧かなかった。
二番窓口に進むと、細い眼鏡をかけた中年の職員が書類を受け取った。無言でペラペラとページをめくる。
「……お若いですよね。お仕事のご経験もある。ご病気でもない」
その言葉の温度が、明らかに低かった。
奈緒は、うなずくこともできなかった。まるで「はい、だから保護は受けられません」と自白を強要されているかのようだった。
「努力されていないとは申しません。ただですね……まだお若い方ですし、まずはご自身で働く道を探していただくのが優先です」
「……でも、今はもう……面接も……立っているのも、少しきつくて」
「医師の診断書などはお持ちですか?」
「いえ……ないです……」
「では、それがないとですね、病気としての判断は難しいんですよ。生活に困窮されているのは承知しましたが、生活保護の審査基準には該当しません」
言葉をひとつひとつ噛み砕くように丁寧に話す職員。その語調には、決定権を持つ者の余裕が滲んでいた。
「今すぐの保護申請よりも、まずは“求職活動”が必要かと思います」
“かと思います”。語尾に逃げ道をつけるその話し方が、妙に優しくて、残酷だった。
「……わかりました」
奈緒は小さく頭を下げて、席を離れた。
歩き出したその瞬間、隣の三番窓口から外国語が聞こえてきた。
若いアジア系の女性──20代前半、奈緒と同じくらいか、むしろもっと若く見えた。小柄で、髪をまとめ、母国語で話していた。
その隣に座っているのは通訳だろう。
「これは必要書類です。大丈夫、すぐ終わります」と日本語で職員に伝えている。
「生活保護、申請、できますか」とたどたどしく口にする彼女に、三番窓口の職員はにこやかに「はい、大丈夫ですよ」と応えていた。
書類を受け取り、受理印を押す手際も早い。補足質問もない。
奈緒は、無意識にその光景に見入っていた。
──なぜ、私はダメで、あの人はいいんだろう。
心の奥から、泡のような感情が浮かび上がる。やり場のない問いだった。
職員に怒りたいわけじゃない。あの女性に嫉妬したいわけでもない。
ただ、「自分だけが、取りこぼされるように感じた」のだった。
建物の外に出ると、空がまた曇っていた。
奈緒は、裏手のベンチに腰を下ろした。目の前に、小さな公園がある。
誰もいないブランコが、風もないのにゆっくりと揺れていた。
カバンの中のクリアファイルを、そっと撫でる。
申請書は、もういらないと言われた。
自分が作った履歴。名前も、住所も、過去の職歴も、すべて書いた用紙が、今やただの紙くずになっている。
「若いから」「働けそうだから」。
それは、自分が“生きていける”証明にはならなかった。むしろ“自助努力が足りない”という印象にすり替えられた。
──死にたい、とまでは思わない。
でも、“生きていけるかもしれない”とも、もう思えない。
奈緒はふと、ポケットからスマホを取り出した。
通知はない。
けれど、その中に保存された文章の下書きフォルダには、ずっと前に書いた言葉がひとつ残っていた。
「……わたしは、生きたいです」
それを読み返すのが、今では苦痛だった。
ベンチに座る奈緒の足元を、小さな猫が通り過ぎた。
毛並みは悪くない。首輪はないが、どこかで餌をもらっているようだ。
猫は、奈緒の方を一度だけ見て、何も言わずにまた歩き出した。
その静かな瞳に、奈緒は不思議と、涙が出そうになった。
──この世界のどこかには、ただ見つめてくれるだけの優しさも、まだあるのかもしれない。
風が吹いた。
目を閉じて、奈緒は小さく息を吸った。
明日また、別の区役所に行こうか。
誰かが「はい、大丈夫ですよ」と言ってくれるまで、声が届く場所を、探してみようか。
足音はまだ、弱々しい。
けれど、それはたしかに、「次の場所へ向かう靴音」だった。
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