第11話『夢の中でも、誰も呼ばない』

 朝、目が覚めた瞬間、奈緒はこう思った。


 「……ああ、今日も、誰も出てこなかった」


 夢の話だ。

 眠っているあいだに見る、あの“もう一つの世界”。

 そこですら、最近、奈緒は“誰にも会わない”。


 かつては夢に、人が出てきた。

 小学校時代の友達、会社の上司、かつての恋人。

 名前は思い出せないけれど、声や仕草だけは妙に鮮明で、

 目覚めたとき、しばらくその人たちが“すぐ隣にいる”ような気がした。


 けれど──ここ最近は違う。

 夢の中にも、人がいない。

 景色はある。学校の廊下、雨のホーム、白い病室、実家の台所。

 でも、そこには“誰もいない”。


 ただ自分だけがいて、無音のまま、歩いたり立ち尽くしたりしている。

 誰にも呼ばれず、誰も呼ばず。

 名前も、顔も、声も出てこない。

 それはまるで、「記憶という名の世界が、干上がっていく」ようだった。


 奈緒は、枕に顔をうずめた。

 毛布の中に籠もった体温が、朝の光でゆっくりと崩れていく。

 時計は午前7時を指していた。

 いつもの時間に目覚めたというだけの、それだけの朝。


 けれど──今朝はなぜだか、妙に疲れていた。


 眠ったはずなのに、体がだるい。

 夢を見たはずなのに、心が重い。

 誰にも呼ばれない夢を見続けることは、意外にも体力を奪うのかもしれない。


 奈緒は、布団の中でじっと天井を見つめていた。


 夢の中で、誰かに会いたいとは思わない。

 でも、せめて「名前」を呼んでくれる誰かがいたら、どれだけ楽だっただろう。

 たとえば、知らない声でもいい。

 たとえば、「奈緒」とは違う名前でも構わない。


 誰かが、自分を“存在として”認識してくれること。

 たったそれだけのことが、こんなにも恋しいなんて──。


 それは夢の中でも同じだった。


 奈緒は、起き上がり、カーテンを開けた。

 窓の外には、穏やかな曇り空。

 雨は降っていないが、日差しもなかった。

 そんな天気が、自分の中と似ていて、かえって落ち着いた。


 キッチンに行き、電気ケトルに水を入れる。

 お湯を沸かしている間、ふと思い立ってメモ帳を取り出した。


 “夢に出てきた場所”だけでも書いておこうと思った。


 ──廊下

 ──図書館

 ──古びた団地の屋上

 ──電気が切れた自販機の前

 ──雨の駅ホーム(誰もいなかった)


 そこに登場した人間は、ゼロ。

 誰もいなかった。誰も呼ばなかった。

 それが、五日連続。


 奈緒は思った。

 これはもしかして、“心が人を必要としなくなった証拠”なのかもしれない、と。


 人と会わない生活。

 人と話さない日常。

 誰にも触れず、触れられず、ただ日々が積もっていく生活。


 それがある臨界点を超えたとき、

 「夢の中にすら人が現れない」世界がやってくる。


 それは静かで、傷つくこともない。

 だが同時に──

 “癒やされることもない”。


 カップに湯を注ぎ、白湯をすすった。

 熱さが喉に染みて、少しだけ、現実感が戻る。


 夢の中では、味覚も温度も曖昧だった。

 だからこそ、こうして現実に感じる“熱”だけが、自分をこの世界に引き戻す。


 奈緒は、窓の外を見た。

 少し離れたアパートのベランダに、洗濯物が揺れていた。

 シャツとタオルと、子供用のズボン。

 誰かが、そこで“生活している”証。


 きっとその人の夢には、誰かが出てくるのだろう。

 家族、同僚、恋人、かつての友達。

 あるいはもう亡くなった祖父母。

 何気ない再会や、懐かしい一言が、彼らを支えているのかもしれない。


 ──でも、奈緒の夢は、誰も呼ばない。


 だから今日も、何もないまま目が覚める。


 静かな朝に、静かな夢から、静かな自分が戻ってくる。


 まるで、どこにも行っていなかったかのように。

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