第10話『呼び鈴の鳴らない家』

玄関の前に、ふと立ち尽くすことがある。


 靴を履くわけでもない。

 外へ出る予定があるわけでもない。

 ただ、“出入口”の前で、奈緒はときどき、静かに佇む。


 郵便受けの音が聞こえるかもしれない。

 宅配がくるかもしれない。

 間違い電話のように、インターホンが鳴るかもしれない──

 そんな“かもしれない”だけを抱えながら、今日も玄関は閉じられている。


 手のひらをそっと壁にあてる。

 その隣にあるのが、インターホンだった。


 かすかに色あせた白いボタン。

 指で触れると、冷たかった。

 中にある電球はまだ切れていないが、押された記憶は、もう何ヶ月もない。


 「……鳴らないなあ」


 自嘲気味につぶやいた声だけが、壁に吸い込まれる。

 誰かを待っているわけじゃない。

 でも、「誰も来ない」と言い切ってしまうには、ほんの少しだけ、惜しい気持ちがあった。


 かつて──最後に呼び鈴が鳴ったのは、いつだっただろうか。


 思い出す。

 たしか、配達員。通販で頼んだ靴下だった。

 その時も、出るのに少し時間がかかって、チャイムを二度鳴らされた。

 急いで玄関を開けた自分の姿が、どこか滑稽に思えた記憶。


 配達員の男性は「はい、どうぞ」と言って、すぐ去った。

 その背中に、奈緒は「ありがとうございます」と言った。

 でも──彼はこちらを見なかった。


 呼び鈴は、「誰かが来た」という証ではない。

 むしろ、「すぐに去っていく何か」の合図かもしれない。


 奈緒は、そのまま玄関に座り込んだ。

 タイルの冷たさが、背中にじわりと染みる。

 目を閉じると、遠くから外の音が聞こえた。


 子どもの笑い声。

 エンジン音。

 郵便配達のバイクの音。

 どれもが、向こうの世界の音だった。


 部屋の中にいる限り、それらの音は届いても、奈緒には触れられない。


 インターホンに目をやる。

 もし今、これが突然鳴ったら、どうなるだろう。

 とっさに声が出るか、自信がない。

 誰が来たのかを尋ねる前に、身構えてしまう気がする。


 そして、なにより──

 「誰かが来るはずがない」と、心のどこかで決めつけている。


 いつからだろう。

 「誰も来ない」と思うようになったのは。


 最初は、「今日は来なかった」だった。

 そのうちに、「今週は来ないかも」になり、

 気づけば、「誰も来ない家」になっていた。


 来客用のスリッパは、もう捨てた。

 玄関マットも洗っていない。

 ドアスコープのレンズは曇っていたし、ピンポン音も、どこかに紛れたまま。


 奈緒は、ふと立ち上がった。

 そして、自分の指でインターホンを押してみた。


 ピンポーン。

 乾いた音が、部屋の中に響いた。


 自分の家の中で、自分が鳴らした音。

 その空しさに、思わず吹き出しそうになる。


「来ないって、わかってるのにね」


 それでも、何かが動いた気がした。

 誰もいないのに、音だけがあるという事実。

 それは奈緒にとって、妙に“現実的”だった。


 テレビの音も、スマホの通知も、外の音も、何もなかった。

 けれど、インターホンはまだ鳴った。

 それだけで、「この家にはまだ機能が残っている」と思えた。


 ──でも、もう鳴らす人はいない。


 それが現実だった。


 奈緒は、ドアに背を向けて、リビングに戻った。

 玄関が、静かに閉まる音がした。


 その音が、なぜか「またひとつ、遠ざかった気がする」と思わせた。

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