第12話『今日という日は、どこへも届かない』

今日という日は、朝から晴れていた。


 それは気象庁が言うところの「晴れ」であって、奈緒の中の天気とは別物だった。

 目を開けた瞬間、天井のシミの輪郭がくっきりしていて、カーテンの隙間から差し込む光が強くて、

 「今日はまぶしい日だな」と思った。

 でも、それは“嬉しい”という感情とは結びつかなかった。


 明るさが鬱陶しく感じるとき、自分が少しだけ“世界からずれている”気がする。

 けれど、それはもう慣れていた。

 光の強さに心が追いつかないことも、目覚ましを止めてから起き上がるまでに1時間かかることも。

 そして、誰からもメッセージが届かないことも。


 奈緒は午前10時になってようやく起き上がった。


 部屋は静かだった。

 冷蔵庫のモーター音がかすかに鳴っていたが、それだけだった。


 スマホを手に取って、画面を確認する。

 通知はゼロ。メールも、LINEも、SNSも、何もない。

 「今日」という日は、スマホの中には存在していなかった。


 誰からも「おはよう」と言われず、誰にも「おはよう」と言わずに始まった日。

 それが、奈緒にとっての“平常運転”だった。


 朝食を用意する気にはなれなかった。

 なので、ぬるま湯を一杯だけ飲んで、ソファに横になった。


 テレビはつけない。

 ラジオも音楽も流さない。

 ただ、外の音がうっすらと聞こえる。


 カラスの鳴き声、遠くの車の走行音、

 どこかの家から洩れる子どもの笑い声。


 それらはすべて、奈緒には「届かない音」だった。


 たとえこの部屋で一日中何をしていようと、

 世界のどこにもその痕跡は残らない。

 ネットに何かを投稿しなければ、今日という日は“存在しなかった”ことになる。


 記録されない一日。

 誰の記憶にも残らない時間。

 それはつまり、「透明な日」だった。


 正午を過ぎたころ、郵便受けの音がした。

 奈緒はゆっくり立ち上がり、玄関に向かった。


 入っていたのは、水道料金の請求書と、チラシが一枚。

 チラシには、こう書かれていた。


 「ご親族のいない方へ――おひとり様の終活サポート」


 奈緒は、何も言わずにそれを畳み、紙ゴミの袋に入れた。


 ──今日という日も、どこへも届かなかった。


 誰かに報告するでもなく、

 誰かがそれを聞くでもなく、

 ただ、時刻が進んだだけ。


 「わたしは今日、生きてた」

 そう言える機会すら、もうほとんどなかった。


 午後になって、外出するかどうか少しだけ迷った。

 食材が乏しくなってきたし、日光を浴びたほうがいいと、頭ではわかっていた。

 けれど結局、靴を履くところまでたどりつけなかった。


 理由はなかった。

 ただ、今日が“出る日”ではないような気がした。

 そう思ったら、それで終わりだった。


 奈緒は、窓辺に座り、空を見た。

 雲がゆっくり流れていた。

 どこへ行くのかは、わからない。

 でも、彼らは「どこかへ届いている」。


 ──自分の今日という日は、どこにも届かないのに。


 そんな考えが、胸にひっそりと沈んだ。


 夕方、風が強くなってきた。

 近所の洗濯物が風にあおられて、大きくはためいていた。

 それを見て、「あ、取り込んだほうがいいかもね」と独りごちる。

 もちろん、それは奈緒の洗濯物ではない。

 自分は、干すべきものを持っていなかった。


 夜になって、部屋は暗くなった。

 蛍光灯はついているが、奈緒の心には灯りが灯らなかった。


 テレビをつけたが、誰が出ているのか分からなかった。

 バラエティ番組の笑い声が、部屋に似合わなさすぎて、すぐに消した。


 この部屋には、音も、光も、時間さえも、似合わない。

 そう思った。


 奈緒はベッドに入る。

 スマホを枕元に置き、画面を見つめた。

 通知は、ゼロ。

 それが、今日の終わりだった。


 ──「今日という日は、どこへも届かない」


 心の中で、誰にも聞かせることのない言葉を、静かに反芻する。

 そして、奈緒は目を閉じた。


 明日もまた、誰にも知られない一日が始まる。

 誰かの時間ではない、自分だけの、透明な時間が──


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