私は今日、猫を看取った。
佳宮
『ちび』
『ちび』という名前の、茶白でふっくらとした短いしっぽの大柄な猫。
肉球とお鼻はきれいなピンク色、目は明るく美しい黄緑色。
とても温厚で他の猫にも優しく、甘えん坊ですごくかしこい男の子。
真冬の夜、薄暗い玄関の外から私を見つめて、必死で鳴いていた猫。
子猫ではない、それでもすごくガリガリで小さく見えた。
目ヤニと涎で顔はぐちゃぐちゃで、全体的に酷く汚れていた。
それでも目が合ってしまったから、放ってはおけなくなった。
慌ててキャットフードをふやかし、小さなお椀に入れた。
ぬるま湯を入れたものも用意した。
ふたつ並べてトレイに乗せ、畳んだダンボールを持って慌てて戻った。
玄関に駆け寄ると、まだいた。
扉をソッと開けて手だけ伸ばし、まずダンボールを床に敷き、その上にトレイを乗せた。
薄汚れた猫はその様子を、ミィミィと鳴きながら少し離れた場所で見守っていたと思う。
扉を閉めるとすぐ猫がトレイの上のごはんにがっつくのを見て一安心し、
急いでダンボールを用意し、私が使おうと準備していた湯たんぽをバスタオルで包み
ダンボールの底に入れ、更にその上に膝掛け毛布を敷き、簡易的なダンボールハウスをつくった。
小さめのダンボールの中には猫砂を入れ、猫がまだごはんを食べている隙に
その二つのダンボールを並べて置いた。
吹雪いていたし、すぐ家の中に入れてあげたかったけれど
驚かせてしまって遠くへ逃げていってしまったら…、と思うとこれが限界だった。
家には高齢になる猫がいたから、病気や怪我といった危険も避けたかった。
次の日の朝、吹雪はやんでいた。
恐る恐る扉を開け、ダンボールハウスを覗くと、猫はいた。眠っていた。
猫砂の中にはウンチまでしてあった。
胸を撫でおろし、猫砂の中のウンチをとっていると
眠っている猫が起きて、しゃがんでいる私の腰に体を擦りつけてくれた。
まるでお礼を言っているみたいだった。
私はその瞬間、ゴム手袋をした手でひと撫でしてから抱きあげて
先住猫のお古のキャリーケースの中に入れ、動物病院へ直行した。
最初から一時保護はするつもりだったけれど、先住猫もいたので飼う気はなかった。
だから、仮名として『ちび』と名付け、呼ぶことにした。
怪我と病気が治癒するまで、『ちび』専用の部屋で過ごしてもらうことにした。
先住猫との事も考えると、無理に接触させるより隔離が一番いい気がした。
人慣れしている子のようだったから、里親を探すのは楽なように思えた。
最初からトイレもできたし、甘え上手でワガママも言わない、理想的ないい子。
こんなにかわいい子、誰だって一緒に暮らしたいだろうと感じた。
でも、ゴミでも漁っていたのか、カラスにでも突かれたのか
顔と体にたくさん傷があったし、骨と皮だけの状態で
目ヤニと涎・耳ダニもあって、きれいな姿になるまでかなり時間を要したし
里親は結局、見つからなかった。
顔に傷が残ってしまったのと、写真と文章だけでは『ちび』の可愛さを伝えきれなかったのが敗因だったように思う。
『ちび』はどんどん大きくなって、名前が不釣り合いな体格になった。
診てくれた先生に「この子は頭蓋骨が大きいから、大きくなりますよ」と言われたことを思い出した。
結果として、『ちび』はうちの子になった。
私は『ちび』と17年、一緒に暮らした。
私のもとにきた時にはもう大人だったようだから、
『ちび』の猫生はもう少し長かったと思う。
思い返せば猫らしいイタズラだとか、粗相での抗議を一度もされたことがない。
よくおもちゃを口にくわえ、どこか誇らしげに私のもとに運んできてくれた。
私が椅子に座っている時は、度々膝の上に乗りにきては甘えてくれた。
私の腕枕で一緒に寝て、朝は私の顔におててで優しく触れ、起こしてくれた。
のちに保護した子猫の面倒をみてくれたのも『ちび』だった。
そういう子だった。こんなにいい子どこにもいない、『ちび』だけだと思った。
今日、その『ちび』を看取った。
甲状腺機能亢進症と腎不全を併発して、完治は望めずに余命を宣告された。
長くても半年。
看取ることは、ずっと前から決めていた。
闘病中は、調子に波があった。
調子のいい日が続いたと思ったら、急に何も食べなくなったりした。
それでもいつも水はしっかり飲んでくれたし、
自力で歩行ができていたし、トイレも完璧だった。
しかし、食べられるごはんがころころ変わるようになった。
いろいろな種類を購入してみては試す日々だった。
急激に痩せていった。目つきと体臭が変化していった。
私は、思い描いていたような完璧な対処は何も出来なかった。
いつだって後手後手で、すべてが遅かった。
昨日の早朝、突然立ち上がれなくなった『ちび』が、
ベッドの下の隙間に横たわっていた。
大きな声で私を呼ぶので抱き起こすと、すぐに私の手から離れて歩こうとする。
数歩は歩けたけれど、うまく歩き続けることが出来ずに倒れてしまい
癇癪を起こしたように、また大きな声で鳴いた。
慌ててベルトで介助した。ベルトで体を支えながら『ちび』が行きたい方向へ一緒に行った。
トイレだった。トイレから尿がはみ出てしまい、脚が汚れてしまった。
ひどく落ち込んでいるように見えたので、抱きあげて頭を撫でて
「大丈夫だよ、大丈夫だからね」と声を掛けて脚を洗い、タオルで拭いた。
そこからは、早かった。
完全に立てなくなった。ずっと目があいたままになった。
手足が完全に虚脱し、尿が垂れ流し状態になった。口呼吸へと変わった。
少し嘔吐した。首がすわらなくなった。液体フードも薬も喉を通らない。
流し込んでも嚥下が出来ない。水すら飲めなくなった。
数時間ごとに、これまで出来ていたことがひとつひとつ失われていくようだった。
私は一日中、ずっと『ちび』のそばにいた。
いつものお気に入りの場所、私の枕横の猫ベッドにペットシーツを敷き
その上に『ちび』を寝かせた。
『ちび』は動くことなく、ただキラキラとした目でどこかを見つめていた。
たまに私の方へ瞳が動き、瞼が微かに動いた。
元気だった頃、私たちは目が合う度、お互いに目をゆっくり瞑ってみせた。
それが私たちの「大好き」の合図だった。その動作を彷彿とさせた。
ペットシーツの他に、ペット用のウェットシート・ティッシュ、
それにタオル・毛布・ナプキン・ミニトレイを数枚用意した。
ペットシーツの上の口元とおしり付近にナプキンを敷いた。
ナプキンの上にティッシュを敷き、ティッシュを15分おきに交換した。
これなら蒸れたりおしりを濡らしたりすることなく、
ほぼ常に清潔な状態を保てた。尿量も確認できた。
1時間おきに水を飲ませて口元やおしりを拭き、
2時間おきに液体フードを試し、4時間おきに寝返りをうたせた。
たまに目薬を差し、瞼をやさしく指で持ち上げて目の渇きを潤した。
あとは隣に座ったり寝転がったりしながら、ずっと撫でていた。
背中を撫で、頭を撫で、おなかを撫でて、抱きしめて、たまにおでこにキスをした。
「いいこだね、だいすきだよ、かわいいね、大丈夫だよ」
そう声を掛け続けた。たまに子守唄を歌った。
不満があれば鳴いて教えてくれると思った。
でも最期の時まで、『ちび』は鳴かなかった。
鳴く力さえ、もうなかったのかもしれない。
呼吸が荒くなった。少しむせたような声が聞こえたように思った。
背中をさすった。頭を撫でながら声を掛けた。
それから数分に一回くらいの割合で、ちいさな咳をした。
心音も呼吸も、ちいさく緩やかになったように感じた。
「いいこ、いいこ、だいすきだよ、大丈夫だからね、だいすきよ」と私がいうと
『ちび』はか細く振り絞るような声で、「ア。」と鳴いた。
それが最期だった。
私は頭を撫でて、背中を撫でて、おなかを撫でてから、
『ちび』の心臓に耳を当てた。
自分の耳に流れる血液の音だけが聞こえた。
顔をあげて『ちび』のおなかを見つめた。
ジッと見つめ続けても上下しない。
『ちび』の目に動きがないか、覗き込んだ。
目が合っても、もう『ちび』の瞼はぴくりとも動かなかった。
受け入れられると思っていた。
『ちび』は余命宣告という形でお別れに備える時間をくれたから。
今日その日を迎えるまで、大丈夫だと思っていた。
なにも大丈夫なんかじゃない。
私はこどもみたいに声をあげて泣きじゃくっていた。
胸を強く強く殴られたような痛みがした。
呼吸が出来なくて、苦しくて、
喉が焼け付くような痛みに襲われて、ギュッと狭まって
そこから「やだ、やだよ、ずっと一緒にいてよ」と駄々を絞り出しては泣いた。
「半年もつかどうか…」と言われたのに、ごはんを一年分買った。
気に入って食べてくれたおやつはそれ以上買った。
おもちゃもいろいろ買った。またたびグッズも買い集めた。
「尿量が多いから」と猫砂もたくさんストックしてある。
完全室内飼いになってからも度々お外に出たがる事があったから、
だっこも出来る仕様のリュック型キャリーバッグも買ってみた。
馬鹿みたいだけれど、奇跡を願っていた。一種の願掛けだったように思う。
なのに、おやつは体への負担が心配でたまにしかあげられなかった。
キャリーバッグは「もう少し元気になってから」と、結局一度も使わなかった。
全部今更なのに、「あの時もっとこうできたら良かった」
「昨日こうしておけば、もっと前にああしておけば」と考えて
自分の首を絞めて後悔するのをやめられない。
急激に老い、痩せた『ちび』をみるのはつらくて、何よりも怖かった。
そんな状態になっても『ちび』はずっとかわいかったけれど
死を連想し、最期を想像してしまうから、こわかった。
だから現実逃避を繰り返し続けた。
結果、突然の急変に慌てふためき、今も現実を受けとめられずにいる。
これまでの日々が一体どれだけしあわせだったのか、
失ってから何度も、胸を貫かれるような痛みと共に思い知らされている。
『ちび』の存在が私にとってどれだけ大きいか、知っていたはずなのに
もっともっとずっと大きかったのだと、大切だったのだと気付かされる。
私にとって唯一無二の家族だった。理解者だった。狂おしいほどに愛おしい存在だった。
失った今でもそれは変わらないけれど、今はもうそのことを『ちび』に伝えられない。
それがとても、悲しくて苦しくてたまらない。
明るい茶と白のやわらかな被毛を、若葉色に輝く美しい目を、
短いふわふわのしっぽを、やさしく甘える鳴き声を、
世界一優しくおりこうな猫を、私は今日、永遠に失ってしまった。
『ちび』は今、小さな白い骨になって、骨壺の中で眠っている。
私はその骨壺を膝にのせて、祈りを込めてこれを書いている。
この痛みを、『ちび』のことを、ずっと忘れないように。
私が死んでも、ずっとここに『私のちび』が遺るように。
私は今日、猫を看取った。 佳宮 @MyDayDream
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