苔むした悪意

かいまさや

第1話

 うすくじめじめとした木蔭に、じっと佇むようにある御影石でできた墓標は、かつては写っていた鋭利な彫り跡も群生した苔にすっかり埋もれて読みとることは難しくなって仕舞っている。


 果たして持ち主の解らぬこの墓石は、もはや苔にすら喰い呑まれて、青ざめ、へばりつく微小な生命たちが死を助長するような静寂のうちに眠っている。


 まるで大きな蒼樹の根が私の足頸をつかみ離さぬような沈黙に、その凶然な影をあらわしてくるので、私は助けを乞う様にざわめく枝葉の方に縋って顔をあげる。木霊たちはさらさらと笑いかえすだけだけれども、何とも不安な風気かざけを私の方まで運んでくるものだ。


 どこか鬱陶しく叫ぶ蜩の声も、今や遠くかたむきつつある陽の向こうで囁くだけで、私には耳鳴りていどの冷めた風が感じられるだけである。



 或る日の昼下がり、私はひと里を離れた場処に諸用があって、細い私鉄の路線をなぞっていた。


 その車窓にながれる樹々の木漏れ陽を顔にうけながら、鄙びた枯れ草のしかれた田畠の悠遠な土地に、ぽつりと存在をあらわす鎮守の社があるのを、私は見逃さなかった。


 革靴のまま、座席に膝立ちになって窓に喰らいつく壮年の背ろ姿は、まるで恥も知らぬ子どものように、さぞ滑稽に写ったであろう。しかしそれほどまでに、私の胸はざわめく欲動で浮きたって、自律したそれは私をおき去りにしてしまったのだ。


 その駅で降りたのは、私ひとりであった。大切な用事を欠くことになってしまった私も、その追責をほうって心の趨く方に胸をはる。ずっと先の駅が記された切符を改札口で留守する木箱にあずけて、小さな駅舎をあとにした。乗ってきた列車が溜息をもらして、再び動きだすのが背に聴こえた。



 豊かな畦道を黙々と通りぬける。おけら達が揶揄からかうように笑って、蜩が不穏な予兆を報せるように騒ぎたっている。しかし、私のこころの何処からか沸いてくる欲望が雑木林の方へ強くたしかに私をかどわかしてくる。


 その森に近づくほどに、濃く緑蔭のべっとりと滲んだ梢枝こずえが私のこころの世界までも被い尽くすように、だんだんと広がって、私の精神はいつの間にか不安定な畏怖の暗がりで満ちて、彼らのように騒めきはじめた。


 入り道のところには、遠い過去に忘れられた鳥居が足を挫いて、冷たい青草の上に寝かしつけられている。その先に歪な石畳が段々と敷きつめられていた。その石段すらも半分くらい自然にのまれていて、頂上までに道は途切れて仕舞っている。


 時のうちに棄てられた鳥居を横目に、その石段をすすんでみる。妙に脚が重い。まるで踏みつけた石磴が、そのまま私の脚にくつっいて重石おもしとなっているようだ。灌木たちは蔦にからまれて、その辺りの倒木になるまでを序長しているように脆弱ひよわそうにゆらゆらとそよいでいる。その雑音に駆られて、私の息はみるみるうちに細く短くなっていく。こんなにも息が切れるのは、このこころに撞着する翳が私の何を奪ってしまったからだろうか。


 もはや振りかえっても麓の方は見えなくなっていて、私はこの登攀とうはんを少しばかり後悔しはじめていた。頂上の様子をうかがっても、ただ閑かに染みこんだ緑蔭と目が合うだけで、私の心身はすっかり疲弊してしまっていたのだ。


 下から見上げてみたうちには思いがけぬほどに長い踏み段が、それは本当にこの世ならざる処へと私を誘いこくっている様にすら感じられる。


 私は疲れから腰の低く顔を伏せたままに、蹴上けあげのしばし緩やかになるまで、無心でその段丘を登っていった。



 気づくと、そこには少しばかりの平地が広がっていた。松毬ちちりと枯れ枝の敷きつまった土と息苦しくなるほどの湿った草の匂いに満ちていて、私の乱れた拍動が耳元で煩く鳴きはじめる。


 意識にたまった靄は熱っぽくなり激しく脳芯をゆすぶって、するとかえって視界がくっきりとしてくる。或る輪廓がそこに現れた。それは一塊の御影石であった。


 碑石は濃い苔を見事にまとっていて、まるで緑彩みどりだみの翡翠のように瑞々しく木洩れ陽を還している。それが煌めいて見えたので近づこうとすると、石盤のどんよりと沈んだおもかげが私を押しかえそうとするものだ。


 目を凝らしてみると瞬きに、はっきりとしない刻文には私の名が表されている様にみえた。


「私は、此処で死ぬのか…?」


 動揺してうろたえながら、さし足で背後うしろへ退くが、その時、翳が私の背をおしてきて、逃げ場を失う。抵抗も虚しく、ただ深緑に染められた墓場で立ち尽くす私は、こわばった顔に不気味な微笑を浮かべながら、それまでよりもずっしりと重たく座る御影石に目を奪われていた。


 一瞬であった。私は土の滑りに足をとられ、生々しく樹々の生いたつ斜面に放り出された。


 それからは、もはや抗いようがなかった。次から次へと雑木や植草の枝が私の肌を切って、黒ずんだ土壌から露出した巌たちが私の血肉を青くなじってゆく。


 私はすでに朽ち果てようとしている意識の底で、冷淡に自分の運命だけをにぎり込んで、ただままに身を任せた。


 最期に一度だけ強く硬い鈍痛が頭蓋に響くと、けたたましく勢いを失って、私の身体は…。



 …長い間、雨に打たれていた。すっかりぼうになった身体は徐々に土へと取りこまれてゆき、私の姿は誰からも失われてしまった。雨粒は私をうつろに馴染ませるために、まるで私の背中をさするように降りそそいだ。


 そんな微睡まどろみうちにも、私はあの暗澹あんたんに座る御影石の面影を追いかけていた。言葉をもたず、ただそこに在るだけの碑石の得体を、私はひたすらに知りたかったのだ。


 私は永い年月をかけて地面を這って、石段を登って…この山嶺の何たる雄大さだろうか。石段の歪みひとつひとつに足を掛けて、心ごと挫けてしまうのではないかと思わせられた。しかし、私は再び山頂まで帰ってきた。



 あった、あの御影石だ。そこら全ての風をまきこんで、周りの樹々がより重い蔭をおとしている。私のこころは落ち着きを失う。


 何も言わない、言葉を失った私を冷たくかどわして離さない。それは今に始まった物語ではないであろう。あの、車窓で目を奪われた時から、そのようにあって、そうなるようにさだめられていたのだ。


 声を荒げるには、もう私は矮小な存在になりすぎた。大きな運命に小さく抗ってみても、もはや苦しみの業から解放されることを望んでいた。


 私はそこに刻まれた名を自ら喰い呑んで、この物語を終えた。苔はその石、深くに根づいて、やがて静かに風に還っていった。遠くでは、昇った陽を迎えるように蜩たちが唄いはじめたようであった。

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