第30話

「ハーデス様、こちらにいらしたのね」

 見上げた先には、飼い慣らした魔獣に騎乗するペルセフォネがいた。影は隊を組んで浮遊しており、先にタルタロスへ降り立った冥界の騎士は、ハーデスに一礼してから空に合図の手を挙げた。

 残りの二騎に挟まれるようにして、ゆったりと滑空するペルセフォネは、ハーデスを見つけるとにこりと微笑む。そして、身に纏う白い布を風にたなびかせて、自ら下乗した。

 

「今日は一日中姿も見せませんで、どうなさいましたの。もう夜も更けておりますわよ」

 魔獣を騎士に預けて、ペルセフォネはハーデスに歩み寄る。それから大地に横たわるシャロンを見つけて驚いた。

「シャロンちゃん? ……シャロンちゃん!」

 ペルセフォネは、ハーデスがそうしたのと同様に綺麗な布が土埃で汚れることなど構わず、すぐさまシャロンの傍に寄った。

 

「ペルセフォネ、触れてはいけないよ」

 思わずシャロンに手を伸ばしたペルセフォネに、ハーデスが声をかける。

 振り返るペルセフォネは、酷く不安そうな表情を見せた。ハーデスはそれを受けて、視線で騎士たちに下がるように訴える。最初に降り立った騎士はケルベロスの方を一度見やってから、残りの二人を引き連れて大穴の向こうへと移動した。

「一体……なにがありましたの?」

 ペルセフォネの問いかけに、ハーデスがもう一度あの話を繰り返す。聞くたびに気分はより一層落込んで自責の念が深くなり、ケルベロスは話の触りのあと黙ってその場を離れた。


 ペルセフォネの連れてきた騎獣たちは、そのうちアケローンのほとりで足を休め、ケルベロスもシャロンの傍に腰を下ろして話し込む二人を眺める。神の忌み嫌う場所に今日は二人の神とその侍従、そして魔女がいる奇妙さを鼻で笑って、深いため息を吐いた。

 いったいこれからどうなるんだろうと川の向こうを気にして、ケルベロスは小賢しくもタルタロスの未来を憂う。果たして、こんなことは今までにあったのだろうか。どちらにせよ、事の発端を作り出したその畏れ多さに、今更ながら血の気が引いた。

 

 思い返せば、昔から行動の端々に自身の力へのおごりがあった。無論、その時は驕りなどとは思わずにいたわけだけれど、シャロンとの邂逅然り、ヘラクレスにだってどこか高を括って甘く見ていたと反省する。

 事の大小問わず、自分なら何とかできるはず――生まれてこの方ずっと信じて疑わなかったその矜持を取り崩された今、ケルベロスはあまりの不甲斐無さに肩を落とした。

 

 元の姿であったなら、幾らか救えるものもあったのだろうか。柄にもなくそんな考えが頭を過り、乾いた大地を見ていた目が自然とシャロンに向く。仕留め損なって迷惑をかけたのはこれで二度目で、しかも相手はもう謝罪さえ受け入れられない状態だと思えば、意気も消沈してため息をついた。


「――それで、これからどうなさるおつもりですの?」

 ペルセフォネの声が響く。気を取られたケルベロスは、その続きに聞き耳を立てる。

「アケローンは穏やかだけれど、シャロンの容態を考えればいつどうなるかわからない。ケルベロスも心配だし、私は暫くタルタロスに留まって様子を見ようと思う」

「こちらに逗留される、ということですか?」

「渡守の代わりは出来ないが、ここなら前庭も近いからミノスやアイアコスとも連絡を取りやすいしね。万が一アケローンに何かあってもすぐに対処できる」

 

 成る程、ハーデスは暫くここで過ごす気らしい。なんだかんだ言っても、アケローンの渡守が居ないというのはやはり余程の大事なのだ。ケルベロスは改めて認め、納得した。そして、ペルセフォネもまた頷く。

「そうですわね。確かにシャロンちゃんは心配ですし、前庭の死者の管理を思えばアケローンのそばにおられるのは合理的ですわ。タルタロスをケルベロス一人に任せるのもまた、門番になったばかりの彼には荷が重いやもしれませんし、守りの薄さを突かれて万が一にも冥界から死者を他へ逃がすわけにも参りませんわね」

「その通りだよ。ああ良かった、それでは――」

 

 しかし、ペルセフォネはそれからハーデスの言葉を待たずして、横たわるシャロンを一瞥する。

「ですが冥界の王たる者、そのような事で長く城を空けてはなりませぬ」

 不意の視線が、彼女の華やかさを瞬時に凍らせるほど冷たく感じた。いつもの慈愛に満ちたあたたかさは皆無で、冥界の王妃として申し分無い冷酷さを声に乗せ、その場を二歩三歩とゆっくり離れる。その静かな佇まいに、ケルベロスは息を呑んだ。

 

 ――そのような事。

 いくら冥界の王妃といえど、これを『そのような事』と安易に片付けるのは如何なものか。と、案の定ハーデスが勃然と聞き返した。

「そのような事、とは?」

「言葉のままですわ。私には、王が直々に城から身を移すほどの事とは思えませぬ」

「冥界の護りの一柱を担う者が倒れたのだぞ」

「されど、数ある臣下の内のひとりです。まして命尽きたわけでもなし、あまり御心を動かされませんよう」

「王であるからこそ、心動かされるのだ!」


 タルタロスの谷底に怒号が舞い、しかもそれがあの温厚なハーデスのものだったから、ケルベロスはとても驚いた。

 気落ちするハーデスもそうだが、このように激昂するハーデスも初めて見る。しかし、そこは流石ペルセフォネ、一寸たりとも慄かず、寧ろ逆に喰ってかかるくらいの勢いでハーデスに詰め寄った。

 

「そうです。貴方は冥界の王であられるのですよ。冥界の民のすべてを護り、慈しむべきでは御座いませんか?」

「そんな事は百も承知だ。そう思うが故の判断だと何故わからぬ? 護るべきが倒れたならば、手を差し伸べねばならないだろう!」

「いいえ、私は眼前の悲劇にばかり目を向けられるな、と申しているのですわ。確かに、シャロンが倒れた事は冥界の痛手です。けれど、いつ目覚めるやも知れぬ者をここで少しばかり見守る事に、どれほどの意味があるのでしょうか」

「ペルセフォネ、お前はこの場を見捨てよと言うのか?」

「いいえ。いいえ、そうでは御座いませぬ」

「ならば、どういうつもりだ」


 激しい怒号の後の不穏な穏やかさは、いつ切れてもおかしくない緊張を孕んでいた。何かひとつでも間違えれば、今以上の混乱に嵌まるような危うさがあった。

 そして、夫婦がお互いに見つめ合って交わす言葉の応酬に、ケルベロスの入る余地などない。迂闊に手を出せば瞬時に白刃で斬られるような恐ろしさに堪らず尾を巻くと、ペルセフォネが打って出た。

 

「どうか、貴方の大切な臣下をもっと信用なさいませ」

「馬鹿な、私が信用を置いてないと?」

「貴方の信用は表向きで、裏を返せば御心配なさっているだけです。勿論、お優しいハーデス様ですからそれも当然のことだと思いますわ。ですが、今は心からシャロンの生命力を信用し、その能力を信用し、さらにそれを見守るケルベロスの力を信用されて下さい。そうすれば、なにもここにいる理由はないはずでしょう!!」


 先程響いた怒号とはまた別に響く声が、高く反響する。それに、と付け加えたペルセフォネは、ちらりとケルベロスを見やった。

「貴方がここにいらっしゃることで、王城を何日も空けるようなことがあれば、貴方の信用する臣下達はおろか、民が困惑しますわ。日々の雑務、謁見、それぞれをこなす為に臣下はいつも水面下で動いております。また、今日の全日の不在さえ、部族によっては脅威に感じることをお忘れなく。本当に冥界を思っていらっしゃるのならば、まず全体を見据えねば」

 まるで自分が諭された気がして、ケルベロスは促されるように頷いてしまう。するとペルセフォネは少し微笑んで、視線をハーデスに戻した。

 

「ここにいなければならない理由と、自分のお立場をよく秤にかけてお考えください。……貴方ほどのお力があれば、この広い冥界の中、いくらでも思うままにできるでしょう。ならば、どのような不遇にだってきっと立ち向かえるはずです。どうぞ……御自分のお力を信用なさってくださいな」

 ペルセフォネは力強く懇願した。けれどハーデスは怒鳴ったきり、微塵も動かない。ペルセフォネの碧色の瞳を厳しく見つめたまま、固く口を閉ざしていた。よって、緊張は解けない。


 いくら妻とは言え、相手はハーデスだ。いつもは温厚でどんなことでも聞いてくれる相手であっても、今この状況下で意見するのは浅慮に思えた。ペルセフォネの言うことは尤もだったが、だからといってハーデスの気持ちがわからないわけではない。ケルベロスは息を飲んで、二人を見守った。

 

 すると、ハーデスは、はあ、と大きなため息をつき、おもむろに掌で自分の目頭を覆う。その一挙手一投足に、ペルセフォネは目を離さず、ケルベロスに至っては神経まで尖らせた。

 ため息だけでは、それが憤りなのか内省なのか判断できかねる。よって、そのまましばらく動かないハーデスを見つめ続けていると、ハーデスは風に揺れた銀髪を静かに耳に掬った。


「ペルセフォネ……」

 沈黙の中でハーデスの呟きが消え入りそうに小さく吐かれた。それだけで、ケルベロスの心臓は高鳴る。

 もうこれ以上の面倒ごとは御免だし、単純にハーデスの怒りが怖いのもある。それでも、万が一のことがあればペルセフォネを守るべきだろうが、それが自分にできるだろうか、そんなことまで考えて様子を伺った。

 

「なんで御座いましょう?」

 ペルセフォネの受け答えと同様、穏やかにハーデスがのってくれることを期待しつつ、ケルベロスはやり場のない視線をペルセフォネの騎獣に向ける。

 夫婦喧嘩は犬も食わぬと言うが、冥界の王夫妻の喧嘩など灰汁が強すぎて食う気も起こらない。あまりに長い緊迫状態に耐えられなくなり、もうなんでも良いから早く終わってくれ――そう願っていると、ハーデスがゆっくりと頭を下げた。


「ごめん、ペルセフォネの言う通りだ」

 ケルベロスは、いつもの弱気な声に安堵した。それでこそハーデスだとある意味感銘を受けて、思わず拍手を送りたくなる。

 ペルセフォネもまた、謝るハーデスに感極まった様子で駆け寄る。安堵したのは、ペルセフォネも同じことだったのだろう。

「……ハーデス様」

「怒鳴ったりしてすまなかった、ペルセフォネ」

 近づいたペルセフォネをそっと抱きしめ、ハーデスは柔らかに畝る金髪に鼻先を埋める。ペルセフォネは、いいえ、と、これもまたハーデスの胸に埋まったままで首を振った。

 

「私の方こそ、辛辣な言葉を投げつけて申し訳ありませんでしたわ。冥界の王であれどひとりの殿方ですもの、動揺なさることもあるでしょうに」

「いいや、感情に走って判断を誤ったのは事実だよ。ペルセフォネが道を示してくれなければ、私は本当に愚王となるところだった」

 それからも、二人は感謝と謝罪と、時折甘い言葉を挟んでのやり取りを続けた。ケルベロスの視線は再びやり場に困って、こんな騒ぎでも微動だにしないシャロンに行き着く。もし目覚めたら、呆れ顔で小さな嫌味のひとつでも言いそうな場面だが、そこだけは絵画のように動きがなかった。


「ケルベロス」

 一通りの段がついたらしいハーデスが呼ぶ。

「すまなかったね。天界から連れ戻って間もないというのに、落ち着きなく取り乱してお前を困らせた。……私は王城へ帰ることにするよ」

「ああ、そうしろ」

 空には既に、騎獣に乗騎した騎士たちが待っている。すると、ハーデスは耳の中に嵌めていた、いつかのあの石を手に取った。

「この石は使い魔、掌の上に置いて呼びかければ目を覚ますよ」

 

 ケルベロスがそれを受け取るために手を伸ばすと、ハーデスは優しく微笑む。何はともあれ、ハーデスはいつも通りだ。ケルベロスはひとつ消えた不安に胸を撫で下ろした。

「では、シャロンを頼んだよ」

 ペルセフォネの騎獣を座らせたハーデスは、くるりと振り返る。屈んで低くなった胴にペルセフォネが腰掛けると、騎獣はゆっくりと立ち上がった。立直するとその視線はケルベロスの目線よりもずっと高くなる。

「シャロンちゃんを……、よろしくね」

 ペルセフォネが、窺うような眼差しを向ける。その瞳は心配の色をしていた。

 

 あぶみに足を乗せ、ペルセフォネを抱くように乗騎したハーデスはそんな彼女の手をぎゅっと握るが、そのハーデスの瞳にも同じ色であることにケルベロスは気付く。しかし、そこで任せておけと強く応えられるほどの自信はなく、代わりに何か言おうとしても、何を言って良いのか分からず声にならなかった。


 信頼と心配は、似て非なるものだ。けれど、相手を信頼して大丈夫だと思う心の片隅に、心配は大抵同居する。ならば、その心配が少しでも小さくなるように、ケルベロスは『大丈夫』と僅かに唇を動かして、二人に向けて笑って見せた。



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