第29話

 風が冷たい夜だった。

 穏やかになったアケローンの川面を舐めて吹くその風に、ハーデスが銀の髪を靡かせる。視線の先のアケローンは、少し前に荒れ狂っていたとは思えないほど穏やかで、川面は深い藍色の別珍がなめらかに揺らめいているように見えた。


 ――もし、アケローンの統治を任せているシャロンが死んでしまったのなら、こんな閑寂な流れにはなるまい。

 

 ハーデスはアケローンを冷静に観察して思った反面、やけにざわつく心の乱れを感じていた。眼前に横たわるシャロンとケルベロスは、あれから数時間まったく動かない。微かな鼓動のあるケルベロスは苦悶の表情が消えて毒が抜けたように見えたが、代わってシャロンの方は倒れ込む前に自分で言ったように仮死魔法が効いて呼吸もなかった。

 もちろん、ハーデスの手によって、回復の魔法はすでにかけていた。衣服だって、元通りだ。ただ、一向に目覚めない。


 タルタロスの殺風景な中に身を置いて、しばらくが経つ。日に数度の狼煙も、今日の分はもう終わったし赤月も沈んだ。ハーデスはゆっくりと立ちあがると、いつかの白く小さな光源を手のひらに生んだ。

 優しく慈しむように両手で包み、丸く膨れ上がったところで眠る二人の間にそっと置く。辺りは朧げに照らされ、ハーデスはそれを見渡した。

 

 ほんのりと広がる神々が忌み嫌う景色の中には、花の一つも咲かない。乾いた大地は所々ひび割れ、空気は淀み、鮮やかな色味などは皆無、この時間になれば魔獣一匹、小虫一匹寄り付かない。

 ハーデスはたった一人でタルタロスの大地に立ち、底が抜けるほどの侘しさを感じた。シャロンに於いては驚くほど長い年月、それも一年ほど前まではたったひとりでこの場所にいたことを思えば、頭が下がる思いだった。

 

 いくら自ら志願したとはいえ、なんて長い間この淋しい場所にいたのだろう。静謐せいひつというには物悲しすぎるここは、無の時間が長い。だから、嫌でも自分と見つめ合わねばならない気がする。今まであまり考えたこともないことがふと頭に浮かんで、ハーデスはそっとシャロンの方を振り返った。

「永く生きるだけでは、まったく意味がないな」


 ――自分は冥界の王である。

 冥界を統括し、すべての力を持ち、冥界における権力の長、自分が冥界を象徴する者であると、控え目にではあるが自負している。しかし、偉大ではない。確かに地位的に見れば唯一無二の存在ではあるが、王として立派で優れているのかと言われれば、けっしてそうは思わない。

 唯一無二だからこそ、力に驕ってはならない。それはハーデスの信念と言って良かった。

 

 けれど、こうして大切なものを失いそうになると、途端に不安に襲われる。確固たる意思もなく、ゆるりゆるりと統治してきた己の執政は冥界が永く続く為のものであって、民のものではないのではないか。そんな自問自答が繰り返された。

 もちろん、王として冥界を統べ始めて数千年、このようなことがなかったわけではない。だが、自分にも感情がある以上、同じようなことが起これば気落ちするし、自分を責めずにはいられない。

 何度こういうことが起こるのだろう、起こらない為にはどうすればよいのだろう。こんなに長い寿命があっても、その答えは意外なほど見つからないものだった。


 ハーデスは大きなため息をつこうと、深く息を吸い上げた。しかし、胸一杯に空気を取り込んだ所で一旦止め、唇を引き結ぶ。安易な嘆息を思い直して、苦しい胸を流すように長く息を吐いた。

 動揺してはならない、冷静に思考を整理して毅然と対処せねば――。

 視線の先のアケローンの水面は白光が反射して、細かな煌めきを作っている。なにもないタルタロスにあって、美しい光。ハーデスがそれに目を奪われていると、不意に背後で気配を感じた。

 

 揺れ動いた空気の跡を確かめるように聞き耳を立てて、息を潜める。やがてささやかな布擦れの音がしたが、まだ半信半疑で振り返るには至らない。しかし、今一度間繰り返されたその音に、ハーデスは期待を抑えられなくなった。


「……ケルベロス!」

 

 ハーデスは、自分でも驚くほど大きな歓喜の声をあげた。横たわるケルベロスの頭が、微かに動いている。すぐさま傍に飛んでいって、その場に座り込み、ケルベロスの瞳を開くのを心待ちに覗きこんだ。

「う……」

 まだ身体のどこかが痛いのか、ケルベロスは眉を顰めて呻いた。そして、ハーデスの期待に応えるように幾度か瞬きをして、あの麗しい黒い瞳を見せる。

 

「ケルベロス!」

「……ハーデス?」

 ああ、良かった、と、ハーデスが胸を撫で下ろすのを、ケルベロスはまだすっきりしない様子で見ていた。そして、広がる景色にここがタルタロスであることに気付き、不意に身体を起こす。

「タルタロス?」

「ああ、帰ってきた」

「帰って? どういう……」

 短く言葉を返して、ケルベロスは頭をさすった。

「ヘラクレスは? ……そうだ、あの首輪は」

 

 記憶を辿って首に触れたケルベロスは、もうそれがないことを知ってハーデスと改めて目を合わせた。

「一体どうなったんだ? 途中からの記憶が全然ねえぞ」

「ケルベロスは殆ど気を失っていたからね」

「気を失う?」

「うん。天界は苦しかっただろう。あの後、急いでシャロンと一緒に助けに行ったんだよ」

 言いながら、ハーデスはケルベロスの隣で横たわったままのシャロンを目線で指した。


「……え?」

 虚を衝かれるケルベロスに、ハーデスは黙って頷く。目覚めてすぐに、この事態を飲み込めというのはいかんせん無理がある。

「全部話すから、……まず聞きなさい」

 しかし、ケルベロスは動揺を隠さない。シャロンから目を離さず、ハーデスに尋ねた。

「シャロン、どうしたんだよ」

「……ケルベロス」

「なんでこいつが倒れてるんだ」

「ケルベロス」

「だって、金の魔環は外したはずだろ。それがどうして」

「良いから、聞きなさい」


 ケルベロスの肩に優しく手を置いて、ハーデスは応える。それでもケルベロスの視線はシャロンから離れなかった。

「この青いの……毒じゃねえだろうな」

 愕然と呟いたケルベロスは、自身の溶けた服やそれに染み付いた青に気付いた。さらに、差し出したハーデスの指の変化にも気付いたようで、ハーデスはそれとなく指を折って治し忘れていた傷を隠す。と、ケルベロスが顔を上げた。

 

「俺が、なにかやったのか……?」

 必死の眼差しで訴えられ、ハーデスは少しだけたじろぐ。

「大丈夫、シャロンの呼吸は止まっているけれど――」

「止まってるって! お前、それじゃあ……!」

「でも、死んでいるわけじゃない。多分」


 食ってかかるケルベロスにせめてそう言って、ハーデスはアケローンを見やった。いつも通りのアケローンがこの時ばかりはなんとも歯痒いが、今は荒れ狂うよりも何倍もましだった。

「あのあと――お前がヘラクレスに連れられたのと紙一重で、私はミノスと一緒にシャロンの元へ辿り着いたんだ。聞けば、ケルベロスがヘラクレスとともに天へ昇って行ったという。だから、私はシャロンと一緒にお前を追ったんだ」

 ハーデスは、折った膝を崩してケルベロスのそばに座り込む。


「なんでシャロンと一緒に?」

「私がシャロンを誘ったんだよ。彼女はそれを受け入れた。やがて、二人で天界に赴きお前を見つけた時には、すでにお前は中毒症状を見せていた」

「中毒……?」

「魔獣は天界の光に当たると、体内を廻る血が毒に変わるという。お前も例に洩れなかった」

「初めて聞いたぞ、そんなの」

「冥界と天界の間に死者以外の往来は普通ないからね、知らなくても無理はない。そもそも魔獣が天界に行くこともないし、逆に天獣が冥界に来ることもない。ちなみに天獣が冥界に来ると、その血液が腐ってしまう」

 

 小波のような言葉が途切れれば、辺りには沈黙が広がる。ケルベロスは無言で俯いた。

「何はともあれ、ヘラクレスとの交渉の末にこちらへ戻ってきたのだけれど、お前は毒を吐き続けていて限界に見えた。助かる手立ても思いつかず、私も覚悟したくらいだよ。そして考え抜いた結果、シャロンが――」

 告げる真実の重みを思うと、胸が痛くなる。ハーデスは項垂れる鈍い光沢の黒髪に、一度言葉に詰まった。そして改めてアケローンを望む。

 ――お前の毒を、すっかり呑んだんだ。


 



 3



 ケルベロスは、予感の的中に鳥肌を立てた。始めこそ気に食わない奴だったけれど、こんな結果なんて望んでもいない。なぜそんな馬鹿なことをしたのか、いっそ放っておいてくれたら良かったのに――。

 瞬時に駆け巡る思いは、まずシャロンを責めた。けれど、責めるべきは違うと解っている。何故、どうして、そんな疑問の波が押し寄せては、〈俺なんかを〉という言葉が胸に取り残される。だけど同じくらい、毒が絡めばシャロンが黙っていないのもわかっている。そして、居た堪れなくなった。


 きっといつかは目覚めるはずだと淡い期待を寄せるが、隣で黙り込むハーデスを見ると不安が抑えきれない。いつも口癖のように言う『大丈夫だよ』の台詞も、今は欠片も聞こえてこなかった。

「シャロンは、いつ起きるんだ?」

 堪えきれなくなったケルベロスが尋ねても、やはり答えはない。振り返ってハーデスと目を合わせても、首を横に振るばかりだった。

 こんなにも真面目で真剣なハーデスの表情を見たのは、初めてかもしれない。ケルベロスは、逆にどうしたらいいのかわからなくなって、自分の方から目を逸らした。


 取り留めなく浮かんで消える頭の中の疑問符に応えてくれる者はなく、両者黙ったまま時間は過ぎていく。すると、遠くでリーンと長い鈴の音が響いた。

 不意に聞こえた音に眉を顰めてそちらを見上げれば、上空に灯りを灯した黒い影が幾つか浮かんでいる。飛び込んだ不穏にケルベロスは腰を浮かせたが、ハーデスが静かに制止した。

 

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