第28話

 やがてぽっかりと開いた大穴を見つけて、シャロンは一足先にタルタロスの大地へ降り立つ。落ち着きを取り戻したアケローンを見やって変わりないことを確認すると、それから続けて降り立ったハーデスの元へ駆けた。

「酷いな」

 ケルベロスをそっと降ろしたハーデスは、早速解毒の文言を唱えていた。しかし、横たわるケルベロスは不規則な呼吸を繰り返し、その合間に咳込んでは毒を吐き続けていて、状態が改善しているようには見えない。

 

 時折上げる呻き声が苦痛の叫びとなり、タルタロス一帯に響き渡る。身体が痙攣で跳ねあがる度に呼吸は止まりかけ、言葉を話すことなどはもちろん出来そうになかった。

「自分の毒を受け入れきれてない……。極限状態だわ」

 自身の経験から、シャロンは冷静にケルベロスの症状を見定めた。試しに口元に付着した毒に触れると、いとも簡単に指先が溶ける。どのような毒なのかわからないが、ケルベロスを抱いていたハーデスの腕を欠くほどであるから、並大抵のものではない。

 

「金の魔環で体力さえ奪われなければ、こんなに苦しむこともなかっただろうに……。しかし、そんなことを言っていても仕方がない。なにか手はないかなシャロン。道中、回復術をかけ続けたけれど、私にはこれ以上の術はない」

 シャロンはすぐに知る限りの療法を思い浮かべたが、どれも覿面てきめんな効果が狙えるものではなかった。


「普通なら体内の毒を排出すればなんとかなるでしょうけれど、ケルベロスの場合は私と同じく、毒を自生してしまっていますから、生半可な術をかけたところでいたちごっこになる可能性が」

「毒は太陽の光に反応して生成されるんだ。だから、冥界に戻れば自生が続くことはないと思うんだけど」

「であれば、強力な解毒術ですね……」

 シャロンは、言葉の途中で口を噤んだ。すると、ハーデスが泣きそうな顔で振り返る。

 

「あるの?」

「ある事にはありますが、このような強い毒ですと時間がどれほどかかるかわかりません。ケルベロスの体力が持つかどうかですが――」

 ハーデスはそれを聞いて、ぽろりと涙を一粒零す。シャロンは慌てた。

「えっ、いや、可能性が全くないというわけでは……」

「ごめん。でも、もうケルベロスが……」

 はっと振り返ると、ケルベロスの意識は失われていた。口元を真っ青にして、顔面は蒼白、ぴくりとも動かない。ハーデスはあからさまに気落ちして、その場にへたり込んだ。

「し、しっかりなさってください、ハーデス様! 私がなんとか致しますから」

 

 シャロンは、青い毒で汚れたケルベロスの傍に膝をついて座った。あれほど荒れていた呼吸の弱まりが気になって胸に手を当ててみれば、鼓動は微弱で力ない。汚れた口元に触れれば指先から煙が立ち、炎に焼かれるのに似た熱い痛みが襲ったが、シャロンは構わずそのままケルベロスの唇に触れ、毒を残さず拭いとった。


「いったい何を?」

「ケルベロスの毒が冥界で自生出来ないのなら、今過剰に生成されている体内の毒を一度すべて取り払えば良いのです。相手の毒を残らず吸い上げる、古い解毒法がありますの」

 しかし、ハーデスは徐に眉を顰める。そして、大きく首を横に振った。

「それは駄目だ。私や、毒の耐性もあるシャロンの指でさえも溶かす毒だよ。吸い出したところで、今度はシャロンが危ない」

「では、このままケルベロスをお見捨てになるのですか?」

 シャロンは指先についた毒をぐっと握り締めて、ハーデスを見返した。掌からは、肌を溶かす音が微かに聞こえる。


「もし毒が強くて……駄目だったら私が死ぬだけです。とりあえずなにかしないことにはケルベロスは死んでしまうし、私も後悔します。それに、冥界のあらゆる毒を飲んできた私を啄ばむような毒ですよ。こんな猛毒を前にして、それを飲まないなんて毒婦の名が廃れます。この機会を逃したら、こんな猛毒にはきっと御目にかかれない。……すべて覚悟の上ですわ」

「でも」

「一応、仮死の魔法を唱えますが、もし本当に死んだ時は身体が毒に侵されて溶けてしまうでしょうから、周りにも気をつけて下さい。あたりが毒沼になるかもしれない」

「シャロン!」

 叫ぶハーデスを無視して、ケルベロスの頬に手を当てたシャロンは顔を傾ける。そして、優しくゆっくりと魔法を唱えると、ケルベロスに口づけた。


 久方ぶりの柔らかな口づけは、まさしく毒の味だった。青白い頬の男の唇は冷たく、情緒もない。けれど、願わずには居られなかった。

 

(――これで、ケルベロスが助かるならば)

 

 口づけながらそう思う自分に気付いたシャロンは、願いを込めてそっと瞳を閉じた。唇をつけたまま、すう、と息を吸い上げる。毒に対抗する魔法を予め唱えてあるにもかかわらず、喉が焼けるような感覚を覚え、思わず咳込みそうになる。だがシャロンはそれを堪えて、身体の奥深くまで熱を帯びる息を吸い込んだ。

 

 毒婦として――。口づける前に前置きしたのは建前で、別のところにある本心は純粋にケルベロスを思っていた。

 幾年ぶりの口づけは、決して甘くはない。それに、恋愛のそれでもなければ、義理ともまた違う。けれど、この口づけは、シャロンの記憶にずっと残るような気がした。

 そんなことを考えているうちに、柔らかな唇から伝わる熱が次第に薄れていく。その分シャロンの身体の中は焼けつくようだったが、毒婦になる為に苦しんだ修業の日々を思えば、その痛みすら懐かしかった。


 ゆるゆると、身体の中を毒が廻りゆく感覚が強くなっていく。体内にある臓腑という臓腑が焼けついて、四肢の末端の感覚が痺れて薄れていく。

 唇をそっと離したシャロンは、少し汚れているケルベロスの頬に手を添えた。この頬にいつもの赤みが戻るように、と思いもよらず名残惜しい気持ちに襲われ、痺れる指先がそれを伝えているようだった。

 

「……ケルベロス」

 名前を呼べば、不思議と切なくなる。だがその瞬間、どくん、と心臓を大きな手で鷲掴みにされたような衝撃を受けた。

「シャロン!」

 唐突に襲った痛みで身体を跳ねあげたシャロンに、黙って様子を見ていたハーデスが駆け寄る。シャロンはそのまま何度か身体を跳ねさせて痙攣を起こし、掠れる視界にハーデスをかろうじて見つけた。


「シャロン、シャロン!? 大丈夫か? シャロン!」

 大地に倒れ込んだ身体を抱き起こすハーデスは、何度も名前を呼んだ。乾いた大地の土埃がハーデスの着る黒衣を汚しても、ケルベロスの毒で負傷した指先や腕が痛々しくただれていても、構わず必死になって叫ぶ様子にシャロンは応えようとする。

「あ……」

 それ以上、声は出なかった。途切れそうになる意識を必死で繋ぎとめようとすると、それを妨げるように呼吸が苦しくなる。なにかを求めるように伸ばした手が、宙をひと掻きして力なく倒れる。

 シャロンが最後ぼんやりと見たのは、タルタロスに刺す赤い光だった。

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