ケルベロスとハーデス

第27話

 足元から大地に吸い込まれた後は、再び白の世界が迎えた。金の粒は空中に舞って散らばり、霞んで見えなくなる。行きと同じ空間、ただ違うのはケルベロスがそこにいることだった。

 ケルベロスが吐き続ける青い毒は、その身体をしっかりと支えるハーデスの衣服を溶かし、煙を上げる。煙は一瞬だけ目の前を漂うと、あとは辺りを囲う白の中へと溶け込んでいった。


 ――不思議だ。

 相変わらず上を見ても、下を見てもきりがないように思える中で、シャロンはただ、ふわりふわりと白い空間に浮いていた。冥界と天界の狭間なのか、それとももっと別の場所なのか見当もつかないまま、ぼんやりと佇む。

 時折、遠くの方にきらりと光って消えていくものがある。上がっていくもの、落ちていくもの、行きには気が付かなかったものに目を奪われていると、ハーデスの声がした。

 

「手の中をご覧」

 言われた通りシャロンが自分の掌を広げれば、手の中にあの糸があった。いつの間に、と不思議に思う間もなく、シャロンはふとその糸を掴んでみる。すると、その瞬間から堕ち始めた。

 昇って来た時とは違って突然重力がかかり、身体が下へと引っ張られる。驚いて小さな悲鳴をあげると、上から声がかかった。

「絶対に糸を離してはいけないよ。離したらそれこそ落ちてしまうからね」

「……わかりました」

 

 こくり、と頷き、シャロンは同じ糸を掴んでいるハーデスを見上げる。それから、吹き上げる風に黒衣がまくれ上がらないよう左手で抑え、右手でぎゅっと糸を掴んだ。

 とはいっても、煌めく糸は本当に手の中にあるのかどうか不安になるほど感触を伝えてこないので、シャロンはせめて握った手の形を崩さないようにするのに必死だった。


「この糸は……」

「ヘラクレスもこれを使っていたね。遠くから見えたよ」

 シャロンは、言葉もなく頷く。

「だけど、この糸を降ろす魔法を使える者は限られているんだ。当然……ヘラクレスには使えない」

「では、なぜ?」

「なぜ……か。それはわからないな。ゼウスが親心で教えたことがあったのかもしれないし、今回の為に冥界との使いであるヘルメスが教えたのかもしれない」

 

 その名を聞いて、シャロンは息を飲む。

「そう……、そうですわ。ヘルメスは、ヘラクレスに手を貸していたようです。ミノスに嘘の数字を見せて、タルタロスへの侵入を謀ったとか」

「ミノスから聞いたよ。まったく、とんでもないことをしてくれたものだ。この分だと、使役の件も彼が関わっていそうだね」

 伝達の神でもあるヘルメスなら、使役の類はお手の物だろう。シャロンは納得と同時に、彼らの身勝手な振る舞いに呆れた。と、ハーデスがケルベロスを抱え直す。

 

「あの落とした木の実もね、あれは特に……力を増やす。冥界にはああいった類の果実は実らないから驚いただろう」

 一言も喋らないケルベロスを気にしながら、シャロンは大きく見上げて、ええ、と答えた。

「最初はなにかの魔法だと思いましたわ。食べただけで能力が上がるなんて、そんな夢みたいな物があるとは知りませんでした」

「あれはオリーブといって、軍神アテナが栽培する禁断の実なんだよ。能力の増加は一時的なものだけれど、瞬発力が高い。依存性もあって常用すると精神を蝕むから、手に入れるにはアテナの許可が必要なんだ。ヘラクレスが持っていたのはまだ若い実だったから、アテナの畑から奪ったのかもしれない」

 

 シャロンは耳を疑った。

「奪う? 天界の王族なのにそんなことをするのですか」

「元々、ヘラクレスは向こうで悪童として名高くて、ゼウスもほとほと手を焼いていたんだ。金の魔環だって三界の宝具で、使用するには三界の王の許可がいる。これもまた勝手に持ち出したようだったし、こうなった以上は、ヘルメスと二人で罪に問われるのは間違いないだろう。もしかしたら、冥界送りになるかもしれないね」

 

 ハーデスは苦笑するけれど、シャロンは笑えない。

「冗談はやめて下さい。私はもう二度と会いたくありませんわ」

 すると、ハーデスは『そうだね』と小さく呟いた。

「でも、もし堕ちてきたらコキュートスとは言わないまでも、第七圏か八圏あたりに送ってあげても良さそうだ。力自慢と嘘の神なら、それぞれ面目躍如だろう」

 ハーデスが勧める七圏と八圏は、それぞれ暴力と嘘の罪人が送られる圏層だった。それが冗談なのか本気なのかはわからない。ただ、シャロンにはその後に続く無言を打ち破る勇気はなかった。


 行きと同じだけの時間が廻り、視覚も聴覚も再び意味をなさなくなる。落ちているとはいえ、やはり感覚は不思議なもので、ゆっくりと下降していると言った方が今は正しい。重力は感じるものの、自重で落下しているものとは程遠かった。

 ただ、帰りもまた、遠い、長い、と心が急いて仕方ない。それは、怪我をしているケルベロスを連れている分、行きよりも強く感じた。

 

 と、不意にシャロンの視界が開ける。突然に目隠しされたように暗がりの中に放り出され、眩しさとは逆に目が慣れない。しばらくすると赤月が沈む間際のぼんやりした光を捉え、まごう事なき冥界の空が広がった。

 途端に肌に感じる湿気と、空気の淀み。取り巻く空気も、耳に入る地鳴りも、目に映る景色も、冥界を形成するすべてが不気味で重々しいのに、シャロンの胸に広がったのは間違いなく安堵だった。


(――帰ってきた)

 

 天界にいたのはほんの僅かの時間なのに、目や耳に感じるものが懐かしく思える。眼下に広がる冥界の景色に目を配る余裕ができたシャロンがふと上を見上げれば、ハーデスがケルベロスを抱えながら同じように微笑んでいた。

「とりあえず、タルタロスへ向かおう。シャロン、櫂を出せる?」

「ええ、すぐに」

 

 金の魔環によって吸い取られていた魔力がほぼ回復していたシャロンは、ハーデスに言われるがままに櫂を出す文言を唱える。ずぶずぶと左手に生まれる木の感触。黒衣の裾を押さえていた手を離し、櫂がすべて具現化したのを確認したシャロンは、長いこと世話になった糸を手放してそちらへ移った。

「どう致しましょう?」

「本当は移動魔法を使いたいところだが、あれはケルベロスにも負担をかける。少し辛いが、飛ぶとしよう。幸いここはタルタロスから近いしね」


 辛い、と言ったハーデスの手先を見れば、衣服だけでなく、指先や腕までもがケルベロスが吐いた毒の所為で半分溶けていた。シャロンは悲鳴に近い声を上げる。

「ハーデス様、御手が……!」

「ああ、見苦しいものをお見せして失礼したね。でも、問題ないよ」

「ですが!」

 肉が削げ落ちて骨の見える腕を、ハーデスは笑って上着で隠す。

「いいかい、シャロン。今は時間がないんだ。それに、私の腕はいずれ再生する。だから急ごう」

 

 冥界の王の傷を黙って見過ごすわけにもいかないが、ハーデスの頼みを拒否するわけにもいかない。シャロンはやむを得ずに黙って頷いた。

「ありがとう。では、行こうか」

 ハーデスはそう言うと、なんの飛行媒体も使わずに宙に浮く。身体ひとつで飛行することは、魔女の常識で言えば不可能とされている。だが、それを何なくやって見せたハーデスに、シャロンは驚きで目を見開いた。


「ハーデス様、飛行の術をお使いになられるんですね」

「ああ、うん。あれ、でもさっきも使ったけどね」

 そう言われて、シャロンは天界についたばかりの時の事に思い至った。

「そういえば……。すっかり失念しておりました。あまりにもたくさんのことが起こりすぎて……」

「仕方ないよ。シャロンがそんなことを言うのは珍しいね」

 

 屈託無く微笑むハーデスに気恥ずかしくなったシャロンは、会話をはぐらかす。

「ハーデス様、ケルベロスは私が」

「いや、大丈夫だよ。女性に重いものを持たせるわけにはいかないし」

 シャロンの申し出を軽くかわしたハーデスは、それからタルタロスを目指し飛行を始めた。赤月は西に傾いて、煉獄山の稜線の奥に赤い頭が隠れている。唸りのような地響きが聞こえればまもなく活火山が赤い溶岩を吹きあげて、最後の狼煙の時刻が近付いていた。

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