第26話



「さあ、もうすぐだ。天界の光は冥界の者には眩しすぎる。目が潰れぬように、しばらくの内は閉じておいで」

 ハーデスが言って間もなく、確かに辺りの白さの輝度が増した気がした。シャロンは、言われるがままに目を閉じる。それでも尚、瞼の向こうに感じる光はどんどんと強くなり、やがて目を閉じていても眩しいと感じるくらいになると、あんなに吹き付けていた風が不意に止んだ。

 

 一瞬浮いた身体の感覚は、櫂を使って滑空しているときに似ていた。閉じた瞳の向こうに感じる光は強く、とても目を開けられない。だが、そうやって眩しさに気を取られている内に、糸に引っ張られている感覚がなくなっていることに気付いたシャロンは、目を瞑ったままハーデスに尋ねた。

「ハーデス様?」

「ああ、大丈夫だよ。慣れてきたなら目を開けてごらん、天界だ」

 眉間に皺をよせ、手を額に翳しながら、シャロンは恐る恐る瞼を開いた。

 

 赤月の光の何倍も強い白い光が辺りを照らし、視界に極彩色が飛び込んでくる。眼下に見える森は緑、空は青、見えるものすべての色が鮮やかで、その気はなくても驚きで目を見開く。暗がりなどどこにも見当たらず、明かりの元に曝け出された世界は一切の影もないように思えた。


「こんなに……、何故こんなに明るいのですか」

 思わず呟いたシャロンに、ハーデスは空の高い位置を顎で指した。

「冥界に赤月があるように、ここには太陽があるからね」

 しかし、シャロンには眩しくてそれを見ることは到底叶わない。言うなれば、魔法で生じる閃光が永遠に輝いているようなものだろうか。

 あまりにまばゆくて、世界のものすべてが自発光しているかのようだ。何十、何百とも知れない色味の洪水は果てしなくどこまでも続き、思いもよらず感嘆のため息が溢れた。

 

「さて、どこに連れて行かれたか……。ケルベロスのように鼻が利けばすぐに見つかるのにな」

 シャロンを抱いて空を飛ぶハーデスは、光にとうに慣れた様子で辺りを見回していた。口調は、どこか暢気で、きょろきょろと落ち着きない仕草はいつもと変わらない。

 それに少し安堵し、冷静を取り戻したシャロンは一緒になって眼下を探す。だが、広大な台地にあって人一人を探すのは、非常に困難に思われた。

 

「探すにしても……、一体どのように?」

「ヘラクレスは王族だからね、きっとあっちの方だと思うんだよね……。ほら、あの中央にあるのが天界の王宮。……ああ、見つけた」

 見つけた、と言ってすぐに下降を始めたハーデスだったが、シャロンにはてんでケルベロスの姿などわからなかった。一体ハーデスは何処までの力を持っているのだろうか、そんな風に思いながら大人しくしていれば、山々の緑の間、突如として現れた白肌の崖の上にそれらしき影が見える。

 だが、立ち上がる影はそれひとつ、不審に思ったシャロンは次に見つけた倒れる黒い頭を見て、ぞわりと鳥肌を立てた。


「ケルベロス……!」

 

 思わず名を呼ぶと、ハーデスが頷く。

「魔獣は私達と違って天界の光に耐えられない。元々魔獣のケルベロスであれば……」

 尖る岩肌の上に倒れ込んだケルベロスは、遠くから見ても瀕死の状態だった。台地に這いつくばり、額をつけ、吐き続けている。

「毒だ。身体の中で毒素が生まれてきてしまっている」

 ハーデスが言うように、ケルベロスが吐き続ける液体は魔女の森の毒沼を思い出させるほどに青かった。

 

 毒は垂れるそばから台地を焦がし、煙を上げてケルベロス自身の身体をも蝕み始めている。全身の毛が逆立つような感覚を覚えたシャロンが息を飲むと、久し振りの台地に足がついた。

「やあ、こんにちは」

 少し間抜けな挨拶と共に台地に降り立ったハーデスは、這いつくばるケルベロスを薄ら笑うヘラクレスに声をかけた。突然現れた二人に驚くヘラクレスだったが、それも束の間、シャロンの姿を見て嘆息する。

 

「お前か……。天界に駆け上がってくるほど俺が恋しかったか?」

「ふざけないで」

 平然と声をかけてきたヘラクレスに、シャロンは憤りを通り越して憎悪の念が生まれそうだった。渦巻く嫌悪を押さえきれずにいると、すっと横をハーデスが通り過ぎる。そして、傍に立つヘラクレスを無視してケルベロスの元にひざまずき、躊躇なく金の魔環に手をかけた。


 冥界の者が金の魔環に触れれば、たちまち雷に撃たれたような衝撃が走る。だが、ハーデスは何ともなくその金の魔環に触れると、造作もなく外した。驚いた表情を見せたのは、ヘラクレスだ。

「なっ……?」

 唖然として口を開け、ハーデスの手の中にある金の魔環を見つめる。ハーデスはその金の魔環を手に、ヘラクレスに問いかけた。

「何故、君がこれを? 宝具の持ち出しには、三界の王すべての承認が必要だが?」

「お……お前は誰なんだ? 何故魔環に触ることができる?」

 

 問いかけにまったく答えないヘラクレスに呆れながら、ハーデスはゆっくりと立ち上がる。ローブの袖の中に魔環をしまい、代わりにヘラクレスが忘れていった布袋を取り出して、その足元に放り投げた。

「私は冥界の王ハーデス。お前が考えうるような次元の者ではない」

 凛とした声が響き、魔環を外されたケルベロスが僅かに顔を上げる。ハーデスは弱々しい眼差しに優しい瞳で応えると、漆黒の髪を撫でた。

「大丈夫だよ。冥界に戻ろう」

 ケルベロスは、朦朧としたまま小さく頷く。それはまるで、熱にうなされる子供のように従順で拙かった。


「可哀想に……。こんなに苦しむケルベロスを笑って見ていることが出来るなんて、君には失望したよ」

 声は穏やかだが、佇まいは寒気がするほど恐ろしかった。ハーデスがヘラクレスに対峙すれば、こちらまで戦慄が走る。少し離れていた場所で見ていたシャロンは、それから辺りの木々の妙なざわめきに気付いた。

 

 軽やかだった風は湿っぽくなり、やがて強く辺りを取り巻く。晴れ渡り青々としていた空がみるみるうちに厚い雲に覆われ、どんよりとした灰色が侵食していく。足元の岩場こそ大きな変化はないが、雲の影が落された芝は黒く変色し、目に鮮やかだった緑は、あっという間に端から枯れ始めた。

 大輪の花は花弁を残らず落とし、膨らんだ蕾は瘴気を吐き、くたりとへたった野花はそのまま乾き果てて粉塵となる。そこらじゅうから色味を刈り取ってしまえば、そこはまるで冥界の台地を再現したようだった。


 目の前の事実に恐怖したヘラクレスは、恐れ慄いて思わずその場から一歩下がった。そのうち、台地が揺れ始め、足元に細かい亀裂が入る。振動で崩れた岩の小石が、どういうわけか浮き始め、そうこうしている間に、一同の周りを紫の炎が舐めるようにどうっと円を描いて地を走った。

 

 その間僅か数秒、微塵も力を込めずに辺りの景色を一変させたハーデスは、ちらりとヘラクレスを一瞥する。

「私との約束を覚えているか? ケルベロスを捕らえることは許しても、けっして傷つけたり殺したりしてはいけないと言ったはずだ」

 ハーデスの瞳の色は、炎と同じ色をしていた。その場を囲った炎は、ちらちらと燃えながら次第に高さを増していき、気付けば森の木々と同じ高さ、それ以上の壁となる。

 

 ケルベロスやシャロンにとって、それは見慣れたハーデスの炎だった。しかし、ヘラクレスにとっては、その熱風を浴びることすら辛いのか、苦しそうに身を庇う。

「わ、悪かった。もう、犬はいらない! だから、許してくれ!」

 ヘラクレスは、やっとの思いで言葉を吐き捨てた。

「いいのか? 失敗続きではお前の立場も危うかろう?」

「くっ……。親父だって、お前が現れたと知れば容赦してくれる!」

「……だと良いけれど。――ああ、そういえばお前は天界での地位を欲しているとか。ならば、ひとつ良い事を教えてやろう」


 いつもの調子で、ハーデスはにこやかに微笑む。

「ペルセフォネをさらえば、確かに立場など気にならなくなるだろう。それは間違いではない」

 ヘラクレスは聞いた瞬間、目を見開いた。そして、すぐさまシャロンを睨め付ける。己の行動の不味さを棚に上げて告口を責めるヘラクレスをシャロンが鼻で笑うと、その瞬間ヘラクレスの足元が唐突に裂けた。

 

 背後に出来た奈落は、崩れる岩をからからと音を立てて飲み込む。その音は、見ずとも底の深さを感じさせた。

「だが、それはゼウスに認められるからではない」

 今一歩、距離を詰めるハーデスに、ヘラクレスは堪らずへたり込む。

 

 詰められた距離をまた離すことはできないのだから無理もないが、ハーデスはそれでもまた一歩近付いてしゃがみこみ、ヘラクレスと目線を合わせた。それから、小さく震える様子をじっくりと眺め、細白くて長い指先をローブの袖から出してその頬に触れる。


「――私がお前を消してしまうからだよ」


 頬から顎先に滑る指がヘラクレスの顔色を奪ったかのように、その色が蒼褪める。ハーデスはそれを機に炎の勢いを次第に弱めた。

「では、帰るとしよう。魔環は、私が預かっておく」

 ハーデスは、傍に横たわるケルベロスを抱え起こした。青い唾液が衣服について再び煙を立てるが、構わずにしっかりとその腕に抱くと、シャロンを呼びつけてあの魔法を唱える。

 

 今度は糸は降りてこなかった。代わりに、ハーデスの手の中に煌めく光の粒が溢れだし、それがぽろぽろと足元に零れ落ちて溜まり始める。

「さようなら。ゼウスによろしく」

 ハーデスが、茫然自失のヘラクレスを一瞥する。ヘラクレスの返事は、なかった。

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