第25話
視界は拓けて見る間に台地が遠ざかり、気高くそびえる王城が見える。冥界の隅々まで見渡せるようになると大きな赤月が眩しくて、けれどそれも一瞬の瞬きののちに視界が白く覆われる。靄なのか、光の中なのか、辺りを真っ白で染めるものの正体すらはっきりせず、頼りになるのはあの細く輝く糸だけだった。
一寸先も見えない中、糸に導かれて勢いよく引かれて受ける風は強い。それが本当に上へと昇っているのか、はたまた下へと下っているのか、一面真っ白ではそれすらもわからない。ただ、なにもない空間にハーデスの手元にある糸だけがきらきらと光るので迷っているわけではないのだろうが、それにしても単調な世界は時間を長く感じさせた。
「さて、ペルセフォネの話だけれど」
シャロンが少しばかり不安を感じていたところに、ハーデスは尋ねる。
「なぜ、ヘラクレスがペルセフォネを狙うのだろう?」
「それは……」
降って湧いた謎の行動に、ハーデスが困惑するのも無理はない。シャロンは理由を手短に伝えた。
「理由は実に自分本意なものですわ。奴はペルセフォネ様をあろうことかゼウスへの貢物と考えております。冥界に嫁ぐなんて、ゼウスが本心で許しているはずがないと。だから自分が連れ帰ればゼウスも喜ぶ、ひいては自分の地位も向上する筈だと目論んでおりました。
「……酷い誤解だな」
「あの男は、学のない愚か者ですわ。自身の良いように物事を解釈して、まるでそれが正義かのように振る舞う。普通に考えれば、クロノス三兄弟の長兄であり三界の王の一人たる者に不足はなく、自らが認めた婚姻であるとゼウスが宣言したのを知らぬはずがありません。ここでハーデス様の許可なくペルセフォネ様を連れ戻せば、それはゼウスの顔に泥を塗るのも同じこと」
「……そんなことは露ほども考えぬのだろう。なるほど、ゼウスも苦労する」
ハーデスが苦笑するのを、シャロンは複雑に感じる。
「笑い事ではありませんわ。これでは
「ああ、それなら大事ないよ。王城に私の許可のない者は入れない。とはいえ、看過できない話ではあるけれど」
その口調に怒りは感じられなかった。むしろ悪戯好きな甥っ子に困っている様子で、憤慨する自分とは対照的である。重ねた手のひらもひんやりと冷たくて、これから天界へ非公式に向かうにしては落ち着いて見えた。
「ずっと不思議に思っていたんだ」
ハーデスは穏やかに呟く。
「何故ヘラクレスが三界の掟を破ってまでケルベロスに執着するのか。でも、ペルセフォネを拐うことが本懐なら、納得がいく。法を犯す罪より、得る成果の方が大きいと考えたのだろう。だから、掟を守る気もなかった。ペルセフォネを連れ帰れば褒められこそすれ、咎められるなど彼の頭の中にはなかったのだね」
ハーデスは小さく肩を竦めて、長い道中の行く手を見上げた。先はまだずっと白い。
「私には解りかねますわ。天界の王族は、そうまでして王位に近付きたいものなのでしょうか」
「うん……、彼は少し特別かな。ヘラクレスは、下界の者との混血児なんだ。生まれ持った力のせいで産みの母に捨てられ、代わりにヘラ……ゼウスの正妻に育てられたけれど所詮妾の子、愛される事はなかった。そういった生い立ちが、誰よりも権力に固執させたのかもしれない。だからと言ってはなんだけれど、ゼウスは彼に甘いのかな、少し我儘に育ってしまった」
我儘というよりは心が屈折しているのだと思うが、シャロンはあえて言葉にはしなかった。哀れな生い立ちではあるが、一度会った後ではどうもハーデスのように心を広くは保てない。
「だとしても、今回の件はいささか限度が過ぎますわ」
「確かにね。私も最初の手紙が届いた時は、視察で中庭を訪れた際にケルベロスを見つけて、気に入ったのだろうとしか思わなかったよ。まさか、そんな野心を潜めていたとは」
白の世界の中を突き進みながら、シャロンは珍しくハーデスのため息を聞いた。憂うハーデスの声は低く、いつもの惚けた感じはしない。
「訪れようと真面目に考えれば考えるほど、遠く感じるのが冥界だ。来るにあたり三界神に許可を得る様子がないのも、本気でないからだと思っていたのに」
「それで、私たちにはずっとお話を控えていたのでしょうか?」
「うん、来るかどうかもわからない事で、余計な手間を取らせるのも申し訳なくてね。ただ、万が一のことを考えてケルベロスの処遇は変えなければならないと思っていたんだ」
ああそうか、とシャロンは思う。ぼんやりする視界の中で、ハーデスが手の中の糸を改めて引いた。心持ち、昇る速度があがる。
「ただ、匿おうにもあれが
「お言葉ですが、タルタロスは天界に一番近い前庭の隣ですよ。言い換えれば、天界から最も狙いやすい。万が一を思うなら王城に留めておくべきであって、あそこは一番に外すべきではないですか?」
「……それは、シャロンだからそう思えるんだよ。大概の者にとってタルタロスは恐ろしい場所だ。ましてや天界の住人は、言葉にも出したくないほど嫌っている。故に、ヘラクレスはタルタロスを素通りして、真っ先に王城を目指し、ケルベロスが居るはずの中庭に来るだろう」
「それでも、ハーデス様のお力があればヘラクレスを中に入れずに……」
「入れずにいれば、ヘラクレスは時間の許す限り冥界でずっとケルベロスをつけ狙うだろう。そうなれば、ケルベロスに限らず誰かがヘラクレスと戦うことになりかねない。私は、戦いは嫌いだ」
シャロンは口を噤む。クロノス戦後からこれまで、ハーデスは決してその偉大な力を戦いに使うことがなかった。支配領域分割の時でさえも、兄弟での争いを避けて天界や海界を選ばなかったくらいだ。
「御心を知らずに出過ぎた事を言いました。申し訳ありません」
「いや、謝ることはないよ。結局、私の見通しが甘かっただけだ」
「ですが」
ハーデスは、首を振る。
「ケルベロスの大きな姿は有名だった。人型にすれば、タルタロスに置いてもすぐには気付かれまい。それに門番の職につければ、少なくとも毎日日報があって目が届く。さらに、シャロンがそばにいてくれたら何かと安心だ。万が一、ヘラクレスがやって来てもすぐに王城に招き入れ、ケルベロスはいないと説得して天界に返せばいい。返す理由はごまんとあるからね。熱りが冷めるまで、十年ほどはそのままで……、そんなふうに打算的に考えた結果だよ」
そして、それを御破算にしたのが自分なのだ。シャロンは小さく唸った。
「気を悪くしたかい?」
「いいえ、逆にそんな事とはつゆ知らず、余計なことをいたしました」
とはいえ、シャロンはケルベロスと邂逅したその日に感じた違和感が次々と晴れていく心地良さを感じていた。一方、ハーデスは浮かない表情で、息を吐く。
「冥界の王は臆病者なんだ。平穏を手に入れるためなら、逃げたり負けたりすることを厭わない。誰も傷つかないなら、それが一番良い。まあ、今回はケルベロスに可哀想なことをしたけれど……。それに、嫌われるのも怖い。だから、私の手の内で済ませられるものは、そっと片付けてしまいたかった」
ハーデスは、王らしからぬ弱音を吐露した。
「けれども、もし事の始めからケルベロスにきちんと話していたら。ヘラクレスから二通目が届いた時に、お前たちにすべてを伝えていたら。きっと、こんなことにはならなかっただろう。まして、ペルセフォネを狙っていたなんて聞いた日には――守るつもりが、危うさの上にお前たちを立たせていることに気付かず、本当に申し訳ないことをした」
声の翳りが、落胆を伝える。シャロンは心苦しかった。信頼されていないわけではないとわかっていても、確かにひとつ言って欲しかったのは事実だ。けれど、そう出来なかったハーデスの気持ちを考えれば、至らぬ己に腹が立つ。
「私こそ、至らぬ部下でございました。ハーデス様がお声をかけることを躊躇されるような働きしかしてこなかった自分が悔やまれ――」
「いいや、違う。違うよ、シャロン」
ハーデスは、シャロンの言葉尻を遮った。
「そんな事を部下に思わせてしまうのは、いけない王だ。冥界のすべてを統治して君臨する王だからこそやらねばならないことがあり、これもその範疇だ。私が部下の安寧を守ることに欠けていた、それだけのことだよ。……至らないのは私の方だ。すまなかった。それに、ケルベロスがこれ以上、愚かな私の犠牲になるようなことはあってはならない」
反省の弁にも似た声は風の中に聞え、そして消えていった。それからは何を言うでもなく、二人は黙って白い道中を急ぐ。
視覚も聴覚も意味を成さないこの時間は、永遠にも思えた。ただひとつ、頬を打つ風の強さでまだ身体も意識も存在していると感じるが、その心細さはタルタロスの比ではない。
(――ケルベロスはどうしているだろうか)
シャロンは不意に考えた。髪の一本とそう違わぬ細さの糸を掴んで上がる天界は、いかなる場所なのか。
ヘラクレスの様子からすれば、ケルベロスを丁重に扱うとは思えない。金の魔環の威力は自分も良くわかっているし、あれに耐えながらヘラクレスに付き合うのは相当な苦行に違いない。そして、それ以前に、力ないケルベロスがこの道中の長さに耐えられたのかも気になった。
やけにざわつく胸をシャロンが密かに落ち着かせていると、ハーデスが銀髪を揺らした。
「シャロン、色々と迷惑をかけて本当に悪かったね」
寂しげなその一言を、どう返せば良いのかわからなかった。けれど、ひとつだけ頷く。
「大丈夫ですわ。迷惑だなんてこれっぽっちも思っていません」
すると、ハーデスは久しぶりにいつもの優しい微笑みを見せた。
「ありがとう」
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