第24話

 傾く赤月に、煌めく糸端が呑まれていく。天に昇る黒い影は今や薄闇の空の向こうに消え、欠片すら見えなくなった。

 垂れてきた糸の一部始終をへたり込んだまま見つめていたシャロンは、あるとき不意に我に返った。そして、おもむろに嵌めていた指輪を外し、じわじわと魔力の感覚が戻る掌に乗せると、神経を集中して使い魔を召還する。

 

 赤い宝石から生まれた使い魔は、掌の上からシャロンを見上げると、恭しく頭を下げる。シャロンは、いつもなら優しい口上で命を出す所を、今日ばかりは早口でまくしたてた。

「ハーデス様の元へ急いで。ケルベロスが連れて行かれたわ」

 そして、王城へと向かわせる命を授けようとした時だった。


「遅かったか」

 ざわ、と野草を掻き分けて走ってきたミノスが、悔しそうに顔を歪ませながら現れた。

「ミノス!」

「お前、大丈夫か? アケローンが……」

 ミノスが言いながら振り返った先のアケローンは、まだ荒れていた。シャロンは一緒になってそれを振り返ると、力なく首を横に振る。

「ごめんなさい。でも大丈夫。今なら少し押さえられるわ。それよりも、ケルベロスが」

「いや、無理はしなくて良いよシャロン。ここは私が押さえよう」

「ハーデス様!!」

 

 ミノスの影に隠れてその姿が見えなかったハーデスが、ひょっこりと顔を出して微笑む。シャロンは慌てて立ち上がろうとしたが、ハーデスはそれを片手で制すと、アケローンの方へ空いた手を翳した。

「大変だったね。ケルベロスは連れて行かれてしまった?」

「はい。大変申し訳ございません。この失態の償い、如何なる懲罰をも受ける覚悟でございます」

「ううん、気にしないで。大丈夫だよ」

 轟々と音を鳴らしていたアケローンは、ハーデスが手を翳すことによって次第に濁流から緩流へと流れを落ち着かせ始める。まるで川全体が生き物のように言うことを聞いて大人しくなり、やがていつものように穏やかに流れだした。


 辺りには静寂が訪れ、野草が風に揺れるささやかな音が聞こえるようになり、川面のさらさらとした滑らかさが見て取れる。その間僅か数分、アケローンを元に戻して一息ついたハーデスは『さて、どうしたものか』と唸った。ところが、まもなく目の前で平伏する二人に気付く。

 

「やだなあ、そんなことしないでよ」

「いいえ、ハーデス様。重要な役職を預からせて頂く者として、失態の責任は取らねばなりません。ミノスは、私の案に乗せられただけのこと。なんなりと私めに処分を申しつけ下さいませ」

「駄目だよ、シャロン。責任なんて取る必要はないよ。こんなことで、私は優秀な二人を咎めたりはしない。元はと言えば、私がきちんと説明していないのがいけなかったんだしね」

「ですが……」

「この話は終わりだよ。さあ、顔を上げて。立てるかな?」

 

 ハーデスは、優しく促した。シャロンは最後にもう一度深く叩頭して、ミノスに支えられながら立ち上がる。その拍子に、膝の上に乗せていたヘラクレスの布袋が落ちて、中に入っていたものが散らばった。


 小さな手鏡に金の櫛、それと緑の木の実がひとつハーデスの足元に転がる。ハーデスは、靴先に当たった木の実を拾い上げると、しばらく見つめてから小さく呟いた。

「オリーブ……」

 木の実の名前だろうか、しかしそれを尋ねる間もなくオリーブはハーデスの手の内で灰になる。

「それは?」

「ヘラクレスのものです。天に上がる前、引き留めようと私が掴んで、そのまま落としていきました」

 

 そうか、と汚れた掌を払ったハーデスは、シャロンからヘラクレスの落とし物を拾い入れた布袋を受け取った。そして、よれた口紐を丁寧に閉じて、ローブの中にしまう。

 憂いの横顔が静かに息を吐いて、影を帯びる。難しそうに引き結んだ唇は、束の間小さな唸りを漏らした。

 

「困ったものだが、仕方ない。ミノス、アケローンがこの様子では前庭が心配だ。水嵩が増していつもの川岸は飲まれてしまっただろうから、子どもたちも気にかかる。来たばかりで申し訳ないのだけれど、一旦戻ってくれるかな」

 ハーデスはすまななさそうにミノスを振り返る。

「はい、もちろんです」

「ありがとう、助かるよ。困った事があればすぐにお言い」

「畏まりました」

 ハーデスは了承したミノスの傍に寄って、目線の高さよりも上にある肩に手を置いた。

 

「こちらのことはどうか任せておくれ。そのかわり、と言ってはなんだけれど、前庭はミノスたちに委ねるよ。なにかあれば、追って連絡を入れるから」

 聞いたミノスは、畏って頭を下げる。

「すべてが片付いたら、報告がてらみんなで食事でもしよう。そうそう、前から伝えたかったのだけれど、ミノタウロスは良くやっているよ。王城の門番も大分板についてきて、南方の使者の対応も安心して任せられる。その真面目さは、この親にしてこの子ありだね。しっかりしたいい子だ」

「……いえ、勿体無いお言葉をありがとうございます」

 恐縮するミノスに、ハーデスは満足げに頷く。

 

「いいかい。私は完璧な仕事を求めてはいないよ。与えられた中で、なるべく最善を尽くして欲しいとは思うけれどね。よって、お前たちは今回のことを失態と捉えて悔やんでいるかもしれないが、私はそれを咎める気にはならない。むしろ、明確な情報もない中でとても良くやってくれたと思っている。どうか、これからも変わらず励んで欲しい」


 それは、ミノスにとってもシャロンにとっても、畏れ多い言葉だった。だから、二人して自然と深く頭が下がる。普段どんなに緩んでいようと、冥界の王としてこの地を統べるだけの力と人柄を持つのがハーデスだと改めて心に刻めば、その近しいところで命を受けられるのは喜びであり、感謝であった。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 声を揃えた二人は、忠誠を誓い胸に手を充てる。ハーデスはそれを見て、うん、と頷いた。

「それでは、少し急ごう」

 声に誘われるように頭を上げたミノスは、お願いします、とそのまま文言に包まれる。本来ならばアケローンを渡らなければ戻れない前庭も、ハーデスの手にかかれば魔法で造作もない。たちまち立ち上った煙に包まれ、ミノスはその場から姿を消した。

 

 シャロンはそれを見送り、僅かに戻った力を頼りに小さな擦り傷に指先を充てる。すると、ハーデスが酷く心配そうにシャロンの顔を覗きこんだ。

「大丈夫? 魔力を大分消耗しているようだけれど」

「ええ、御心配には及びません。ヘラクレスに金の魔環というものを嵌められて、一時的に失っていただけのようですから。でも、今はケルベロスが代わりにそれを」

「……金の魔環。ヘラクレスはそんなものも持っていたんだね。それは難儀だった。あれを嵌められては、ケルベロスも赤子同然になるだろう」

 

 流石、冥界の王ともなると金の魔環も知っていて当然か、シャロンが妙なところに感心していると、ハーデスがおもむろに文言を唱え始める。その文言に、シャロンは聞き覚えがあった。

 耳慣れない言葉の入ったそれは、先程ヘラクレスが唱えていたものより長いようだったが、やはり糸が垂れ下がってきて目の前で揺れる。

「ハーデス様、それはまさか」

「蜘蛛の糸だよ。ケルベロスを連れてすぐに戻ってくるから、ここで待っていてね」

「いえ、あの、お待ち下さいませ。ケルベロスも心配ですが、ペルセフォネ様をお一人にされるのも危険かと存じます」


 ヘラクレスの本当の狙いは、ペルセフォネだった。その事実を言うべきか一瞬迷い、シャロンは唇を引き結ぶ。 

「なぜ?」

 唐突に上がった妻の名に、ハーデスは当然聞き返す。笑みの消えた真顔に、シャロンは頷いた。

「……ヘラクレスは、ペルセフォネ様を連れ戻すと申しておりました。御存知でしたでょうか?」

「いや、初耳だな」

 

 それからハーデスは困ったように空を見上げ、ややあってから手に取っていた糸を離す。

「ペルセフォネに何かあればすぐわかるようにしているけれど、今のところ王城に変化はないようだ」

「左様ですか。ならば良いのですが」

「うん……」

 生返事のハーデスは、口元に手を当てて目を閉じる。そしてしばらく、思い立ったように顔を上げた。

「良かったらシャロンも一緒に行くかい? もちろん、無理にとは言わないけれど」

「よ、よろしいのですか?」

「うん。道中、話を聞かせてくれると嬉しい」

 ハーデスは改めて糸を引き寄せ、シャロンに向かって手を伸ばした。


 ――糸を辿れば、天界へ導かれる。

 まだ見たことのないその場所へ行くことに対して、シャロンは恐怖心を俄かに抱いた。だが、躊躇したのも束の間、唇を固く結んで頷く。ハーデスの知る事実、それにまだ見ぬ天界への興味もあったが、それ以上にケルベロスのことが気がかりだった。

 

「僭越ながら御一緒させて頂きますわ。仮にも冥界の王ともあろうお方が、共もつけずに天界へ赴かれるのは如何なものかと思いますもの」

「それでは急ごう。あれは天界では生きられない。すぐに追わねば、取り返しのつかないことになる」

 ハーデスは表情を引き締めたのち、シャロンの手を取り、糸を強く握って文言を改めて唱える。するとまもなく身体がふわりと浮いて、引き揚げられるように昇っていく。糸がその力を持っているのか、不思議なことに昇る間は重力というものをまったく感じなかった。

 


 

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