第23話
意図せず揃えた呼吸がひとつ、それが始まりの合図だった。窺っていたケルベロスは、ぐっと握ったヘラクレスの拳に太い血管が浮かんだのを見つける。
見たところヘラクレスに武器のようなものはない。案の定、ある程度の間合いを測ったところで、素手で飛びかかってきた。
ぶん、と大振りの腕が目の前を通過して、ケルベロスは初めて竜尾の剣を抜く。そして、二つ三つ後ろへ飛び跳ねて間合いを取り直し、剣を構えた。
「緑の刃面とは珍しい。犬にはもったいないな、それは俺が預かろう」
「王家の血を引く割に、欲深いな」
風を切って繰り出されるヘラクレスの拳は力強く、当たれば相当の打撃を受けそうだった。だが、当たれば、の話だから、それを見切っているケルベロスには意味がない。寧ろ、無駄口を叩く余裕を指摘したいくらい拍子抜けしていた。
見たところ、ヘラクレスの身体は胸筋を中心に発達しており、その割に軸となる腰が細い。よって拳を振るう度に右へ左へと揺れ、それが続けば続くほど振れ幅は大きくなっていく。
身体の軸がぶれるほどに狙いは定まりにくくなり疲れを呼ぶことを、ヘラクレスは知らないらしい。だから、ケルベロスは特に相手にせず、避けているだけで十分だった。
しばらくそうやっていれば、向こうも当たらないことに焦りを見せ始める。それでなくても、こちらは剣を抜いたきりだから、その一方的な闘いぶりに対する困惑は手に取るように伝わってきた。
「なぜ向かってこない!?」
「終わらせていいのか?」
息の切れた声に即答すれば、ヘラクレスはかっとなって渾身の一発を振り被る。だが、それすらもケルベロスに避けられ、勢い余った拳は野草の台地を大きく陥没させた。
どん、という大きな音が響き、僅かに揺れが生じる。円を描くように陥没した台地の中心にあった拳は地中深くめり込んで、辺りの野草は盛返る土に呑まれた。
「おお、すげえな」
飛び跳ねてかわし、遠くで高みの見物をしていたケルベロスは、突如現れた大きな穴に感嘆する。声を聞いて土のついた腕を引き上げたヘラクレスは、悔しそうにケルベロスを睨んだ。
「何故だ。何故、当たらない?」
悔しがるヘラクレスに、ケルベロスはほくそ笑む。人の身体とはかくも軽いものなのかと、改めて実感していた。
犬の時は自重があり過ぎて、身丈の二倍も三倍も、こんなに軽々と飛び跳ねたりすることはできなかった。相対的な力量では犬であった頃に劣るが、これだけ身軽ならば、剣を持っての防御から攻撃への転身が容易い。戦い方はまるっきり違うが、手に入れた新たな能力も決して悪くはなかった。
やがて、いつまでも当たらない攻撃を繰り出すヘラクレスに、ほとほと愛想がつきたケルベロスは一度だけ剣を翻す。相手の間合いにすっと軽く入った刃面は、風に舞い上がる羽毛のような柔らかな軌道を描いた。刹那、赤い線が肌の上にぷくりと浮く。
肉が開いて、血が飛沫を上げて辺りに散らばる。声にならない呻きを上げて、ヘラクレスは膝をついた。斬られた胸を掻き抱いた腕は見る間に赤く染まり、匂いが充満する。ケルベロスは、竜尾の剣を一度大きく振って血を落してから、鞘に収めた。
「他愛ない」
言いながらも、視線はヘラクレスから外さない。先の教訓を生かしたケルベロスが余裕を持った一息をつくと、傷を押さえてうずくまったヘラクレスは額を大地に打ちつけ震えていた。
「おのれ……、おの……れ!」
苛立ちで震えているのだろうか、わなわなと力の入った拳が何度も台地を叩く。その度、台地に根を張った野草が根元から折れて、その場にへたった。
「冥界の犬畜生が、生意気な!」
自身を奮い立たせるように大声を上げて、ヘラクレスはついた膝を上げた。台地を踏みしめた右足、そして、左足をつこうとして、一度ふらりとよろける。しかし、すぐにふらついた身体を起こし、右足以上に踏み込んで台地を鳴らした。
切られた胸の傷が再び開き、細かい血の華が飛ぶ。それでもヘラクレスは仁王立ちを崩さず、ケルベロスを睨みつけた。
「その剣は……良く斬れるようだな。ますます気に入った」
台地を踏みしめたヘラクレスは、据えた目でケルベロスを一瞥する。細かに呼吸を整え、傷に当てていた掌は僅かに光って癒しているようだった。
「結構な深手のはずだ。さっさと天界へ帰れ」
「たかが犬だと侮っていたのは否めない。……しかし、このまま天界に戻るわけにはいかぬのだ」
独り言に近い言い分に、ケルベロスは困惑する。すると、ヘラクレスは隙を見てそっと何かを口に含み、にやりと笑った。
その瞬間、ヘラクレスの身に纏う気が大きく揺らいだ気がした。ケルベロスは、その変化に対して本能的に距離を取る。犬であれば逆毛を立てるほど、それは急激な変化だった。
「なんなんだよ……?」
僅かにしか癒えていなかったはずの傷が、何故か見る間に塞いでいく。顔つきには余裕が見え、疲弊した気力は復活する。目の前で起こる不可解極まりない現象に、ケルベロスは動けずにいた。
「まただわ」
同じく、ヘラクレスの変化にあの時の繰り返しを見たシャロンは、遠くで声を上げる。そして、尽きる体力を振り絞ってケルベロスに伝えた。
「離れて! 奴の力の絶対量が上がってるわ!」
だが、そう叫んだ口は、すぐに塞がれる。
「余計なことは言わなくていい。女は静かで素直なのが一番だ」
間合いを取る為離れていたケルベロスよりも逸早く近づき、大きな手で口を塞いだヘラクレスは、座りこむシャロンを引き摺り立たせた。力強い腕に羽交い締めにされたシャロンは、抵抗してみせるもまったく歯が立たない。ケルベロスは、その仕打ちに苛立った。
「何のつもりだ? 力を得たのにも関わらず、なんでシャロンを盾に取る」
変化に驚いたのは事実だが、隙を見せたつもりはなかった。それでも、結果としてシャロンを取られたことが悔やまれる。
「そうだな。お前と戦ってやってもいいんだが、それよりもいい方法を思いついたんだ」
「いい方法?」
二人に近づいたケルベロスは、足を止めた。すると、ヘラクレスは片腕で羽交い締めてあるシャロンの首の環に手をかける。
「今から、この女の首を落とす。それが嫌ならば、代わりに魔環を嵌めろ」
ヘラクレスは、わざとらしく金の魔環に指をかけた。
「思ったより時間を食ってしまったからな、冥界に来た口実くらい形にせねば、のちの言い訳が立たん。今ならば、このまま指を引くだけで首を落せる気がするぞ」
細い首に食い込む魔環に、ケルベロスは身じろいだ。そして同時に、シャロンは滅多なことでは死なないが、ただ一つ、首を落されると絶命する事実が脳裏を掠める。ヘラクレスがそれを知る筈はないのだが、絶妙な交渉は思いのほかケルベロスを悩ませた。
ふふん、と鼻を鳴らしたヘラクレスは、相当に鼻もちならなかった。だが、ケルベロスは唇を噛むだけで、手出し出来ない。せめてヘラクレスの小賢しさに舌打ちしたが、それ以上どうすることもできなかった。
「さあ、どうする?」
「どうもこうもないわ」
答えが出ないケルベロスの代わりに、受け答えたのはシャロンだった。
「それで終わりよ。いいわね、ケルベロス」
落ち着いた声が語りかける。合わせた目は、不思議と優しかった。
――それで終わり。
それが、あの赤肌の悪魔の最期と同じことを意味していると気付いたケルベロスは、固唾を飲む。しかし、今回はけっしてそれで終わりではない。
確かに、シャロンの血を浴びてヘラクレスは間もなく息絶えるだろうが、首を斬られてしまえばシャロンも死ぬ。まさかそんなことはできないケルベロスは、反対しようと口を開きかけた。ところが、それを見越してシャロンはケルベロスを諭す。
「大体、こんな奴が冥界に辿りついちゃった時点で大失態だわ。アケローンもあんなに荒れちゃって、ハーデス様への御迷惑も計り知れない。反省も踏まえて、ここで首を落された方がいいのよ」
シャロンは自棄糞気味に吐き捨てる。そして、続けた。
「大丈夫よ。アケローンはハーデス様がなんとかしてくれる。それに、冥界は広いんだもの。渡守だって、すぐに代わりが見つかるわ」
「馬鹿言うな。お前の代わりが出来る奴なんてそうそういねえよ」
ヘラクレスは元よりだが、やけに悟ったふうに喋るシャロンにもケルベロスは怒りを感じる。
「お前みたいな魔女なんか、他に見たことねえよ。それに、お前がいなくなったら周りが迷惑するだろ。胸糞悪いこと言うんじゃねえよ!」
怒号に似た叫びが、閑散とした野原に響く。やりとりを黙って聞いていたヘラクレスは、くっくっと笑った。
「茶番だな、痴話喧嘩にもならない。そんなに女が大切か、ケルベロス」
「うるせえ。馬鹿は黙ってろ」
勝ち誇った笑みを浮かべて蔑むヘラクレスを、ケルベロスはついでに罵る。茶化されたところで、心底どうでも良かったし、言われて屈辱に顔を歪めているのにも興味がない。
それよりも、この場を凌ぐ手立てを考える方が大切なのに、今のところ右手に握った竜尾の剣で斬り込む以外にはなにも考え付かなかった。けれど、それだって間合いがあり過ぎて、ヘラクレスがシャロンの首から魔環を力任せに引き抜くまでに届く自信はなく、到底上策とは言えない。
「くそ……」
間合いを取るにしても、もっとシャロンのことを気にかけるべきだったと悔んでいると、名が呼ばれる。
「何をそんなに悩むことがあるのよ」
「なにって、お前なあ」
この期に及んで漫然と死を選ぶ相手に、ケルベロスはなんと言って良いのかわからなかった。すると、その苦悶の表情をシャロンが笑う。
「そうね……。確かに私はあんたのことを、最初は死ぬほど嫌いだったけど」
「……は?」
自分が思い悩んでいるというのに、てんで関係ない話題を振られたケルベロスは、思いきり顔をしかめる。しかし、シャロンは不敵に微笑み返した。
「こういう時に真面目に悩んじゃうところは、意外と好きよ」
にこり、と微笑んで浮いた口元が、ケルベロス、と微かに動く。
「は!?」
突然の告白に、ケルベロスは場所も状況も忘れて赤面した。しかし、次の瞬間、それが別に愛の告白の類ではないと思いなおし、途端に慌てる。
「ていうか、さっきから死ぬ前提で話をするな! お前は死ぬと毒吐いて迷惑かかるんだからな!」
「あっ、馬鹿。なんでそういうこと言うのよ!」
つい口を滑らせてしまったケルベロスを、シャロンが咎める。しかし、その心配をよそに、ヘラクレスは自分を無視して続く茶番に呆れ、シャロンの首に嵌められていた魔環を外した。
「付き合ってられないな、ケルベロス。十数えるうちに、その魔環を嵌めろ。嵌めなければこの女の首を手刀で落す。十……九……」
唐突に言って、外したばかりの魔環をケルベロスの足元に投げると、ヘラクレスは勝手に数を数えはじめた。魔環が外れて俄かに楽になったシャロンは、すぐさまぐったりとした身体を起こしたが、それでもこの力強い腕を振り払うほどの力は戻らない。だから、せめて懸命に叫んだ。
「やめなさいよ……、やめなさいよ、ケルベロス!!」
ところが、ケルベロスは小さくなっていく数を聞きながら、足元に放られた魔環に手を伸ばす。今度は指で触れても、何も起こらない。拾ってしげしげと眺めても、古ぼけた首輪にしか見えなかった。
「まあ、なんとかなるだろ」
シャロンが死ぬよりは、自分が苦しむ方が幾らかましだった。どうも、シャロンが色々としでかす度に落ち着かない。それで心配したり悩んだりすることに、だいぶ辟易していた。
しかし、そう考えて自らの首に嵌めた瞬間、がくん、と膝が折れ、思った以上に早く力が抜けていく。ケルベロスは、思わず地に手をついた。
「す……げえな、これ」
なにもしなくても、身体中の気が魔環に向かっていくような気がする。抗えないその不思議な力の息苦しさに、ケルベロスは息を荒くする他なかった。
「なんとかなるだと? 馬鹿はどちらだ」
「お前に……言われたくねえよ」
崩れ落ちたケルベロスをせせら笑い、ヘラクレスは片腕に抱いていたシャロンを突き放す。
「ケルベロス!」
大地に倒れ込んだシャロンはすぐさまケルベロスの方へ行こうとするが、長い間魔環を嵌められていたせいか、まっすぐに立ち上がることがままならない。よろめいて再び倒れ込んだ所で、シャロンよりも先にヘラクレスがケルベロスの元へと辿りついた。
「これからペルセフォネを迎えにいくにしては、力を使い過ぎた。これではハーデスと渡り合えん。ひとまずはこれで良しとするか」
「ど…ういうこと……だ?」
へたばったケルベロスの首根っこを捕まえ、ヘラクレスは無理矢理顔をあげさせた。戦っている時は息のひとつも切れなかったのに、今では肩が揺れるほど浅い呼吸に喘ぐのを止められない。ケルベロスはすでに声を出すのも辛くなって、乾く喉をごくりと唾で潤すのが精いっぱいだった。
「ハーデスの言う通り、傷ひとつつけずに捉えることが出来たのだから、連れ帰っても問題なかろう。渡守、お前は惜しいがまたすぐに戻る。私に楯突いた件も、赦しを乞えば考えてやらなくもないぞ」
弱りきって言葉も出ないケルベロスを満足そうに見て、ヘラクレスは天に向かって指を突き立てる。そして、シャロンの見ている前で、聞いたことのない文言を唱えた。
間もなく赤月の光の中のもっと上、まさしく天の方から細く光る糸のようなものがゆるゆると垂れ下がってくる。風に吹かれて
「ちょっ、ちょっと待って!」
片手でケルベロスを捕まえ、そのまま目の前に垂れ下がってきた糸を掴んだヘラクレスに、シャロンは慌てて駆け寄る。だが、ヘラクレスはそんなシャロンを一瞥すると、再び文言を唱えた。
シャロンが急ぎ伸ばした手は一瞬ヘラクレスの服を掴んだように見えたが、腰の布袋と共にするりと抜け落ちてしまう。転んで見上げた時にはもう、伸びてきた光の糸が二人を宙に引き上げていた。
「ケルベロス!!」
叫んでも糸の端は遠く、手が届かない。櫂を出そうと試みるが掌に魔力が集うことはなく、虚しく拳を握りしめるだけに終わった。
きらきらと赤月の光を反射させるのが微かに見えるだけで、ケルベロスの姿は影になる。悪い予感に寄り添う現実に、シャロンは茫然と天を仰いだ。
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