第22話

 ――大分近い。

 走り続けたケルベロスは土地の名前すらわからない、タルタロスは遥か遠くハーデスの城も霞むような場所でシャロンが近くにいることを確信した。慎重にアケローン沿いに進めば、やはり川岸に見慣れた小舟が打ち上げられている。それと同時に、先刻から増えてきたシャロンとは別の匂いに鼻をひくつかせた。

 

「ヘラクレスか」

 

 やけに鼻につくそれに、会う前から嫌悪感が増す。次第に濃くなっていく二つの匂いを辿ったケルベロスは、やがて遠くに影を見つけた。

 枯れ草の中に対峙する影は二つあり、双方なかなか動かない。けれど、ある時大きい方がゆっくりと動いた途端、『寄らないで!』と叫ぶ声が響く。それは、間違いなくシャロンの声だった。


「……なにしてんだ?」

 きつい牽制が自分に宛てたものではないと判断し、ケルベロスは二人に今一歩近づく。すると、眼前の二つの影が、なぜか半裸のシャロンと薄笑いを浮かべる見慣れない男であることに気付いた。

「本当に……、なにやってんだ?」

 再び呟いたケルベロスは、眉根を寄せて足を止めた。よく見れば、シャロンの方は肩で息をしている。

 

 二人を見つけた当初、まずどこかに身をひそめて少し様子を見ていようと思っていたのだが、目の前の光景はいささか看過できるものでもない。ケルベロスは、頭を掻いた。そして暫く考えたのち、シャロンの元に駆け寄った。

「なにしてんだよ、お前」

 立ち止っていた場所からものの数秒、唐突に声をかければシャロンが驚いて目を見開く。

「なにしてるって……、あんたこそなにしてんのよ、こんな所で」

 

 片腕で豊満な胸をかろうじて隠していたシャロンは、怪訝な顔を向けた。ケルベロスは、そんなシャロンの頭からつま先までを黙って一瞥する。

 いつもの黒衣は胸のあたりから大きく破れて、華奢な肩が露わになっている。また、身体に傷こそないが感じる魔力も零に等しく、荒い息遣いは不規則に繰り返されていた。

「お前を探してたんだろ。っていうか、大丈夫か?」

 

 すると、シャロンは困ったように顔をしかめる。そして、ヘラクレスに対して睨みを利かせながら答えた。

「見りゃわかるでしょ、大丈夫じゃないわよ。どうにかしてよ、この発情期の猿みたいなの」

「発情期……」

 ケルベロスは、その口から出た突飛な言葉を繰り返した。


 川岸にひっくり返された小舟とシャロンを見れば、もちろん大丈夫ではないことくらいわかる。だがそれより、弱っていてもきっちりと言葉で毒を吐くシャロンに呆れた。

 そして、その一方で思っていたよりも元気そうな姿に安堵し、軽く鼻で笑う。すると、シャロンも何故かつられて笑い、ケルベロスに向かって手を伸ばした。

 

「なんだよ?」

「あんたの上着を貸しなさいよ。私、今魔力が全っ然ないの。服も元通りに出来ないわ」

 遠慮を微塵も感じさせず言い放ったシャロンは、言うや否や胸を隠していた腕を解いてケルベロスの上着を剥ぎ取りにかかった。不本意ながら、思いきりシャロンの半裸を見てしまったケルベロスは赤面する。

「お前っ、胸! 胸見えてる!!」

「わかってるわよ。良いから早く貸しなさいよ」

「っていうか、隠せよ! お前、一応魔人族だろ!」

「だから、隠すから上着を貸せっつーの」

 

 不毛な会話ののちに無理矢理ケルベロスから上着を奪ったシャロンは、早速それに袖を通した。長い袖はまくり、下から留めていったボタンは胸の辺りできつくなって、そこから先を放ったらかす。

 腰から下だけ残った黒衣と合わせて、いつもとさほど変わらぬ黒ずくめの服装になったシャロンは、それから満足そうにケルベロスを見上げる。そして、切れ切れの息を無理矢理に整えて笑って見せた。


「……ありがとう」

「ありがとうじゃねえよ」

「なによ、可愛くないわ……」

 突然よろけて膝から崩れ落ちるシャロンを、ケルベロスは慌てて抱きとめる。不意に鼻を掠めたいい香りにどきりとしたが、平静を装った。

「おい、大丈夫か?」

「……あんたに会えて、気が抜けたのよ」

 シャロンはもたれかかったまま、上目づかいでにやりと笑った。

 

「へ?」

 その表情に再び心臓を跳ねあげたケルベロスは、柄にもなく赤面する。と、シャロンはそれを見ぬまま、胸に埋まっていた身体を無理に起こそうとした。ところが、その細腕に力が入る様子はない。代わりにため息が出て辛そうな表情を見せただけで、くたりと力尽きた。

 

 黒髪の小さな頭が、再び胸に埋まる。こんなにも魔力がなくては、下界の人間と大差ない。一瞬元気そうに見えたのはただの強がりだったのかもしれない、今更ながらそう思ったケルベロスはそれを真上から見て、黒髪の上にぽん、と手を充てた。

「わかったから、座ってろ」

 頭に大きな手が乗せられたシャロンは、目を丸くして顔を上げる。ケルベロスは続けて、その腕をとった。

「いいから、あとは任せとけ」

「ちょっ……と……」

 そっぽを向いたまま腕を掴み、細い腰に手をまわして肩に担ぐ。初めて触れた身体は、思った通り華奢だった。

 

 枯れ草がつむじ風に揺れる。ケルベロスはシャロンを手頃な場所に座らせると、やっとヘラクレスの方に向き直った。暗がりの冥界でも輝きの褪せない金髪を靡かせたヘラクレスは、やれやれといったように目を合わせる。

「お前は、誰だ?」

 突然目の前に現れて場を濁したケルベロスに、ヘラクレスは不服そうに尋ねた。けれど、ケルベロスは黙って見返すばかりで、特に何も答えない。すう、と大きく息を吸い込んで、そして息を吐くのと同時に特大のため息をついた。

 

 冥界で金の髪を見たのはペルセフォネに次いで二人目だが、ヘラクレスには彼女にあるような気品や聡明さは感じられなかった。自分だってけっして人に褒められるような才知を持っているわけじゃないが、会ったばかりの女に手を出すような真似はしない。ましてやここは奴にとって異界だ。

 天界の住人、兎角ゼウスの近親達は色恋事にかまけて誰彼構わず交配しては子供を増やす、と噂に聞いたことがあったが、ヘラクレスのこれを見れば噂は真実だと認めるのに十分だった。


 思慮の中で呆れ返ってしまったケルベロスは、侮蔑の視線を投げる途中で、そういえば問われていたことを思い出す。そして、今更ながらに答えた。

「ケルベロス」

 待ちくたびれた様子のヘラクレスは、やっと返ってきた答えに眉をひそめる。けれど、ケルベロスは何食わぬ顔でそれを無視した。

「お前がケルベロス? 嘘をつくな、ケルベロスといえば五十の首に竜尾の尾……」

「いつの話してんだよ」

「……どういうことだ?」

「言ったところで、お前なんかには分からねえだろ」

「なっ、失礼な」

「お前に失礼の概念があったとは驚きだな」

 

 淀む空気が、言葉を交わす度に不穏に変わる。ケルベロスは、憤慨するヘラクレスを他所に欠伸など零した。そのあからさまに横柄な態度に、シャロンが口を出す。

「……ちょっと、なに煽ってるのよ?」

「うるせえな。事実を言ったまでだろ」

 ケルベロスは、背後のシャロンを言葉だけで牽制した。もし、ヘラクレスが噂に違わぬ馬鹿ならば、早いところ怒りに任せて手を出させ、一戦交えて天界に送り返してやるつもりだった。ところが、苛立ちを見せながらも、思いの外ヘラクレスは挑発に乗ってこない。

 

「もし……、もしお前がケルベロスだというのならば、俺は幸運だ。辺鄙へんぴな場所をわざわざ探し回らなくても、お前の方から出向いてくれたのだからな。それとも、冥界の渡守は訪ね人のところまで案内してくれるのものなのか?」

 自信に満ちた表情で言ったヘラクレスは、腰に手を当ててにんまりと口端を上げる。まだ戦ってもいないのに、すでに勝ち誇ったような表情だった。


「んなわけねえだろ」

 挑発を軽くかわされてしまったケルベロスは、わざとらしく目を逸らす。言いながら、そういえばなんでシャロンがあんなにへばっているのか気になり、ふと後ろを振り返った。そして、そこで初めてその首に見慣れぬ環がついているのに気付く。

「あれ? お前、首になにしてるんだ?」

 自分にもハーデスにつけられた皮製の首輪があるが、シャロンのそれは重厚な金属のようだった。けれど、かといって宝石などがついているわけでもなく、くすんだ色合いは美しい装飾品にも見えない。

 

「それは金の魔環。冥界の者を捕らえる為の首輪だ」

「金の魔環?」

 耳慣れぬ単語に振り返ると、ヘラクレスは何故か得意気になって語り始めた。

「それを嵌められた者は、すべての魔力を吸収されてしまう天界の法具だ。本当はお前に使うはずだったのだが、その女が少々手間取らせるので使ってしまった」

 ケルベロスはそれを聞くと、座るシャロンに近づいた。

 

 確かに、嵌められた魔環には怪しげな紋章が刻み込まれていて、触れずともなんとなく嫌な感じを受ける。本来なら関りたくはない代物だが、ケルベロスはとりあえずシャロンの首に嵌められた魔環に手を伸ばした。ところが、魔環に触れた瞬間に痺れるような衝撃が走り、痛みのあまりその手を離してしまう。

「痛ってえな」

 触れたことによるシャロンへの影響はどうやらなかったようだが、大きな音と衝撃は結構なものだった。

「大丈夫か?」

「……ええ」


 シャロンを気遣ったケルベロスは、痛む指先を振り払いながら立ち上がる。見れば、魔環に触れた掌も赤くなっていた。

「原因はこれか」

 声が、自然と冷たくなる。どういうわけか沸々と怒りの感情が湧き始めているのに気付きながら、ケルベロスはヘラクレスを睨んだ。

「それに懲りたら、もう二度と触るな。未来の妃に間違って傷でもついたら、かなわないからな」

「未来の妃?」

 

 胡散臭いヘラクレスの台詞を、ケルベロスは聞き返した。シャロンはと言えば、呆れたように首を横に振っている。

「……よく分からねえけど、とりあえず魔環を外せ。元はと言えば、俺の為に持ってきたんだろ? それとも、俺につける自信はないか?」


 研ぎ澄まされた刃のような視線は、すでに殺気を湛えて臨戦を意味していた。すると、ヘラクレスもまたケルベロスを睨み返す。

「先程から黙って聞いていれば、犬のくせに無礼だな。いや……、ハーデスは犬の躾が苦手だったとみえる。ちょうどいい。この機会に、犬は犬らしく飼い主に従うものだということを教えてやろう」

「阿呆面の飼い主なんか、こっちから願い下げだ」

 舌を出したケルベロスに、ヘラクレスは組んでいた腕を解いた。



 

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