ケルベロスとヘラクレス
第21話
走るケルベロスの、ちょうど頭上に赤月はあった。赤銅の空には翼竜が羽ばたき、遠くでは火山の山肌を光る溶岩が舐めている。ざっと辺りを見渡したケルベロスは、辺りの気配を窺う。そして、改めて鼻を利かせた。
このところ気が付いたのだが、意識を集中すると、以前のような嗅覚や聴力が戻る。完全にとはいかないまでも、今はこれで十分だった。
毎日一緒にいるシャロンの、薄ら甘い香木とやけに鼻に通る薬草を足したあの香り。特に、香木の方は外にはあまりない特徴的な匂いだ。業火の台地から流れてくる煙や樹木の香りに混ざって、ほんの微かなシャロンの匂いを嗅ぎ取ったケルベロスは、とりあえず走り出した。
「ったく、しょうがねえよな」
ぼやきながら足元で囁く草花を踏みしめ、ただひたすら匂いの方へ走る。シャロンを見つけたことで少し浮き足立つ気持ちを抑え、早く、と心に命じた。
ハーデスのところへ行く方角とは違って、こちらは中途半端な荒地が多い。部族単位で群れ集い陣地を取り合う強さはなく、しかしコキュートスや業火の台地のような環境に適応もできない者の集まり、それが無秩序に住まう厄介な土地だった。
早速ケルベロスを見つけてちょっかいを出そうとする小悪魔を睨んで牽制し、足音を聞きつけて見境なく襲おうとする下等級の魔獣を竜尾の剣でなぎ払う。沼地に入れば泥に足を取られて重くなるし、大きく育った水草が水面を飛び出し、その針のように尖った葉で肌を引っ掻くのは地味に痛かった。
特に、久しぶりの獲物だと顔を出す鱗獣属の魔獣はとてもしつこく、しかも数が多い。魚類の姿をするそれは、ケルベロスに噛みつこうとあちこちで跳ね飛び、浅い水辺に飛沫をあげる。おかげで視界は酷く遮られ、滅多やたらと剣を振り回して道無き道を突き進む他なかった。
そうして、やっとの思いで沼地を抜けると、今度は鬱蒼とした巨大な森が待ち構える。簡単には抜けられそうにない場所を目の前に、ケルベロスは思わず立ち止まってため息をついた。
このまま突っ切るべきか、迂回するか。ちらりと窺ってみても、森の端は見えない。よって、ものの三秒で、突っ切ることを決めた。
「っていうか、あいつどこまで流されたんだよ」
ただひたすらにシャロンの元へ真っ直ぐ走ってきたケルベロスは、冥界の中央にあるハーデスの王城がすでにはるか遠くにあることに気づく。走るほど匂いは濃くなっているが、今はまだ遠い。見知らぬ森を前にして一呼吸置いたケルベロスは、竜尾の剣を握り直して森の中へ踏み入った。
「……妖樹か」
それまでの沼地と域を分けるように、そこから先は湿った土と苔むす根が地表を覆っていた。森に足を踏み入れると木々がざわめきだし、茂る葉が風もないのに大きくうねる。
森に入ってきた獲物に対して、枝を手足のように自在に伸ばして捕獲しようとする木々を妖樹と言った。その手に絡め取られてしまえば、たちまち樹木に栄養分として取り込まれてしまう。妖樹は、その生態故に他の生物とは共生できない。獲物がない状態が続くと、共食いすら始める節操のない植物だった。
おかげでここ一帯には魔獣の類などはいないようだったが、代わりに腹をすかせた樹木の枝が一斉にケルベロスに向かって伸びてくる。追い付かれまいと地を走ると身体ごと捕まえようと枝が伸び、それを避けて宙に跳ねれば、足を取ってやろうと枝が伸びた。
「危ねえ所だな」
元々暗がりの冥界にあって、森の中は一層暗い。いくら赤月があるとはいえ、届く光は微かだ。そんな中で、意思を持った妖樹の枝はしなやかで且つ力強かった。
ばさばさと枝を切り落とすと、痛みが伝わるのか不気味な叫び声が森の中に響いて聴覚を刺激する。さらに、その叫び声の中で性懲りもなく次の枝がまた伸びてくるのだからたまらない。
「キリがねえな。こういう時、シャロンなら問答無用で焼き払っちまうんだろうけど。……便利だな、魔法って」
ケルベロスは、魔法の類にまったく縁がない自分の手をまじまじと見ながらぼやいた。すると、その首元に背後から枝が伸びる。
一瞬ぼんやりとしていたケルベロスの隙をついてくるくると首に巻きついた枝は、そのままケルベロスの身体を一本釣りの魚のように高く持ち上げて、自分の元へと引き寄せた。他の枝に取られぬようにと、妖樹に素早く引き寄せられたケルベロスは、ぐい、と突然締められた首にえづく。
「お前……、ふざけんな!」
言いながら首に巻きついた枝を掴むも、勢い良く引かれるばかりで埒があかない。そのうち他の木々の枝が足に伸びてきて、ケルベロスは無理矢理身を翻すと、首を掴む細い枝を叩き切った。刹那に断末魔の叫びが聞こえ、身体が宙に放られる。だが、すぐさま落ちるケルベロスを拾おうと森がざわめいた。
「いい加減、しつこいぞ」
台地に着地して体勢を立て直したケルベロスは、忌々しそうに舌打ちした。しかし、妖樹の枝は虎視眈々とケルベロスを追い続ける。地中の根こそ這いずりまわらないが、その他のすべてのものが自分に向かってくるように見えた。
どこまで続くか見当のつかない森を走るのに飽いて、枝を切る手が萎えてくる。この道を選んだことを後悔しつつも、確実に近くなっているシャロンの匂いが駆ける足を動かす。
けれど、道の先で待ちかまえていた細い枝が網状にお互いを絡ませて行く手を遮るのが見えて、ケルベロスは思わず身じろいだ。一瞬で判別するに、すり抜ける隙間はない。
「やべえ」
はっとして後ろを振り返るも、闇の中に見えるのは蠢く枝ばかり。もう一度目を前に向ければ、前方で待ち構えていたはずの枝が覆い被るように迫りくる。とりあえず、背後から足元を掬おうとする枝を飛び避けたものの、それきり逃げ場を失った。
(相手の数が多すぎる――)
目の前に迫った枝を睨みつけ、他に策のないケルベロスはなにはなくとも腕を大きく振った。しかし、断ち切られた枝は僅かばかりで、見る間に破れた網を修復する。そしてさらに大きく広がり、ケルベロスを一瞬で飲み込んだ。
まるで大波がすべてをさらうように、あとには何も残らなかった。網状の枝はケルベロスを飲み込んだ重みで大きくしなったのち、ぎちぎちと窮屈な音を辺りに響かせる。
軋みながら締め上げる耳障りな音が止むと、妖樹が立ちそびえる森からは一切の音がなくなり、ざわざわと蠢いていた葉も、おぞましいほどあった枝もすべてがぴたりと動きを止めた。
森の中には、妖樹がケルベロスを飲み込んで作り上げた大きな繭が、何本もの枝に支えられて宙に浮かんでいた。しばらくすると、繭を吊る以外の枝はすごすごと引っ込み、密集していた葉は四散する。騒がしかった森は、なにもなかったようにいつもの姿を取り戻し、ただその腹の中に大きな繭を潜ませるだけとなった。
吹く風にも揺れない大きな繭は、ケルベロスを呑みこんでからぴくりとも動かない。絡みあった細い枝に隙間はなく、中の様子を伺い知ることは出来なかった。
ほどなくして、繭の底が枯れ枝よりももっと深い色へ変わった。墨が滲むような色の変化はゆっくりと繭全体に広がり、本体を吊り下げる幾本の枝にも伝わり、その質感も変えていく。
どれくらい経っただろうか、妖樹の森で音もなく生まれた大きな繭は、完全に硬化してわずかな月明かりにきらきらと艶めいていた。とその時、爆ぜる音が森の隅で小さく響く。
小枝を踏み折ったような乾いた音は、ひとつ、またひとつと増えていき、連鎖していった。重なる音はやがてあちこちで生まれ、微かな音がさざ波のように押し寄せて、大きな鈴音の波になる。
それが最高潮に達してすっかり音の渦に巻き込まれた頃、最後にたわんだ枝が大きく弾け、中央の繭が盛大に落下した。そして最後にひとつ、花火のようにあたりに響く。
爆ぜていたのは、繭を吊り下げる枝だった。黒く硬化した枝は繭の重みに耐え切れず途中でぽきりと折れており、落ちた繭は硝子細工が砕けるが如く四方八方に散らばって、細かな欠片を土の上にばらまく。濡れ土の広がる森は、あまりに多くの欠片が散らばったせいで一瞬にして煌めく黒大理石の床のようになった。
「……出た」
繭が砕けると同時に放り出されて自身も尻もちをついたケルベロスは、呆気にとられて宙を見つめた。枝に捕らえられた時の息苦しさで呼吸は浅いが、自分でもなにが起こったのかいまいち理解できないまま、とにかく妖樹の餌にならずに済んだということだけ把握して呆けていた。そして、木々の合間の変にぽっかりと空いた空間が、不自然なほど丸いことに気付く。
「なん……だ?」
呟いても、理由がすぐに思い浮かばなかった。けれど、視界の端の方で再び蠢いた妖樹の枝を見て、反射的に竜尾の剣の所在を確かめる。そして素早く立ち上がって方向を確認すると、枝が動き始める前に一目散に走り出した。
踏み締める大地は、じゃりじゃりと先程にない音を立てた。妖樹の枝の先は石化しているため上手く伸びず、走り出すケルベロスをすぐに追うことは出来ない。
とはいえ、木々の合間では葉の擦れが次第に騒がしくなる。もう一度捕まれば、今度こそ助からない。危機感に溢れた身体は神経を研ぎ澄まし、やがて伸びてくる枝の間を擦り抜け続ける。
「しめた。抜けたか?」
木々の合間に、赤月がはっきりと見えた。終わりが見えればケルベロスの足もいささか早くなる。それに、妖樹とはいえ枝を伸ばすにも限界があるし、先程の石化の一件があるからか、前のように執拗に追ってはこない。
宙を掻く枝を尻目に、ケルベロスは先の草原へ駆け抜ける。やっとの思いで脱出した妖樹の森は、悔しそうに大きく葉をざわめかせた。その梢の擦れ合う音は大きく、悔しいと唸っているように聞こえなくもない。
「あー、しんどい」
流石に息が切れたケルベロスは、走り続けた足を一旦止めて膝に手をつく。喉は干上がり、心臓が跳ね飛ぶ。犬の時でさえこんなに走り続けたことはなく、疲労から思わず腰を下ろした。
黙っていると、吹き渡る風が額に滲む汗に触れて心地良い。上がった息を整えるために暫くそうしながら、ケルベロスは徐に妖樹の森を振り返った。
――妖樹の枝の網に取られまいと、剣を振り被った。立ち止る足に絡みつかれまいと、地を蹴った。太い綱を斬るような感覚を剣を握る手にいくつか感じて、束の間、道が切り拓かれたのは覚えている。ただ、そのあとあっという間に見えた先を何本もの枝で塞がれてしまい、それから――。
額に手を当てると、髪の間からなにかが落ちた。それは、黒くて小さな結晶の欠片だった。
「……これか」
ケルベロスは閃いて呟く。それから、確かめるように服のポケットに触れた。指先には思った感触がなかったが、だからこそケルベロスは確信する。
「何かのときに役に立つ……か」
ハーデスにもらった黒水晶を思い出し、ポケットに触れていた手を離す。たかが石に助けられたのは癪だが、これが無ければやられていたのは事実だ。ケルベロスは、ほんの少し自分の未熟さを悔いてから、遠くに視線をやった。
「アケローン……だよな」
滝のように音を立てて今にも川幅を越えて溢れ出しそうな激流となっているのは、見慣れているはずのアケローンで間違いなさそうだった。けれど、いつもは穏やかに、特にシャロンが渡るときなどは鏡のようにひとつの水輪も許さない川が、タルタロスからこんなに遠く離れても荒れている。
ミノスと別れてから大分経っているにも関わらず、一向に衰える気配のない荒れ狂い方を見ているうちに、ケルベロスはシャロンのことがやや心配になった。そして、ひと休みもそこそこにして、再び鼻を利かせる。
「も少し東の方か」
妖樹を薙ぎ払ってきた竜尾の剣をもう一度握り直したケルベロスは、川沿いに続く野草の台地を見やった。延々と続く枯れ草と野草の入り混じった岸辺は、先が見えぬほど長い。それでもケルベロスは、今駆け抜けてきた妖樹の森よりはまし、と再び走り出した。
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