ケルベロスと魔女の森

第31話

 あれから――冥界の日常は穏やかに保たれたまま変わりなく、タルタロスには誰も通らなくなった青銅の門がぽつんと残され、不眠のケルベロスは日がな一日そこに居た。

 

 眠っているのか、本当はもう言切れているのかわからないシャロンの傍から決して離れず、息を潜めて終始する日々は酷く退屈でつまらない。ひとりきりのタルタロスは静かすぎて、つい、いろんなことを思い出した。

 初めて訪れた時の靄の深さ、シャロンの魔法、毎日の喧嘩で言い合った一言すら今は懐かしい。そして、追憶の最後には必ずと言って良いほど、かつてシャロンが食卓に出してくれた、あの小さな葡萄が入った食べ物を無性に食べたくなった。


 しかし、そうやって日々の小さなやりとりを振り返るほどに、どこからか湧き出た罪悪感がじわりと滲んで心に薄い染みを作る。最初のうちは、それでもまだ回想の中のシャロンに悪態をつく元気があったけれど、月日を重ねる毎に自分のしでかした事の重大さに気付いて、笑えもしなくなった。

 以降、自分を責める日が続き、心はすっかり黒く染まり、胸は鉛を飲んだように重くなる。ケルベロスはかつてないほど落ち込んで、それを慰めるものはなかった。


 良くも悪くも変わらず続く日常、ハーデスは忙しいらしく姿を見せないのに、外界に行きたい者や冷やかし、相変わらずの力比べとタルタロスへの来客はひっきりなしだった。ただ、いつもならうざったい存在も、今のケルベロスには鬱々とした心を紛らわせる良い時間潰しになる。特に、シャロンを狙う奴はこちらから襲いかかるようになった。

 

 元々、戦いに関して貪欲なのは否定しない。生まれつきそういう性分なのだと自覚している。だから、敵が来ると焔のように闘争心が足底から湧いてほとばしるのを不思議と思わなかった。

 剣を持つ手に生がみなぎり、近づく相手の気配に胸が高鳴ることも、いざ迎え討つ時の高揚感が喜びに似ていることも、シャロンを守る大義名分の下、当たり前になっていた。けれど、何度か繰り返すうちに、自分が敵を心待ちにしていることに気付く。それどころか、その時ばかりはシャロンを忘れている事にも気付いてしまった。

 

 すると、その日から更なる罪悪感がのしかかる。シャロンをないがしろにするわけではないが、戦う事を楽しいと感じてしまう本能的な部分に、どうしても自分で歯止めをかけられなかった。


 そもそも、ケルベロスはタルタロスという無の空間で、有り余る時間を埋める方法をさほど知らない。特に夜は隔絶感に溢れ、思考は闇に支配されたかのように負に傾くこの地で、悶々と考える時間が増えるのは必然だった。

 虚な眼差しで、何もない空を眺める。そうやって、ふと我に返った時にはいったいどれだけの時間がすぎたのかわからない。何かを考え始めて、気がつくと空の色が変わっている。その間何を考えていたかも思い出せない。自我が戻るのは生理現象の時だけ、それも用が足りれば、また虚無の空間に引き戻される。

 昼夜問わず己に向き合い重ねる葛藤は、鋭い刃物となって心を削いでいく。そしてすっかり痩せ細り、数日待たずに死にかけた。


 持ち合わせていた矜持が崩れる刹那、消えゆく眼光が灯火のように揺らめいた。乾く喉を鳴らせば、血の味がする。耳の奥まで届く鉄の味にケルベロスは震え、最後の足掻あがきに竜尾の剣の刃を素手で強く握りしめた。

 瞬間、久しぶりの痛覚が脳を叩き起こし、開いた手のひらが真っ赤に染まる。

 

『自分は人ではなく犬であって、考えて生きる魔族ではなく、自由に大地を駆けて肉を喰らう魔獣である』

 

 それは、最後に残った心の一欠片があげた断末魔の叫びだった。


 身体中に響く悲鳴は、ケルベロスを動かす。いじけて撫でていた大地を突き放し、滴る真っ赤な血を振り撒きながら、気がつけば足が衝動のままに駆けてタルタロスを離れていた。

 瀕死の本能を守りたくてひたすらに走る脳裏には、ハーデスとの約束がぎる。けれど、流れる風を頬に受けるとそんなことも忘れた。

 

 目の前に広がる広大な台地、草木や炎、潮や硫黄などの冥界の混沌とした匂いが懐かしくて身体が疼く。久しぶりに見た王城まで全力で走り、切れる息が嬉しかった。乾いた喉の奥に流れ込む空気を、苦しくて大きく動く胸を、立ち止まった瞬間に吹き出す汗をもって、生きていると感じた。

 

 やがて、押し寄せる疲労にがくんと膝が崩折れて、枯れ草の上に尻餅をつく。そのまま何も考えずに倒れこめば、視界は大地から空へと急転した。

 指先まで届く熱い血の巡り、耳元ではそよぐ風の音がして、青臭さの薄れた葉と土の匂いが鼻先で混ざる。目を閉じれば、どろどろと身体の中に溜め込んだなにかが放出していき、代わりに自分の鼓動が全身に行き渡るのを感じた。


 いっそこのままタルタロスに帰るのをやめて、王城へも戻らずにいたらどうだろう。ハーデスから離れて、それこそシャロンがタルタロスで過ごしたように誰も来ないような場所で独りきりで、なんのしがらみもなく過ごしたら――熱い鼓動が収束していく中で、ケルベロスは考えた。

 

 もしそうなったらハーデスは『困るよ』と悲しげに微笑んで連れ戻すだろうか。それとも、呆れて探しもせずに放って置かれるだろうか。

 それよりも、ぐだぐだと考えるばかりのこの気持ちは楽になるだろうか。

 自分の罪を、受け止め切れるだろうか。

 いつか今日の日も忘れられるだろうか。

 ――それとも、もっと辛くなるだろうか。


 連鎖する疑問にどんな答えを用意したって、結局のところシャロンの事が頭から離れない。だったら結局そばにいた方が、きっと幾らかましなのだろう――。一通り考えて冷静になったところでケルベロスは目を開け、のそりと身体を起こす。だだっ広い野原の真ん中で盛大なため息をついて、背中を丸めた。すると、

「おうおう、随分とやさぐれてるな」

 突然声をかけられて、ケルベロスは思わず身動ぐ。

「こんな所で何してる?」

「ミノス……」

 振り返って見えた巨体は、返事を待たずに眉間に深い皺を寄せて無遠慮に近付いた。

「お前……顔色が酷いぞ」

 

 よくよく覗かれて、ケルベロスは気まずさから目を泳がせる。こんな時に知り合いに会うのは、なんだか途轍もなくばつが悪い気がした。

「き、気のせいだろ。でなきゃ、久し振りに走ったからだ」

「久し振り?」

 聞き返されて、ケルベロスは咄嗟に誤魔化す。そのときちらりと見せた手のひらを、ミノスがおもむろに掴んだ。

 

「なんだ、これ。お前、どうした?」

「ああ、いや。別にこれは……」

 しかし、ミノスはその手を離さずに真っ赤な血の跡に嘆息する。

「ハーデス様が仰った通りだ。様子を見にきて良かった」

 呟いて腰布を解き、手際良く裂いたミノスは、どっかりと座り込んでから、黙ってそれをケルベロスの手のひらに巻きつける。その無言に、ケルベロスは居た堪れなくなった。

 

「おっさんは、なにしてるんだよ」

「俺は、ハーデス様への報告の帰りだよ。シャロンがいなきゃ、死者が溜まるばかりだからな。前庭の人員確保や裁判の数を減らしたりするのに諸々書類が必要でよ。ハーデス様が最近行ってないから心配だと仰るし、俺も滅多にこっちにゃ来ないから、お前の顔でも見てから帰ろうと思ったところだ」

 ふうん、と知ったふりをしている間に、ミノスは布端をきつく結びつける。

「指の腱は切れてないようだが、無茶もしすぎると二度と物が握れなくなるぞ。あいにく俺は魔法が使えんからな、出来るのはここまでだ」

 

 ミノスは言って立ち上がる。ああ、と返したものの、ケルベロスはまだミノスの顔を見られなかった。

「だけど、タルタロスに来てもシャロンは寝てるぞ。どうやって前庭へ戻るんだ?」

「心配いらん。前にもらった札と同じものをハーデス様に頂いた。送ってくれると申されたが、ただでさえお忙しいのに、俺の為に時間を取らせるのも申し訳ないだろう」

 そして、二人はどちらからともなくタルタロスに向けて歩き出した。遠くに見える煉獄山が唸り始め、空に薄く噴煙を上げ始めている。

 

「ヘラクレスとやり合った時の怪我は、もう大丈夫なのか? 瀕死で天界から戻ったと聞いたぞ」

「怪我ってほどのもんじゃねえよ。死にかけてるのはシャロンの方だ」

「そういえば、聞いたか? ヘラクレスとヘルメスの処分が決まったそうだ。詳しくは知らんが、懲罰の重さに二人して必死に嘆願書を書いているらしいぞ」

 足元の草を踏み分けて通ると、小さな四つ目鼠が飛びかかる。ミノスはそれを長い棒切れではたき落としながら歩いた。

 

「なんにせよ、とんだ災難だったな、お前もシャロンも。長年前庭にいるが、こんな騒ぎはあまりない。ハーデス様も、冥界の守りについては御再考されるかもしれんな」

「再考?」

「少なくとも、天界の役人への当たりは厳しくなるだろう。審判の門周辺はハーデス様のゼウスへの心遣いもあって結界を張っていなかったが、どうなる事か。それに、シャロンが目覚める目処が立たなければ、渡守も他を探さにゃならん」

 

 ケルベロスにとっては、ヘラクレスのことよりこっちの言葉の方がずっと胸に刺さる。自分のことばかりでちっとも気付かなかったが、渡守が機能していないのは、冥界にとって大きな痛手なのだ。番人を拝命してから仕事でこちらに来ることなんてなかったミノスがわざわざ足労する意味を考えれば尤もな話だった。

「……迷惑かけて、悪かったな」

 このところタルタロスに来ていないハーデスだって、死者の扱いについて天界との調整に奔走してると聞く。知らない間に周りは変わっていて、皆がそのために駆け回っている。ケルベロスは今更それに気付いた。

 

「なぜ謝る。お前が悪いわけじゃないだろう」

「でも、あいつの目的は俺だった。そのせいで――」

「それがなんだ。ヘラクレスがお前を目的にしたことと、今回アケローンを突破されたことは関係がない」

「だけど、俺がヘラクレスを止めていたら」

「そんなのは俺もシャロンも同じだ。各々が其々にヘラクレスを止める契機があったはずだ。違うか?」


 そうかもしれないが、ケルベロスは胸のもやもやした感情をうまく説明できる気がしなくて口籠る。ミノスはそんなケルベロスを横目で見て続けた。

「いつなら止められたのかなんて、今更考えるだけ無駄だ。あれからケルベロスはタルタロスに篭りきりだとハーデス様が心配されていたが……。まさか、そんな事を気にしていたのか」

「ち、違う。なんだかんだと客が多くて、その相手をしていたら外に出る暇がなかっただけだ」

 すると、ミノスは胡散臭そうに目を細める。そして、ケルベロスの下手な誤魔化しを見て首をすくめた。

 

「ああ、噂は聞いてる。結構手酷くやり込めてるらしいな。最近じゃ、お前が怖くてタルタロスに行く者が減ったとか」

「……道理で。最近、めっきり誰も来ないと思ってた」

 前庭まで届く噂の主になるのはやぶさかでないが、ケルベロスはなるべく余計なことは言わぬようにやり過ごした。黙っていると、噴火の前触れである大地の唸りが大きく聞こえる。暮れかけた赤月の方をぼんやり見ながら、ケルベロスは今日の夜がまた訪れることを静かに憂いた。

 

「……シャロンは相変わらずか?」

「ああ、起きる気配もねえな。何にも変わらねえよ、いつ見ても人形みたいだ」 

「人形か。なら、世話も必要ないな」

「そうでもねえよ。いつ起きるかわからないから、そばを離れられない」

 すると、ミノスはぎょっとして身体を引く。

「お前、まさか四六時中あいつのそばにいるのか?」

「それがハーデスとの約束なんだ。当然だろ」

「当然って、まあハーデス様との約束ならば確かにそうだが。……じゃあ今は何だ?」

「それは……、ちょっと」

 

 しかし、突っ込まれて目を泳がせたケルベロスを、ミノスはそれ以上追求しなかった。怪我をした手のひらをちらりと見たきり、仕方なさそうに息を吐く。

「死者もなくて、やることがないだろう。お前、毎日一体何をしてるんだ」

「別に何もしてねえよ。色々と考えることはあるけどな。だから、せめてシャロンの様子くらい見て役に立たなきゃ。不眠の俺にとっては、こんなのなんの問題もな――」

「わかった。お前、そんな考え方してるから顔色が悪いんだ」

 

 ミノスは、ケルベロスの言葉を遮った。顔色の話に戻り、ケルベロスはまた目を逸らす。

「お前、ちゃんと飯食ってるか?」

「別に二、三年食わなくても平気だから」

 とはいえ、人型になってからというもの、犬の頃よりも腹が減る感覚が訪れるのは早い。でも今ここでそれを言っては藪蛇になりそうなので黙った。

 

「……やっぱり犬だからかな。意外と性根が真面目だな」

 独り言を言われて、ケルベロスは眉根を寄せる。

「別に真面目じゃねえよ。おっさんだってハーデスだって、すげえ忙しそうにしてんだろ。それに比べたら」

「そんなものと比べるな」

 それきり、ミノスはなぜか黙ってしまった。タルタロスまではまだ距離があって無言は少し気不味いが、ミノスは話途中でもさほど気にした様子も無く歩き続ける。そのうち煉獄山が噴火し、最後の狼煙が上がった。

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