第14話

 それから二ヶ月、アケローンの川面――。

『いいか、ヘラクレスが来るかもしれないから、気を付けとけよ』

 シャロンがケルベロスにそう言われたのはふた月ほど前、前庭に出掛けるすんでのことだった。同じ内容を後日ハーデスからも聞いたが、それきりこの件は音沙汰がない。なのに、シャロンは今日どうしてかそれを思い出した。


 話を聞いてから何も変わったことなどなく、なんなら忘れかけていたのにここに来て妙に気にかかる。今朝だって特にヘラクレスについて話したわけでもないのに、アケローンに漕ぎ出してしばらく、タルタロスも前庭も見えないあたりで完全に心に引っかかってしまった。

 しかも、落とした墨汁が広がるように、それで頭がいっぱいになるのが良くない。勘が働いている――年に幾度かあるその感覚に空の小舟を進ませていた手を止めて、シャロンは『やあねえ』とぼやいてから、櫂を舟の上に引き上げた。こうなると、しっかり考えた方が気分が楽になる。

 

「十の試練、だったかしら」

 鏡のように静まった水面の上、もう少しで川向こうが見える所でハーデスの話を懸命に思い出す。どんな試練かは知らないが、その中のひとつにケルベロスとの勝負があって、勝利すればケルベロスを天界へ連れて行く、そんな話だった。

 

 ヘラクレスと言えば、天界だけでなく冥界にまでその名を轟かせる力自慢の大馬鹿者である。何をしてそう呼ばれているのかは知らないが、数年前にゼウスのお付きで冥界へやって来たときに、蛇香の谷への視察途中で勝手に居なくなって騒ぎになったのは記憶に新しい。そんな彼がケルベロスに固執する理由なんて、気まぐれ以外にはなにひとつ思い浮かばなかった。


 大体、来ると言ってもどうやって来るつもりなのか検討がつかない。冥界が天界に向けて開けている門戸は前庭しかないし、天界の役人はごく稀に出る特別な死者の仲介がある時しか顔を見せない。しかも、それだって冥界と天界の役人の両者が立ち合いの下、天界とのきわで行うだけだ。当然、相手が勝手に冥界側に踏み入れば三界の掟を破った罰が待っている。

 

 もしかしたら、ヘラクレスのような特権階級の上位である天界の王族なら、誰かが上手く手引きしてくれるのかも知れないが、一役人がたかがケルベロス捕獲のために禁忌を犯してまで手伝うとは思えない。罰である輪廻の停止は、二度と転生が許されない身の完全な消滅を意味する。それを恐れないのは、神である三界神だけだ。


 と、シャロンはそこでふと気がつく。ならば、その三界神のいずれかが実はヘラクレスを手引きしていたらどうだろう。

 ヘラクレスが正攻法で冥界を訪れるなら、頼む先はゼウスだ。ヘラクレスにとってゼウスは父なのだから、願い出る事自体は難しくもない。ただ、ケルベロスの捕獲程度で三界の掟を免除するには些か理由が弱すぎるし、次の三界神の会合を待てと言われるのが関の山だろう。となると、次に挙がるのはハーデスだ。

 

「仮に、ハーデス様がヘラクレスを手伝うとしたら、前庭まで来てもらえたら良いだけだものね」

 自分が渡守をやらなくても、ハーデスなら問題ない。そしてケルベロスをタルタロスに置けば、段取りは完璧だ。

 やけにケルベロスを門番に推してきたのも、少し強引だったのも、タルタロスに置かねばならない理由があったからだとしたら辻褄が合う。ハーデスが門番以外の意図を持ってケルベロスを据え置いたなら、それはあの日に感じた違和と繋がるのだ。


 水玉が垂れる櫂の先を船底に突き立て、柄を両手で握って考え込めば思案はより深くなる。しかし、シャロンは続きを考えはしなかった。これ以上は、ハーデスへの不敬になるからだ。

 靄の向こうにある地獄の前庭の方をちらりと見ても、岸はまだ遠い。櫂の先から広がった水たまりに視線を落としたシャロンは、ふむ、と唸った。

 

「まあ、ハーデス様がまともに取り合うわけもない時点で、この仮説は成り立たないわね。自ら争い事を起こすような方ではないし、問題児と手を組む利点も見当たらない。結託していたら、こんな事をせずともうまく話を合わせてケルベロスを引き渡せば事は済んでしまうもの」

 

 そもそも、タルタロスにケルベロスを連れてきた初日、ただの狂犬をあんなに愛でて大袈裟に紹介したことを思い返せば、ヘラクレスに渡すなどあり得ないことだ。大体、ハーデスは誰に対しても分け隔てなく優しくて、心配になってしまうくらいのお人好しなのだ。ケルベロスを渡すことはおろか、天界を巻き込むような騒動を起こすはずがない。


 先にあげつらった憶測が霞消えて、シャロンはため息を吐いた。少しでもハーデスを疑ってしまった自分を恥じて、おもむろに櫂を川面に差しこむ。

「よしましょう。……来たら来たで、その時だわ」

 俄かに広がる水輪を幾つも重ねて、ゆっくりと舟をこぐ。向かう先は、タルタロスの対岸である地獄の前庭――、頭上を埋めていた靄が晴れ、乾いた空気が肌に触れて眼前に赤岩の巨大な壁が見えてくると、間もなく死者の嘆きが風に乗って聞こえてくる。いつもと変わらぬそのさめざめとした声に、シャロンは自然と耳を澄ませた。

 

 シャロンがタルタロスへ連れて行く死者は、生前に悪を為した者だけである。

 前庭で裁きを受け、善を為した者は転生の道へ、善悪いずれも為さなかった者は、冥界に行くことも出来ずに赤壁の向こうに留め置かれることになる。そして悪の烙印を押された者は、ここ地獄の前庭にて冥界行きを待つことになっていた。

 河原に降り立ったシャロンは、岸に小舟を係留する。丸い小石が敷き詰められた上を歩けば石の擦れる音がして、そばの流木に止まる烏の目が光った。

 所々にある積み石の塔は親よりも先に死んだ子供が建てたもので、形の揃わない石が今にも崩れそうに重なっている。シャロンは、その積み石の傍らに、蚤のように跳ね飛ぶ悪鬼を見つけた。


 親よりも先に死んだ子供は親不孝という悪を為したとされ、流石に冥界に連れて行くことはないが、ここで定められた高さの積み石を作らなくてはならない。しかし、子供が硬い石の上に座りこんで一生懸命に積む傍らで、意地悪な悪鬼がそれを倒していくので、なかなかうまく進まないのだった。

 シャロンは、間もなく完成するであろう積み石を重ねる男児に足を向ける。そして、倒す機会を窺って飛ぶ悪鬼の後ろにそっと立った。

 

「やめなさいよ、悪趣味ね」

 声を聞いて、栗色の眼を大きく開いた幼子の石を積む手が止まる。幼子には、悪鬼の姿が見えない。だから、突然に黒ずくめのシャロンの影が眼前に立ちはだかったことに驚くばかりで、よもや積み石を崩されるのではないかと怯えて、表情をこわばらせた。

「や、やめ……」

 すでに何回か積み石を崩されたのか、幼子は小さな手で積み石を庇いながら、か細い抵抗の声をあげる。シャロンは、栗色の心許ない瞳を一瞥した。


 手足はまだ小枝のように細く、なのに着ている衣服は大きくて見栄えが悪い。汚れた身体は粉を吹いて白く掠れ、良く見れば手の爪は割れて赤黒い瘡蓋かさぶたが痛々しかった。

 みすぼらしい格好の幼子を、見定めるように頭からつま先までじっと見つめたシャロンは、幼子から目を離さぬまま、逃げようとする悪鬼を摘まみあげる。手のひらに収まるほど小さな悪鬼はじたばたと暴れたが、構わずアケローンの方へ思いきり投げた。

 

 幼子からしてみれば、シャロンがなにもない宙を摘まんで、アケローンの川に放る仕草をしたようにしか見えないのだが、しばらくすると、そこに何かがいたことを証明するように、水面で小さな水飛沫があがる。怯える表情を見せていた幼子が一転、不思議そうな表情になったのを見たシャロンは、そのあどけない顔に笑んだ。

「……頑張って」

 それきり、シャロンは幼子に背を向けた。


 地獄の前庭は、タルタロスと違って眩しい天界の光が漏れ届くため少し明るい。少し、と言っても、冥界の者にとって天界の光は僅かでも酷く眩しいもので、シャロンはその眩しさに手を翳す。ついでに見上げたとてつもなく大きな一枚岩は赤壁と呼ばれ、今日もその向こうから、善悪為さなかった己を悔いる嘆きの声が聞こえた。

 せり出すような赤壁の落す影の中に入ったシャロンは翳していた手を下ろし、今度は辺りを窺うようにして歩く。しばらく行くと身体の大きな男が、小さな岩の上に胡坐をかいているのが見えた。

 

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