第15話

「ミノス、御苦労さま」


 声をかけたシャロンは、手にしていた櫂を地面に下ろした。じゃり、と鳴った音に気づいたミノスは、退屈そうに俯いていた顔をあげる。

「よう、遅かったな。傷がまだ痛むのか?」

「そんなもの、とっくに完治よ。ちょっと考え事をしていたの」

 ミノスは、ハーデスの住む王城の門番ミノタウロスの父親であり、シャロンとは旧知の仲だった。ミノタウロスは半身が牛の半獣だが、ミノスはただの人型、似ているのは臥体の良さくらいなもので、並んでもおおよそ親子には見えない。


「今日は少ないのね」

 シャロンは、ミノスの側に並ぶ死者の列を窺った。タルタロスに連れて行かれることになっているこの者達は、赤壁の向こうに留め置かれる者とは違って、これからの罰に怯え言葉もない。いつも通りの死者の列、ところがミノスは怪訝な表情を見せると、シャロンと一緒になって列を振り返った。

「一人、妙なのが混ざってる」

「妙なの?」

 ミノスに言われて、シャロンは首を伸ばした。よく見れば、列の中に小さな影がひとつ紛れている。

「子供……がいるじゃない」

「しかも、あれはコキュートス行きだ」

「コキュートス!?」

 

 ミノスは岩の上に座ったまま、驚くシャロンに頷いた。コキュートスと言えばタルタロスの最深部であり、最も重い罪を犯した者が行く最も過酷な場所だ。普段でもなかなかそこへ送られる者は少ないのに、子供が行くなんて考えられない。

「だからか、ヘルメスが連れてきた」

 言葉を失うシャロンにそう言って、ミノスは列の合間に埋れているその子供をもう一度見やった。

 

 天界の王族ヘルメスは伝達の神であり、天界と冥界を結ぶ天界側の役人のひとりだ。また、天界との境界にある審判の門まで、著名人などの特別な者を連れてくる役目も持っている。だが、まだ幼いこの子供がそうであるとは思えず、シャロンは一呼吸置いてからそちらへ足を進めた。


 人間の歳で言えば、まだ十に満たないくらいだろうか、よく見れば整った身なりはそれなりの出自の良さを垣間見せ、金糸のような滑らかな髪がやけに目に付く。それに、先程積み石をしていた幼子とは違って、目の前に立つシャロンを臆することなくじっと見上げた。

 何処ぞの王家の子供か、はたまた何かの生贄か――、自信に満ち溢れる茶の強い琥珀の瞳は、さながら宝石のように澄んでいる。まあそれは幼子にはよくあることなのだが、それにしても地獄を前にして落ち着き払った態度は看過できない。

 不審に思ったシャロンは、黙ったまま子供を見つめ返した。しかし、なにを言うでもない子供は不安がる様子も怖がる様子も一向に見せない。

 

「こんな小さな子がコキュートスなんて……なにかの間違いじゃないの?」

 シャロンは、少し離れたミノスに尋ねた。

「いや、俺だってこんな餓鬼の審議をした記憶はないがな。でも、数字は間違いない。それに、ヘルメスが連れて来るような特別な来客だ。なにをしたか知らねえが、よっぽどなんだろうよ」

「でも、こんなことってあるかしら」

「さあな。ハーデス様がお決めになったことだ」

「何かおかしいわよ。もう一度差し戻した方が良いんじゃ」

「あり得んな。今だって、九の数字を奴の額に見てるんだぞ。それとも、ハーデス様の裁可に文句をつけるのか?」

「それは……」

 ミノスの厳しい声に、シャロンは怯む。


 冥界には、ミノス、ラダマンテュス、アイアコスの三名の裁判官がいて、生前の行いについて審議し、それを元にハーデスが審判を下すことになっていた。それぞれ、ハーデスから裁眼という特別な目を与えられており、彼らにだけは死者の額にゼロから九までの数字が光り浮かび上がって見える。無印の者は転生の道へ、数字がある者は冥界に送り出し、額の数はそのまま死者が行くべきタルタロスの階層を指していた。

 

 だから、ミノスにも数字が見えたと言うなら、この子供の第九圏タルタロス行きは間違いない。シャロンは、自分を見つめ続ける小さな瞳をいったん無視して、頭を掻いた。

「坊や、オボロス銅貨は持ってる?」

 尋ねると、子供はなにを聞かれているのかわからない、というように首を横に振った。こんな身なりの良い子が持っていないなんてあり得るだろうか。シャロンは今度しゃがみ込んで、子供と目線を同じにする。

 

「このくらいの丸いお金よ。持ってないの?」

 

 じっと見つめる視線の距離が近くなり、子供の方がややたじろいだ。そして、相変わらず言葉なく首を横に振る。実は生贄で、舌でも切られているのだろうか。

 

「残念ね……。行き先は決まっていても、それじゃあ冥界に渡してあげることはできないわ」

「おい、シャロン」

 

 声が聞こえたのか、背後でミノスが咎める。息を吐いたシャロンは、膝に手をつくとゆっくり立ち上がった。

「野暮なことは言わないでよ、ミノス。これが私の流儀だって知ってるはずよ。いくら子供だからって、銅貨がなければ渡すことはできないわ」

 シャロンが死者を冥界に渡す際には、その運賃としてオボロス銅貨を一枚貰うことになっていた。これは、誰でもないシャロン自身が決めた流儀で、それが何の為なのかは誰も知らない。もちろん、ミノスもその理由を知らなかった。


「おまえは餓鬼に甘いからな。まさか、こいつがコキュートスだからって連れて行かないつもりじゃ……」

「やめてよ。そんな理由で渡すのを拒むほど甘くはないわ。私は私の流儀に従っているだけよ」

 相変わらずじっと見つめ続ける子供の視線を感じながら、シャロンはミノスと言い合った。列を成す死者も飛び交う声に顔を上げて、二人のやり取りに目を向ける。

 

「とにかく、銅貨がないなら冥界には渡さない。これは私がアケローンの渡守である以上変えられない制約なの。どうしても冥界に行きたいのであれば、他人から貰うなり奪うなり勝手にすることね。冥界送りにされたのなら、時間は腐るほどあるでしょう」

 子供に向かってそう言い渡したシャロンが冷たい視線を周りの死者にも投げると、顔を上げていた死者は慌てて視線を地面に落とす。すると『ねえ』と小さな声がして、黒衣の裾が引っ張られた。振り返ると、栗毛の合間から覗く瞳がじっと自分を見つめている。それは先程、河原で積み石をしていた幼子だった。

 

「あんた……どうしたの?」

 シャロンは少々驚いて、幼子を見下ろした。相変わらず無垢な瞳は、一度ちらりと握った自分の手を見やる。

「オボロス銅貨ってこれのこと? だったらこれ、その子にあげようか」

 ぱっと手を開いた幼子は、その小さな手のひらに銅貨を一枚乗せていた。


 ――シャロンのこの流儀はどこから漏れ伝わったのか、人も知っていた。だから、もしも冥界に落ちてしまったらと考えて、人は大抵死者の口の中にオボロス銅貨を一枚含ませる。差し出された幼子の銅貨は光り輝いており、親がわざわざその子のために新貨を用意したことが窺えた。

 

 シャロンは、ふと目を奪われた手のひらの銅貨から、幼子へと視線を移す。

「でも、それはあんたの物でしょう」

「うん、でも僕はもうここから帰れるみたいだから……、だからこれはその子にあげる」

 幼子のいた方を振り返れば、確かに積み石の塔が綺麗にそびえ立っている。ついでにミノスが後ろから『そいつはもう十字がついてる』と教えた。十字とは、冥界での罪をあがなった印で、これもまた冥界では裁判官とハーデスにしか見えない。

「あげるって言ったって……」


 釈然としないシャロンの表情を窺うように覗きこんだ幼子は、首を傾げる。

「だめなの?」

「駄目じゃないけど」

 奪えと言った手前否定はできないが、それでも心苦さは残る。冥界の第九圏は、首まで氷漬けになって、歯の根も合わせぬ中でずっと苦しまなければならない永久凍土の世界だ。刃物が刺すような冷たい苦しみに終わりはなく、生き絶えることはおろか眠ることも許されない。

 

 幼子のこの行為は一見善意だが、渡す金貨は第九圏行きの切符に他ならない。冥界に渡すことが嫌なわけではないが、そんな場所へ子供を連れ行くのはやはり気が引ける。ところが、シャロンが考えている間に、幼子は子供に向き合い立っていた。

 

「……どうぞ」

 遠慮がちに伸ばされた幼子の手の内にある銅貨一枚で、子供の運命が決まる。シャロンとミノスは、なにも言わずにそれを見守った。銅貨を受け取ろうが受け取るまいが子供の自由だが、第九圏行きを命じられた以上、金髪の男児にはこの幼子のように罪を購った印を貰える日は半永久的にこない。それは二人が口出ししたところでどうにもならないから、自然と見守るようになってしまったのだった。

 

 虚無の空間を、風に紛れた死者の呻き声が埋めていく。そんな中にあって、子供は伸ばされた手に視線を落とすばかりで、微動だにしない。すると、幼子はさらに一歩近づいた。

「君のおでこ、きらきらしてて綺麗だね」

 唐突に言った幼子は、子供の額をじっと見つめて無邪気に笑った。雑音の中で、幼子の高い声は一際良く響く。それはシャロンの耳はもちろん、少し離れたミノスにも届いた。

 

 対して、子供は一瞬眉間に皺を寄せ、少し慌てたように伸ばした幼子の手を取る。銅貨をさっと自分の手のひらに収め、目を少しだけ泳がせた。

 幼子の方は、一瞬の出来事に目が追いついていないようで、なにもなくなった手のひらに今頃気付いて、ぽかんと口を開けている。奪い取るとまではいかないが、子供が見せた少し乱暴な所作はシャロンに違和感を与えた。

 しかも、子供は貰った銅貨を胸の前で握り締めて俯く。それがまるで指摘された額を隠しているように見え、シャロンの違和感は不信へと変わった。


「きらきら……?」

 呟きながら、シャロンは子供を覗きこむ。確かに子供は綺麗な金髪だが、それを改めて問うほどではない。

 すると、子供は勢いよく顔を上げて、ん、とシャロンに向かって拳を突き付けた。さらりとした金の髪の合間から覗く額は、きらきらどころか傷ひとつ見えない。しかし、子供が密かに口元を緩ませたのを、シャロンは見逃さなかった。

 

 ――なにかおかしい。そう思った時だった。

「なんだ、お前こいつの額になにか見えるのか?」

 子供を訝しんだシャロンとは逆に、幼子の言葉の方を訝しんだミノスが座っていた岩場を降りた。

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