ケルベロスと前庭の役人たち

第13話

「なんだよ、使い魔なんか寄こして」


 赤肌の悪魔の件からしばらく、ケルベロスはハーデスに呼び出されて一人で王城に来ていた。何故か人払いされた広間は声がよく響き渡り、ケルベロスは面倒臭そうにハーデスの座る玉座に近づく。

「それでなくても、どうせ後でもう一回来るのに」

 毎日の仕事終わりにシャロンと一緒に王城に報告に上がることになっているのだから、話があるならその時でいいではないかとぼやくと、ハーデスは難しそうに首を捻った。

「うん、だけど早めに知らせた方がいいかな、と思って」

「早め? 一体なんの話だよ」

 ケルベロスは、手に握っていた使い魔を放った。


 ――昼を過ぎた頃だった。

 死者の往来もない時間、ケルベロスが暇を持て余して竜尾の剣を振っていると、突然にこの使い魔が飛んできた。至急、と伝える使い魔を見て、丁度その場にいたシャロンが背中を押したからこうして王城まで出掛けてきたが、ハーデスの言う急用がそうであった試しはない。

 窮屈な手の中でじっとしていた使い魔が翼を広げ、主人であるハーデスの元へ急ぐのを見送ったケルベロスは、大きな欠伸を零した。


「ちょっと困ったことになってね」

 ため息混じりのハーデスは、差し出した掌の上に着地した使い魔をねぎらうと、次に指を鳴らして使い魔を黒い石に変える。一瞬にして小指の爪ほどの小さな石となったそれを耳の窪みに引っ掛け、ややあってからケルベロスに向き直った。

「この手紙なんだけれど」

「手紙?」


 ハーデスは、着ているローブの袂から封書を取りだして立ち上がった。いつ届いたものなのかわからないが、手紙はすでによれて折れ曲がっている。まさかハーデスがこのように汚すはずもないから、届いた時からなのだろう。よく見れば封蝋もずれていて、仮にも冥界の王に宛てたにしては緊張感がまったく感じられない。

「差出人はヘラクレス。ゼウスの子の一人だよ」

 差し出された封書を受け取ったケルベロスは、促されるままにハーデスの代わりに玉座に座り、中身を取り出す。適当に折られた白地の便箋には、殴り書いたような乱雑な文字が並んでいた。それに、インクが擦れて伸びた跡や点々と残る油染みもあり、シャロンがハーデスと交わす書簡に比べると、どことなく薄汚い。


「…………」

 ケルベロスが黙って書面を見ている傍で、覗くハーデスが嘆息する。銀糸のようなさらりとした髪が視界に入ったケルベロスは、ふと顔を上げた。

「これを、どうしろと?」

「うん。どう思う?」

「なにがだよ。俺、字は読めないぞ」

「え? ……あ、そうだったっけ。なんだ、もう、早く言ってよ」

 並んだケルベロスの肩を叩いたハーデスは、少し笑って便せんを受け取る。そして、玉座の肘掛にもたれ、ケルベロスにもわかるように優しくゆっくりと文面を読み上げた。


「冥界の王、ハーデス。この度〈十の試練〉最後の課題として、貴方の飼っている犬ケルベロスと力競べをする許しを頂きたい。なお、勝利の際にはケルベロスを所望する」

「……は?」

 ケルベロスは、話の内容がよくわからずに困惑した。短い文章ではあったが不可解な点が数多くあり、いまいち理解しかねる。

「なんで俺の名前が」

「ケルベロスの噂を、どこかで聞きつけたようだよ。だけど、話があまりにも突飛すぎるから冗談だと思ってね。出来るものならやってごらんって、返事をしたのが一年程前だったかな」

「ちょっと待て。これ、そんなに前の手紙なのか?」

 

 すると、ハーデスは申し訳なさそうに小さく頷く。

「だって、冥界は死者の国だよ? ヘラクレスのような生者が気軽に来れる場所じゃないし、そもそも来るわけないんだからケルベロスに伝えるまでもないと思って」

「そりゃそうだけど、だからって勝手に返事するか、普通」

「返事というより、冥界はそんなに簡単に訪れることができる場所ではないよって教えてあげたという方が正しいかな。それに、そもそもゼウスが冥界に行っていいなんて許可を出すはずがない」


 ハーデスはそれから便箋のずれた折り目をわざわざ綺麗に畳み直し、脇の小机の上にあった別の封書に腕を伸ばす。

「……と思ったのだけれどね。これが今日届いた二通目だよ。どうやら、近いうちに訪れるらしい」

「……まさか、ゼウスが許可を出したのか?」

「いいや。そんな知らせはないから、おそらくヘラクレスが勝手に送りつけてきているだけだろう。この調子だと、ゼウスは事情をまったく知らないのかもしれない」

「ヘラクレスって、まだ子どもなのか……?」

「とっくに青年だよ。だから、三界神の許可なく各界を往来できないのは知って当然だし、冥界には魂の誓約があることも学んでいるはずなんだけど」

 

 確かに、とケルベロスは頷いた。各界の勝手な行来を禁止する三界の掟は、この世界に住む者なら誰もが知る絶対の掟だ。魂の誓約だって、赤子ならともかく、役人や教育の行き届いている王族が知らないはずがない常識的な知識だ。

 だけど、ハーデスとの封書のやり取りや手紙そのものを見るかぎり、ヘラクレスに王族としての見知や所作が身についているとは言い難い。子どもと勘違いするほどの見識の浅さや、一通目と同じ封蝋のずれ具合は、人型になってまだ日の経たないケルベロスが見ても拙劣だ。

 

「……なに考えてるんだよ。意味が分からねえ」

 揉め事が嫌いなハーデスはケルベロスの愚痴に同意すると、憂鬱そうに封書を取り出して眺める。当然、ケルベロスとしても厄介事は御免だった。

「とりあえず、大ごとになる前にヘラクレスに来るなと一筆書いとけよ。それくらいなら向こうも理解できるだろう。なんなら、三界の掟も改めて教えてやれ」


 すると、ハーデスは突然押し黙って手紙から目線を外した。後を追うようについたため息は、今までで一番に重い。

「掟を伝えるのはいいんだ。でも、来るなと言うのは一度許可した手前、なんとなくはばかられて」

「なんでだよ。来られちゃ迷惑なんだから構わないだろ」

「言ってなかったけれど、ヘラクレスといえば天界で一、二を争う猛者なんだよ。そんな手紙を出したら、相手に怖気付いたように聞こえるんじゃないかと心配でね。冥界の王としての威厳が損なわれてもいけないし、あんまり気が進まないんだよ」

 

 聞いたケルベロスは思わず眉根を寄せた。そして、一人前に渋って見せるハーデスに詰め寄る。

「王の威厳だあ? お前にそんなものがあるとは聞いてねえぞ」

「わあ、酷い。これでも頑張って冥界を治めてるのに」

「どこがだよ。お前がしっかりしないから、そんな舐めた手紙が来るんじゃねえか」

「だから、もういっそ相手にしない方がいいかなと思って、返事をしてないんだ。どうせ生者はアケローンを渡ることは出来ないのだし」

「なら、最初から俺じゃなくてシャロンにこのことを教えてやれよ。可哀想に、あいつも災難続きだな」

 

 この間死にかけたシャロンを引き合いに出して冷たく言い放ったケルベロスは、一瞥をくれてそっとハーデスの元を離れた。ハーデスは瞬間何かを思い出したように、はっと青褪めて低く呻く。

 それもそうだろう、シャロンが使役の件で襲われたのはついこの間のことだし、自分が言うのもなんだが、立て続けに悪魔に襲われたばかりだ。これ以上災難が降りかかるとなれば、どうなるかわかったものではない。


「うん……。ごめんね、ケルベロス」

「俺に謝るな」

 言われて眉を八の字に下げてしょぼくれる姿は、おおよそ冥界を治める王とは思えない。ケルベロスは辟易してこれ見よがしに嘆息した。

 新たな面倒の種を思うと、途端に億劫な気分になる。無知にも程がある返信をよこす男なのだから、恐らくこちらの常識は通用しない。

 

 しかも、そんな男が自分を天界に連れ帰って飼うつもりなんて、聞いただけでおぞましい。関わりなんて一切持ちたくないのが本音だが、ゼウスの息子という立ち位置を掲げてどこまで踏み込んでくるかは未知数だ。

「魂の誓約のことを考えれば、あり得ないけれど……、一応用心しておこうかな」

 ハーデスが、気鬱な表情を見せる。


 魂の誓約とは、冥界の住人でない者が冥界を訪れる際に、その魂を抜かれる事を指す。つまり、冥界へ来たが最後、来訪者は元の世界に戻ることが出来なくなるのだ。ただし、ハーデスの許可が降りればその限りではないが、今までゼウスとポセイドンの訪問以外の許しは聞いたことがない。

 

「ゼウスの息子だからと高を括っているのかな。使役の件との関係も、ないとは言い切れないし、突然来たりしたら困るよね」

 ケルベロスはハーデスに視線を戻す。上目づかいに戸惑いを露わにする様子は、まるで子供のようだった。

「ねえ、念の為に使い魔を渡しておこうか? なにかあった時に便利だから」

「いらねえよ、使い方知らねえし。そういうのは、シャロンがいるから大丈夫だろ」

 ケルベロスは欠伸を零す。

「じゃあ、前庭とタルタロス一帯に結界を張ろうか? それとも護衛をつけようか?」

「だから――」

 

 耳元で続くうるさい声に、ケルベロスは辟易する。はたと目があったハーデスは、相変わらず眉を下げていかにも困惑していた。

「いくら心配したところで、なるようにしかならないだろ? っていうか、門番の役職があるのに護衛付けるなんて恥以外のなんでもねえよ、やめてくれ」

「でも……」

「お前が今さら狼狽うろたえてどうすんだよ。来るか来ないか分からない奴を怖がったって意味ないだろ」

「でも、私はケルベロスが心配で――」

「俺のことが心配ならこれ以上余計なことしないで黙っててくれ。なんなら、俺にも王の威厳って奴を見せてみろ」

 

 心配の言葉を遮り、ケルベロスはハーデスの鼻先に指を突き立てた。荒い語気に驚いたハーデスは、目を丸くする。そして、二人の間に水を打ったような静寂が訪れた。

「……まさか、ケルベロスにそんなことを言われるとは」

 むっと口を尖らせたままのケルベロスをしばらく見ていたハーデスは、堪えきれない様子で小さく吹き出した。失笑に近い笑いに、ケルベロスは尖らせた口を呆れて開く。

 

「そんなことって言うけどな、その優柔不断と弱気が混ざったような判断には前から思うところがあったぞ。ただ、犬だったから言葉にできなかっただけで」

「……それは知らなかったな、気をつけよう。でもひとつだけ、これをお守りに」

 差し出されたのは、使い魔とはまた違う黒い立柱型の水晶だった。こういった類のものに詳しくないので見ただけでは何も分からないが、蝋燭の火を跳ね返す輝きはとても眩い。

「なんだ、これ」

「何かのときに、役に立つから持っていなさい」

 

 使い魔を断った手前、二度断るのも気が引けて、ケルベロスは大人しく受け取る。貰った石は一度光に透かしてなんの変哲もないことを確かめてから、服のポケットにしまい込んだ。

「他にもなにか手伝うことがあったらちゃんとお言い。お前のことは必ず守るから」

 ハーデスの声を背中で聞きながら、ケルベロスは帰路を急ぐ。このあと日報で再びここに訪れる面倒臭さを憂いて気はそぞろになり、空返事で返した。するとそこへ、ひときわ愛情深い声がかかる。

 

「信じているよ、ケルベロス」

 

 耳慣れない言葉に、ケルベロスは不意に身動いだ。改めてそんな言葉をかける意図が分からず、自分を見送るハーデスをゆっくり見返して、その表情を訝しむ。

 なにが気に入らない、というわけではないが、ケルベロスはハーデスの言葉を素直に受け止められなかった。信じている、なんて改めて言われて気恥ずかしいのもあるが、それとは別に即座に言葉を返す気にはなれない。

 どちらかと言えば裏を勘繰ってしまい、良からぬ方へ思考が働く。何か企んでいるのではないか――そんなふうに疑えば、不信は十も百も簡単に積もった。

 

「あれ、どうしたの?」

「どうしたの? じゃねえよ。なんで突然そんなこと言うんだよ、気持ち悪い」

「気持ち悪いだなんて、酷いなあ。本当に心配しているのに」

「……お前、なにか隠してることがあるんじゃないだろうな?」

 実のところ、隠し事があるくらいならまだ良かった。厳しく問い詰めれば、降参して吐くからだ。

 

 だけど、こうして疑心暗鬼にかられることすら計算ずくだとすれば、最早降参だ。学のない自分に壮大なハーデスの思考を探ることは難しく、かといって怪しいと無闇に責めたところで、上手く言いくるめられてしまうだろう。その優しい笑みは、途端に胡散臭くなる。


「大丈夫、ケルベロスに隠し事なんてしないよ」

 ハーデスは和やかにそう言うが、納得はできない。せめて態度で不服を示すと、ハーデスはさらに微笑む。

 いつも惚けているのに、こういう時だけは芯がある。そんな一面を見るたび、ハーデスのことをただのうすらぼんやりした莫迦なのだと思ってはいけないと自分を戒める。それは、ハーデスに対する畏怖と言い換えても良かった。

 

「そうだといいな」


 ケルベロスは警戒を露わにした。こうして考えていることすら見透かされているようなハーデスの微笑みの裏は、やはり読み取ることが出来ない。その代わりに、誰もが持ち得るわけでない威圧感のようなものなら、獣の感性で怖いくらいに肌で感じて、明確な上下関係を自覚する。

 

 なにもないのに気付くと気圧されている、それがケルベロスにとってハーデスが冥界の偉大な王である証だ。いくら生意気な口を利いても横柄な態度をとっていても、その王気がハーデスにある限り、ケルベロスは最終的にはハーデスに一目置いて、その主従関係を深くしていく。それは犬の性か、抗うことはできなかった。


「……じゃあな」

 頭に浮かんだ余計な思考を振り払い、改めて踵を返したケルベロスにハーデスは頷く。

「うん、気をつけて」

 背中に注がれるハーデスのあたたかな視線には、嘘を感じられない。犬の時に感じなかったわけではないが、人となって言葉を交わせるようになると、信頼感というのはその言葉一つで、こうもひしひしと伝わってくるものなのか。今しがた聞いたハーデスの言葉をめぐってケルベロスは相当困惑していたが、疑うようなことを考えておきながら、反面本当に信頼されていると思えばやはり嬉しい。

 

 ケルベロスは、一度だけ振り返る。そこにはまだ自分を見守るハーデスがいて、振り返った自分に小さく手など振っている。

 その笑みは疑う余地もない、いつもの間抜け面だ。ケルベロスは肩をすくめると、そのまま広間を後にした。

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