第12話

 夜のタルタロスは、誰も訪れない。静かな大地に空風が吹いて、時折、水面が揺れるだけだった。静寂というには、酷く物悲しい雰囲気に重なる沈黙。その中でシャロンはふと、ケルベロスと目を合わせる。

 

「――私、昔は普通の魔女だったんだよね」

 

 シャロンは唐突に言うと、水の中で膝を抱えた。僅かな動きで、ささやかに弾けた水音が辺りに響く。生まれた小さな水輪が幾つも重なって溶け合い、やがて水際で消えた。

「魔女の住む森っていうのが、タルタロスとはちょうど反対側の奥の方にあるの。知ってる?」

 尋ねられたケルベロスは、ただ頷いた。シャロンは薄く微笑む。

「私ね、そこに暮らしてたの。もうずっとずっと昔のことよ」


 話し始めたシャロンに、ケルベロスはそっと胡坐を組み直した。突然そんなことを言い出したシャロンを不思議に思ったし、興味があった。

「魔女の住処には魔女しかいないの。住処がある森には外界との接触を嫌ってあらゆる結界を張り巡らしているから、それを知らない者は余程のことがなければ入れない閉鎖的な空間でね。同族以外は、森の場所を見つけることすら不可能だと思うわ」

 自分の持っている知識とは、少し違う。遠くを見ながら言うシャロンに、ケルベロスはへえ、と素直に感心した。


「秘密主義で、謎が多い。だからこそ、魔女にしか使えない魔法もある。空を飛ぶのなんて、その代表的なものよね。……魔女はね、生まれて間もなく魔法を学び始めるの。そうして一通り教わって、空を飛べるようになれば一人前。そのあとはどうやって生きてもいいのだけど、普通は手頃な男を見つけて子を孕み、産んで一生を終えるのよ」

「産む? 森に男はいないんだろ」

「ええ。だから外に探しに行くの」

「一緒には暮らさないのか」

「そうね。男は子を作るのに必要なだけだもの。まあ、たまに戻ってこないのもいるけど」

「……そうまでして、子どもが欲しいのか?」

「どうかしら。でも、魔女って今や希少種なのよ。小さな頃からそういうものだと教えられるし、種の存続のためには仕方ないわね。結果、それで絶滅せずに持ち堪えてるのだから、その方法があながち間違いとも言えないわ」

「だとしても、生まれる子供の性別は決められないだろう。もし、男が生まれたらどうするんだよ」

「男児には魔女の魔力は受け継がれないから――」

「だから?」

「……聞かない方がいいわ」


 含みを持たせたシャロンに空恐ろしいものを感じながら、ケルベロスは肩を竦める。

「ということは、お前は今、男を見つけている最中?」

「……馬鹿じゃない? 私にそんな暇があるように見える?」

 一瞥と共に失笑されたケルベロスは、むっとした。

「だって今、お前がそう言ったんだろ?」

「普通は、って言ったでしょ。私は普通じゃないの」

 

 シャロンは、視線を揺らめく水面にやった。別珍を敷いたような鈍い光がアケローンいっぱいにたゆんで広がり、殆ど流れていない水の中で手を動かせば、それが一瞬よじれて歪む。シャロンはそこでなぜか、大仰なため息をついた。

「ねえ、二度と恋なんかできない身体って、なんだと思う?」

「なんだよ、突然」

 戸惑うケルベロスを横目に、シャロンはもう一度膝を抱え直した。

「見たでしょ、私の身体の毒。触れれば大抵のものは溶かしてしまうわ。肉体であれば骨も残らない、大地だって溶かしてしまう。そんなものが私の体に流れているの。でも、最初からこうだったわけじゃない」


 シャロンが口を噤めば、間もなく沈黙が訪れる。しかし、シャロンはそれを厭うように抱え直した膝から手を離し、水を掬ってわざと音を立てた。ちゃぷ、と儚い音が不規則に続き、川面にまた幾つもの水輪が広がる。

「昔……、恋人がいたの。でも、友人にその恋を妬まれてしまってね。毒を盛られたのよ」

 突然の告白に、ケルベロスは少し面食らった。けれど、シャロンは構わず続ける。


「魔女が作る毒の中でも一番に強くて、禁呪になる程えぐい毒だった。一口でも飲めば身体が腐るの。死ぬのは嫌だからと対抗魔法を唱えても、腐敗と再生を繰り返すだけ。そのうち嫌になって、唱えるのをやめればどろどろに溶けてしまうのよ」

「それ……、どうするんだよ」

「二百年、対抗魔法を唱えてやったわ」

「二……百年?」

 桁違いの年数に驚いたケルベロスの声が辺りに響く。

「だって、そんな事で死ぬなんて癪じゃない?」

「お前、根性あるな」

 率直な感想を言ったケルベロスに、シャロンは微笑んだ。その柔らかな笑みに、ケルベロスの胸は不意にくすぐられる。


「毒を盛られて虫の息の私にね、友人は笑いながら『二度と恋なんかできない身体にしてやる』って言ったのよ。流石に血の気が引いたわ。それまでは、彼女のことを一番の親友だと思っていたから」

 再びのため息が水面を削り、シャロンはアケローンの水を掬って顔を洗った。

「でも、何故かしらね。最初こそ怒りが湧いて仕方なかったけど、そこまで彼女を追い詰めたのも私だと思えば、あんまり恨む気になれなかったのよ。親友と呼べる関係だと思っていたのは私だけだったのかもしれない。そっちの方が堪えたわ」

「殺されかけたのに?」

「ええ。だって恨んだところで何もならないじゃない。彼女を責めたって今更だし、そういう種族だから、私の知らない所できっと酷い罰を受けている。私はと言えば、親友は失ったけど生きてるわ。……じゃあ、もういいじゃない」

「それで、毒婦に?」

「そう。幸か不幸か、盛られた毒を耐えてしまったから。こう言っちゃなんだけど、魔女の毒の中でも秘術の部類に入る毒に耐えられるなんて、そうそういないわ。きっかけをくれたと思えば彼女に感謝もするわね。それに、一度は死んだも同然だと思えば、それ以降毒を飲むことに恐怖なんて感じなかった。毒婦が持つ、万人がなれるわけでもない特殊性も魅力だったしね」

「安易だな……」

「きっかけはね。でも、極めるにはそれ相応の努力がいるのよ。それからは馬鹿みたいに毒を飲んでは身体にため込んで、耐性をつけたの。……だから私の身体は見事な毒壺よ。御蔭様で流れる血液も唾液も毒になるわ」

 

 これ見よがしに、シャロンは舌を出した。目の当たりにした血液はともかく、舌なんて見たところ自分と何ら変わりない気がするが、それすら毒になるというなら信じるしかない。ケルベロスはただ、ふうん、と頷いた。


「毒を喰らうのに抵抗がないなんて、冥界がいかに広くてもお前くらいなもんだろうな」

「そう? 失敗したら死ぬだけよ。簡単だわ」

 自分を語ったシャロンは、水に浸かっていた髪をまとめ上げると、手早く結った。

「でも、この身体だっていいことばかりじゃないのよ。今回みたいに斬られれば、血が流れて周りに迷惑をかけるしね。あんたに初めて会った時だって、蛇に噛まれて血を流したじゃない。あれも下手すればあんた死んでたわ、不思議なことに持ち堪えたけどね。あれかしら、首で毒蛇飼ってたせいかしら」

「別に飼ってたわけじゃないけどな」

「まあそんなわけで、迂闊に怪我もできないのよ。そうね……恋愛も無理だわ」

「……恋愛、したいのか?」

 

 結いあげた髪からぽたぽたと垂れる滴が肩に落ちて流れるのを見ていたケルベロスは、意外に思って首を傾げる。すると、シャロンが鼻で笑った。

「物の例えよ。今さら恋がしたいなんて、これっぽっちも思わないわ」

「ふうん」

「面倒臭くて」

「面倒臭い?」

 ケルベロスには、そういう経験がなかった。だから、これも純粋な疑問だった。すると、それをどう捉えたのか、シャロンは暫くして諭すように答える。


「もし今後そういう機会があったとして――、純粋な恋愛で満足できるほど子どもでもないじゃない。そばにいるだけでいいなんて枯れた恋愛もまだ御免よ。だけど、愛した奴は口付けるだけで死んでいくの」

「…………」

「面倒臭いでしょう」

 シャロンの一言が、闇夜に浮きだった。ケルベロスはわかったようなわからないような不思議な感覚でそれを聞く。

「恋愛じゃなくてもそうよ。毒に耐える二百年の間、ずっと考えてた。詰まるところ、私は誰とも深い関わりを持ちたくないのよ。何がきっかけで傷つけてしまうか分からないんだもの。だから、一人きりでいられるこの場所のこの仕事をハーデス様に頼みこんだの。もう一千年は昔のことだわ」

 

 思わぬ事情を聞いたケルベロスは、なんと言っていいかわからずに俯いた。シャロンはそんなケルベロスに向かって、手を伸ばす。

「むこう向いてて」

 タオルを受け取りながらケルベロスにそう指示すると、シャロンは間もなく水音をさせて立ち上がった。ぽたぽたと大地を濡らしている滴の音が背を向けるケルベロスの耳にも届き、身体を拭く影が俯き加減の視界に入る。

 

「女って怖いのよ。結局、私は彼女の思う通りになった」

 

 動く影をぼんやりと見ているケルベロスに、背後のシャロンが呟いた。それが、一番最初の『二度と恋なんてできない身体』のことを指しているとわかって、ケルベロスは相変わらず口籠る。

「ここはいいわ。静かで、余計なものはなにもない。心を動かす出来事なんて、起こるはずもない」

 黒衣を纏っていつのまにか目の前に躍り出たシャロンは、ふとアケローンを振り返った。光球が照らし上げる川の先は、相変わらずの暗闇だ。ケルベロスは土のついた服を払って座っていた腰を上げる。


「なんで話した?」

 不思議に思って隣に並ぶと、シャロンはそっと視線を落とした。その足元には、薄い影がついて来る。

「光が届いて周りが見えるようになるのも、悪くないと思ったのよ」

「どういうことだ?」

「ハーデス様に手伝いが欲しいとは言ったけれど、まさかあんたみたいなのが来るとは思わなかったの。でも意外と悪くない。……あんたが失敗さえしなければ、だけど」

「うるせえよ。俺だってお前の底意地の悪ささえなけりゃ、もっと楽しいよ」

 ぼやくケルベロスは舌を出した。すると、不意に影が立ち止まる。

「そうね、できるだけ意地悪しないように気をつけるわ」

「は?」


 今までになく素直な受け答えに、ケルベロスはあからさまに戸惑った。それをシャロンは楽しむように見てほくそ笑む。

「ハーデス様から頼まれた犬の躾だもの。意地悪しすぎて脱走されても困るわ」

 会話のペースを乱されて呆然とするケルベロスを置いて、シャロンの足取りは軽かった。茶化されたと気付いたのはだいぶ距離が開いてからで、悔し紛れに思わず叫ぶ。

「なんなんだよ、お前!」

 先を行くシャロンは、ちらりと振り返る。

「あの程度の悪魔に手こずるなんて、まだまだ」

「お前は瀕死だったじゃねえか」

「煩いわね。でも、結果仕留めたのは私だもの」

「……っ!」


 がちゃり、と家の扉を開けても、言い合いは続く。音もなく灯る蝋燭の灯りの下、喧々号号、言葉の応酬は止まらなかった。

「せめて剣くらいは、まともに扱えるようになった方がいいんじゃない? せっかくハーデス様からいただいたんでしょう」

「お前に言われたかねえよ。っていうか、倒れる前からずっと煮てるあの大釜なんなんだよ」

「魔女の秘薬よ。って、ほら、早く寝ないと明日も仕事だし」

「明日って言うより今日だ、今日!!」

 そして、それぞれの部屋の前まで辿りついた二人は、最後顔を見合わせた。傍にあるテーブルの上には、片付け忘れた皿がひとつ残っている。


「おやすみ、馬鹿犬」

「おやすみ、毒女。って、俺は寝ないけどな!」

 口々に言って、ぱたん、と扉が閉まる音が二つ。タルタロスの大地にやっと本当の静けさが戻ったのは、朝の狼煙の三時間前だった。



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