第20話:答えはいつもここにあった
七月中旬の放課後。
部室の窓から差し込む西日が、机の表面を熱く照らしていた。
エアコンの効きが追いつかないのか、室内は微かに蒸し暑い。
古い扇風機が首を振りながらカタカタと音を立てている。
俺は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、三上の隣で数学の問題集を開いていた。
「この微分の問題、やっと理解できました」
三上がノートに答えを書きながら、ほっとした表情で言った。
鉛筆を持つ手のひらがうっすらと汗ばんでいるのが見える。
「そうか、良かったな」
俺も安堵した。
三上は真面目だから、分からない問題があると徹底的に理解しようとする。
その集中力は見ていて気持ちが良い。
「黒瀬先輩の説明、本当に分かりやすいです」
三上は満足そうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺も自然と口元が緩む。
でも同時に、どこか遠慮がちな表情も見て取れた。
この一週間で、俺と三上の関係はさらに自然になっていた。
敬語を使わなくなってから、お互いに気を使いすぎることもなく、普通に話せるようになっている。
まるで昔からの知り合いのように、会話が途切れることもない。
「失礼します」
扉が開いて、天野が入ってきた。
「お疲れ様」
俺と三上が同時に答えた。
「お疲れ様」
天野も答えたが、その声には少し疲れが混じっているように聞こえた。
ここ数日、天野の表情にはどこか影があって、いつもの明るさが薄れている気がする。
三上は天野の様子を気にしながら、そっと俺の方を見た。
その瞳には心配の色が浮かんでいる。
「今日も勉強してたんだね」
天野が俺たちの机を見ながら、少し複雑な表情で言った。
「うん、三上が数学で分からないところがあるって」
俺は答えた。
「そっか...」
天野は短く答えて、自分の席に座った。
しばらく沈黙が続いた。
扇風機の音だけが、蒸し暑い部室に響いている。
三上は不安そうに天野の様子を窺っていた。
俺も何か話しかけた方がいいのかと思ったが、言葉が見つからない。
「ねえ」
天野が突然口を開いた。
その声には、どこか思い詰めたような響きがあった。
「三上さん」
「はい」
三上が少し緊張した様子で答える。
「三上さんと和人くんは、最近いつも一緒にいるよね」
天野の声には、観察者のような冷静さがあった。
でも同時に、何かを確かめようとするような意図も感じられる。
「え?」
三上は戸惑ったような表情を見せた。
「毎日部室で勉強して、図書館でも会って、お昼休みも一緒にいることが多いでしょ?」
天野は静かに事実を述べた。
「まあ...そうですけど」
三上は曖昧に答えた。
その声には、自分が何か悪いことをしているのではないかという不安が込められていた。
「それに、最近は敬語も使わないでだいぶ距離感近く話してるし」
天野の指摘に、俺も三上も黙ってしまった。
確かに天野の言う通りだ。
俺と三上は、最近はほとんど毎日一緒に過ごしている。
勉強のことで分からないことがあれば相談し合うし、本の話やゲームの話もする。
「私...何か天野先輩の気に障ることをしてしまったでしょうか?」
三上が小さな声で聞いた。
その表情には、深い心配と申し訳なさが浮かんでいる。
「そんなことないよ」
天野は首を振った。
「ただ...」
天野は少し考え込むような表情をして、それから小さく微笑んだ。
「そういう関係のことを、一般的には《友達》と呼ぶんじゃないのかなって思って」
その言葉に、俺は少し驚いた。
友達。
その単語が、なぜかとても新鮮に聞こえた。
「友達...」
三上が小さくつぶやいた。
その声には、驚きと戸惑いが混じっている。
「そう」
天野は穏やかに言った。
「お互いに気を使わないで話せて、一緒にいて楽しくて、困った時には助け合う」
天野の言葉は優しかった。
その表情には複雑な感情が浮かんでいるが、同時にどこか吹っ切れたような清々しさも感じられる。
「それを友達以外になんて呼ぶの?」
その指摘に、俺は改めて考えてみた。
確かに俺と三上の関係は、天野の言う通りかもしれない。
一緒にいて楽しいし、お互いを理解し合えているような気がする。
「でも、私たちは...」
三上が言いかけて、言葉を止めた。
俺も混乱していた。
確かに最近の俺と三上の関係は、天野の言う通り「友達」と呼べるものかもしれない。
でも、それを明確に意識したことはなかった。
「友達を作ろうと思って頑張ってた時は全然うまくいかなかったでしょ?」
天野が続けた。
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「でも、自然に過ごしてるうちに、いつの間にか友達になってた」
その言葉に、俺はハッとした。
確かにその通りだった。
三上が「友達を作りたい」と相談してきた時、俺たちは色々な作戦を考えて実行した。でもどれもうまくいかなかった。
でも、友達作りを一旦忘れて、自然に過ごしているうちに、いつの間にか俺たちは友達になっていたのだ。
「そう...なのかな」
俺は呟いた。
「俺たち、友達になってたんだな」
その瞬間、何かがストンと腑に落ちた感覚があった。
俺と三上の関係に、ようやく名前がついた。
「友達...」
三上も同じように呟いた。
その声には、深い感動が込められていた。
「私、ついに友達ができたんですね」
三上の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
「ああ」
俺は頷いた。
「そうだな」
三上の表情がパッと明るくなった。
「本当に?」
「本当だ」
俺は確信を込めて答えた。
「やった...」
三上は嬉しそうに両手を握りしめた。
「ついに友達ができました」
その純粋な喜びようを見て、俺も嬉しくなった。
友達。
その言葉の重みを、俺は初めて実感した。
でも同時に、三上の表情には喜びだけではなく、心配そうな色も浮かんでいるのに気づいた。
「でも...」
三上が天野の方を見た。
「天野先輩が最近元気がないのは、私のせいでしょうか…?」
その言葉に、天野は少し驚いたような表情を見せた。
「どうして?」
「私が黒瀬先輩と仲良くなったせいで、天野先輩が寂しい思いをしてるんじゃないかって...」
三上の声には、深い心配が込められていた。
「そんなことないよ」
天野は慌てて否定した。
「三上さんは何も悪くないの」
「でも...」
「本当だよ」
天野は微笑んだ。
その笑顔には以前のような無理した感じはなく、どこか決意めいたものが込められていた。
「和人くんに友達ができて、私も嬉しいの」
◇
「それで」
天野が改めて口を開いた。
「三上さんの相談は、これで解決だね」
「え?」
三上は戸惑った。
「友達を作りたいっていう相談でしょ?もう友達ができたんだから解決じゃない?」
天野の指摘に、俺も三上も改めて気づいた。
確かにその通りだ。
三上が問題解決部に相談に来たのは「友達を作りたい」ということだった。
そして今、その相談は解決した。
「そうですね...」
三上は少し寂しそうな表情を見せた。
「じゃあ、もう部室に来る理由がなくなってしまいますね」
その言葉に、俺は何か言おうとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。
確かに相談は解決した。
でも、だからといって三上との関係が終わるわけではない。
「...そんなことないだろ」
俺はようやく口を開いた。
「友達なんだから」
「でも、相談が解決したなら...」
「相談が解決したからって、友達関係が終わるわけじゃない」
俺は三上を見つめて言った。
「黒瀬先輩...」
三上の目が潤んだ。
「私も、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
俺も微笑んだ。
「それで提案なんだけど、」
天野が割り込んだ。
「三上さんも問題解決部に入部すればいいんじゃない?」
「入部ですか?」
三上は驚いた。
「そう。もう立派に部活動に参加してると思うな」
天野の提案に、俺も同感だった。
「でも、私は困ってる人を助ける方じゃなくて、助けられた方で...」
「それでもいいと思うよ」
天野は優しく言った。
「問題解決部は、困ってる人を助ける部活。自分で問題を乗り越えた強さのある三上さんならきっと誰かを助けることができると思う」
「そうだな」
俺も同意した。
「三上がいてくれると、色々と助かる」
「本当ですか?」
三上は嬉しそうだった。
「もちろん」
「じゃあ...」
三上は少し考えてから、深く頭を下げた。
「入部させてください」
「よろしくお願いします」
その言葉には、深い感謝と決意が込められていた。
「こちらこそ、よろしく」
俺と天野が同時に答えた。
こうして、問題解決部は正式に三人体制になった。
でも、なぜか手放しで喜べない空気が部室に漂っていた。
◇
その日の部活動が終わって、俺たちは一緒に部室を片付けていた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
三上が俺と天野に向かって深く頭を下げた。
でもその声には、申し訳なさが混じっているように聞こえた。
「友達になれたことも、入部できたことも、全部先輩方のおかげです」
「そんなことないよ」
天野は首を振った。
でもその表情は、どこか疲れているように見えた。
「三上さんと和人くんが、自然に友達になったの」
「でも、天野先輩が気づかせてくれなかったら...」
「きっといつかは気づいてたと思うよ」
天野は微笑んだ。
でもその笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「それに、私も三上さんが仲間になってくれて嬉しい」
天野は言った。
その言葉には、素直な気持ちが込められているように聞こえた。
その言葉に、三上は複雑な表情を見せた。
俺には天野の本当の気持ちが見えないような気がした。
片付けを終えて、俺たちは部室を出た。
廊下も暑いが、部室よりは風通しが良い。
学校を出て、俺たちは3人並んで駅まで歩く。
駅で別れる時、三上は振り返って言った。
「今日は本当にありがとうございました」
その声には、申し訳なさが混じっていた。
「こちらこそ」
「それじゃあ、また月曜日に」
「うん、また月曜日」
三上と別れて、俺と天野は並んで駅の改札に向かった。
いつもなら、ここで天野とも別れるのだが、今日は何かが違った。
「和人くん」
天野が俺の袖をそっと引いた。
「ん?」
「ちょっと、お話があるの」
天野の声には、いつもとは違う真剣さがあった。
「話?」
「うん。大切な話」
俺は天野を見つめた。
その瞳には、何かを決心したような強い光が宿っている。
「ここじゃなくて、もう少し静かなところで」
天野は周りを見回した。
確かに駅前は人が多くて、話をするには適さない。
「分かった」
俺は頷いた。
俺たちは駅前の小さな公園に向かった。
夕方の陽射しがベンチを照らしていて、蝉の鳴き声が響いている。
「ここなら大丈夫かな」
天野がベンチに座った。
俺もその隣に座る。
「それで、話って?」
俺は聞いた。
天野は少し躊躇うような表情を見せてから、深呼吸をした。
「和人くん、今度の日曜日、空いてる?」
「日曜日?」
俺は少し驚いた。
今日の天野は、いつもとは違う雰囲気がある。
「うん。もし良かったら、一緒にどこか行かない?」
天野の声には、緊張が混じっているのが分かった。
「どこかって?」
「えっと...お祭りがあるの。隣町で夏祭り」
天野は少し恥ずかしそうに言った。
「夏祭り...」
「浴衣とか着て、屋台を見て回ったり、花火を見たり...」
「二人で?」
「うん」
天野は頷いた。
その表情には、何かを決心したような強さがあった。
俺は少し戸惑った。
天野と二人きりで出かけるのは、実はあまり経験がない。
いつも三上がいたり、部活動の一環だったりしたから。
でも、天野がこんなに真剣に誘ってくれているのだから、断る理由もない。
「...分かった」
俺は答えた。
「本当?」
天野の表情がパッと明るくなった。
「ありがとう」
天野は安堵したような笑顔を見せた。
でもその笑顔の奥に、何か複雑な感情も隠れているような気がした。
◇
私は和人くんの返事を聞いて、胸の奥で激しく鳴っていた心臓がようやく落ち着くのを感じた。
言えた。
夏祭りに誘うことができた。
これで、告白への第一歩を踏み出すことができる。
「詳しい待ち合わせ場所とか、また明日連絡するね」
私は和人くんに言った。
「うん、分かった」
和人くんは素直に頷いてくれる。
きっと彼は、これが私の告白のための準備だとは気づいていない。
でも、それでいい。
今はまだ、その時ではない。
日曜日。
夏祭り。
そこで私は、ずっと心の奥に秘めていた想いを伝える。
どんな結果になっても、もう後悔はしない。
そんな覚悟を胸に、私は和人くんと別れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます