第12話 : Hello, World!

翌日、学校の空気はまるで何もなかったかのように穏やかだった。

いや、正確には違う。

昨日までの、天野光を遠巻きにするようなよどんだ空気は完全に消え去っていた。


彼女がライブ配信で流した涙と、正直な言葉。

それがクラスメイトたちの心を動かしたのだろう。


休み時間、彼女の周りには以前よりもっと自然で、温かい人の輪ができていた。

その中心で笑う彼女の笑顔もまた、以前の完璧なそれとは少し違って、どこか柔らかく人間味のあるものに見えた。


「光、昨日の数学の課題全然分かんなかったんだけど、教えてくれない?」


友人の一人が困ったように声をかける。

以前の彼女なら、「いいよ。ここの公式を使えばきっと解けるはずだよ」と、完璧な模範解答を返していただろう。


だが、今の彼女は違った。


「あー、私もあそこめっちゃ苦戦した! 30分くらい唸ってたよ」


彼女は、へへっと悪戯っぽく笑う。


「でも、ここの見方を変えたら案外あっさり解けたんだよね。一緒に考えてみよ?」


そう言って彼女は自分のノートを広げ、友人と顔を寄せ合って考え始めた。


周りの友人たちも、「私も分かんなかった!」「光、天才!」と、気軽に会話に加わっていく。


完璧な高嶺の花ではなく、少しだけ隙のある親しみやすいクラスメイトへ。

彼女が自ら壊した完璧という壁は、彼女と周りの人々の距離をぐっと近づけていた。


俺は教室の隅の席から、その光景をただ眺めていた。

よかった。

心から、そう思った。

彼女の世界は正常に再起動した。

もう、俺という名のデバッガーは必要ない。

俺の役目は終わったんだ。


nullとして彼女と話し、Hikariとして彼女に笑いかけられたあの深夜の時間はもう戻ってこない。

それは、少しだけ寂しい。でもそれでいい。

あれはあくまで緊急避難的な、仮初めの関係だったのだから。


今、彼女の隣にいるのは本当の友人たちだ。

リアルな世界で、彼女の笑顔を支える仲間たち。


そこに今の俺の居場所はない。

教室の隅にいる、陰キャな俺――黒瀬和人では彼女の隣に立つ資格がない。


だが、本当にそれでいいのか?

俺は自分の胸に問いかける。

彼女は変わった。自分の弱さと向き合い、完璧な自分という殻を自らの手で打ち破った。

それなのに俺はどうだ。

今もこの教室の隅という安全地帯から一歩も動こうとしていない。

人と関わることから逃げて、自分の殻に閉じこもっているだけじゃないか。


彼女はあんなに強くて眩しいのに。


いつか俺は。

正体を隠した匿名の協力者としてではなく、黒瀬和人として堂々と彼女の前に立ちたい。


「すごい人」なんかじゃなくて、ただのクラスメイトとして隣で笑い合えるような、そんな男になりたい。

彼女が自分の力で変わったように、俺も自分の力で変わりたい。


そのためには、今のままじゃダメだ。

もっと、強くならなきゃいけない。

もう、逃げるのは終わりだ。


これで良かったんだ、なんて自分に言い訳するのはもうやめよう。

ここからが本当の始まりなんだ。


俺は新しい決意を胸に、ゆっくりとPCを閉じようとした。


その時だった。


「――黒瀬くん」


すぐそばで鈴の鳴るような、でも少しだけ震えた声がした。

俺は心臓が跳ねるのを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。


そこに、天野光が立っていた。

クラスの中心にいるはずの彼女が、まっすぐに俺を見つめていた。

周囲のクラスメイトたちが、驚いたように俺たちを遠巻きに見ている。

その視線が痛い。


なんで俺なんかに。

俺はどうすればいい?

何を話せばいい?

思考が完全にフリーズする。


彼女はそんな俺の戸惑いを見透かすように、ふわりと微笑んだ。

そして、コトンと小さな音を立てて、一本の缶コーヒーを俺の机に置いた。


見覚えのある特徴的なデザイン。

それは、俺が深夜のチャットで「集中したい時に飲む」と話していた、マイナーなメーカーの甘いミルクコーヒーだった。


それは、匿名の世界の俺と現実世界の彼女を繋ぐ唯一の認証キー。

俺の正体がバレていることを示す決定的な証拠だった。


「ずっと、お礼が言いたくて」


彼女が言う。

その声はボイスチャットで聞いていたあの声と同じだった。


「私の世界を救ってくれたのは、あなただったんだね」


彼女は続けた。

今度ははっきりと俺の目を見て。


「――nullさん」


その名前を呼ばれた瞬間、俺の中の最後の壁が音を立てて崩れ落ちた。

もう隠し通すことはできない。

いや、もう隠したくなんてなかった。


俺はゆっくりと世界を遮断していたヘッドホンを外す。

教室の喧騒が、ノイズの混じった現実の音が、直接耳に流れ込んでくる。

それが不思議と不快ではなかった。


「……これで、終わりじゃないよね?」


彼女は少しだけ不安そうな瞳で、俺を見つめた。


「私、これからも夜にnullさんと話したい。ゲームだってもっと一緒にしたいし、くだらない話もまだまだしたいよ...!」


そして、彼女は一度ぎゅっと唇を結び、意を決したように言った。


「それに…黒瀬くんのことも、もっと知りたいな。今度は、ただのクラスメイトとしてじゃなくて…。一緒に、どこか遊びに行ったり…その…デート、とか…」


後半はほとんど声になっていなかったけれど、彼女の言葉は確かに俺の心に届いた。

彼女は、nullとしての俺も、黒瀬和人としての俺も両方を受け入れてくれようとしている。


目の前にいる天野光。

少し赤らんだ頬。潤んだ瞳。

完璧なプログラムなんかじゃない。

傷ついて、泣いて、それでも立ち上がって、俺の前に立っている一人の女の子。


その姿がどうしようもなく愛おしいと思った。

俺が守りたかったのは、システムの完璧さなんかじゃなかった。

この、不器用で、脆くて、でも誰よりも強い君の笑顔だったんだ。


「…またエラーが起きたら、何度でも直しに行くから」


気づけば、俺はそう口にしていた。

彼女が驚いたように目を見開く。


それは、俺なりの最大の好意。

プログラマーである俺ができる、精一杯の愛の告白だった。


その言葉に彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

でも、その顔は今まで見た中で一番、綺麗に笑っていた。


「うん。…よろしくね、和人くん」


その日の深夜。

俺は自室のPCの前で、少しだけそわそわしていた。

本当に彼女から連絡は来るのだろうか。

あれは昼間の気まぐれだったりしないだろうか。


ピコン。

静かな部屋に、軽快な通知音が響く。

ディスプレイの隅に表示された名前は、『Hikari』。

俺は逸る気持ちを抑えながら、ボイスチャットの通話ボタンを押した。


「…もしもし?」

ヘッドセットから聞こえてきたのは、紛れもない彼女の声だった。


『…どうも』

俺はなんとか、それだけ絞り出した。


「あ、nullさん…じゃなくて、和人くんだよね」


『…ああ』


「ふふっ。なんだか変な感じ」


彼女の楽しそうな笑い声。その声がイヤホンを通して直接鼓膜を揺らすだけで、俺の思考はオーバーヒートしそうだ。


『……』


「あれ、和人くん? 黙っちゃった」


『いや…その…何を、話せばいいか』


「えー、いつもみたいに話してよ。nullさんの時みたいに」


『いつも、って言われても…』


いつもは、匿名のnullとしてもっと冷静に話せていたはずだ。

だが、今の俺はクラスメイトの黒瀬和人であり、nullでもある。その二つの人格が俺の中で衝突して、まともな言葉を紡げない。


「あのね、今日は本当にありがとう。すごく嬉しかった」


彼女の優しい声が、俺の混乱を解きほぐしていく。


『…俺の方こそ。来てくれて、嬉しかった』


「私ね、和人くんともっと話してみたいってずっと思ってたんだよ。図書室でPC直してもらった時から」


『え…そうだったのか』


「うん。だから、nullさんの正体が和人くんだって分かった時、すごく嬉しかったんだ。やっぱりすごい人だったんだなって」



彼女の素直な言葉が、俺の心を温かくする。

同時に昼間の彼女の言葉が蘇ってきた。


「ねえ、和人くん」


彼女が、少しだけ甘えるような声で、俺の名前を呼ぶ。


「今度の週末、空いてる…?」


心臓が、ドクンと大きく跳ねる。

これは、あの言葉の続きだ。


『…空いてる』


「じゃあさ、その…お礼、させてほしいな。…ダメ、かな?」


上目遣いで俺の顔をうかがっている彼女の姿が目に浮かぶようだ。


『ダメじゃ、ない。でも、お礼なんて…』


「いいの! 私が、したいの」


彼女は少しだけむきになってそう言った。


「それでね、もしよかったら…なんだけど…」


彼女の声がどんどん小さくなっていく。


「…で、デート、とか…」


『……!』


声にならない声が出そうになるのを、必死でこらえる。

デート。俺が?

信じられない。これは、何か壮大なバグなんじゃないか。


「…だ、ダメならいいんだけど!」


俺が黙り込んでいると、彼女は慌てたように言った。


『ダメじゃない! 行く!』


気づけば、俺は食い気味にそう叫んでいた。

しまった、と後悔するがもう遅い。


「ふふっ、ほんと? よかったぁ」


ヘッドセットの向こうから、彼女の安堵したような嬉しそうな声が聞こえる。

もう、俺のライフは完全にゼロだ。


『…ああ。どこへでも、行く』


俺は精一杯の勇気を振り絞って、そう答えた。


「やった! じゃあ、今から、どこに行くか一緒に考えよ?」

『ああ』

「えへへ、楽しみだなあ」


ヘッドセットの向こうから聞こえる、彼女の嬉しそうな声。

その声を聞いているだけで、俺の世界は無限に色鮮やかになっていく気がした。


――これはここから始まる、長い長い物語の最初のログに過ぎない。

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