第2章

第13話:横に並ぶ資格

土曜日の朝、俺は自分の部屋で途方に暮れていた。


「何も分からない…。論理的ではない…。」


そうやってブツブツと呟いている姿は傍から見たら不審者に見えてもおかしくない。


ベッドの上には昨夜から選び続けている服が散乱している。とは言っても、選択肢なんてほぼないようなものだった。


引きこもりプログラマーの俺は服なんてまともに持っていない。あのジョブスだって服は毎日同じだったらしいから、俺は間違っていない。


普段着ているTシャツとジーンズ、少しマシに見えるかもしれないポロシャツ、そして母親が買ってくれたけれど一度も袖を通したことのないボタンダウンシャツ。


ああ、なんで普段から見た目に気を使ってこなかったのか。

途方もない後悔に苛まれる。

助けて、ママン…


どれを選んでも、天野と並んで歩くには場違いな気がしてならない。


「服装、エスコート、話し方...」


俺は頭を抱えた。

昨夜からネットでデートマニュアルを調べ続けているが、情報が多すぎて何が正解なのか分からない。


『初デートは清潔感が大切』

『女性をリードする男らしさを見せよう』

『会話は相手の趣味に合わせて』


清潔感ってなんだよ…定義を教えてくれ。

リードする男らしさってなんだ…今は男女でどちらがリードするとかそんなのない時代じゃなかったのかよ。結局、女性は男性にリードされたいのですってどこ調べだ。データを示してくれ。


どのサイトも漠然としたことしか書いていない。

じゃあ具体的にどうすればいいんだ?


要件定義が適当すぎる。


俺は時計を見た。待ち合わせまであと3時間。


そもそも、俺たちは恋人なのか?


先のSNS炎上事件の際に、null として Hikari として深夜の世界で心を通わせ合った俺たちは、現実世界でも「もっと一緒にいたい」という気持ちを確認した。

でも、明確に「付き合ってください」「はい」というやり取りをしたわけじゃない。


これまでに恋愛経験のない俺は、どうやって恋人になるか分からないのだ。


今日のデートが、俺たちの関係を次の段階に進める重要な日になるはずなのに。


「うーん...」


俺は再び服を手に取った。結局、一番無難そうなボタンダウンシャツと黒いパンツを選ぶ。鏡を見ると、そこに映るのは何も変わらない普段の俺。

果たしてこれでいいのだろうか。


スマホを開くと、天野からのメッセージが届いていた。


『おはよう! 待ち合わせ場所、駅の改札前で大丈夫だよね?』


俺は返信しようとして、指が止まった。

何て返せばいいんだ?


『おはよう。改札前で問題ない』


送信した後、すぐに後悔する。

なんて素っ気ない返事なんだ。

もっと...もっと何か、気の利いたことを言えなかったのか。


でも、どんな言葉が正解なのか俺には分からなかった。



駅の改札前に着いたのは、約束の時間の30分前だった。


待ち合わせ場所の近くのベンチに座り、俺は天野を待った。土曜日の昼下がり、駅構内は家族連れやカップルで賑わっている。


俺の目に留まったのは、自然に女性の手を引く男性の姿だった。あんな風に、さりげなくエスコートできればいいのに。でも俺には、天野の手を取る勇気なんてない。


「和人くん!」


振り返ると、天野が手を振りながら改札から出てきた。


天野光だ。

今さらながら、あの天野光と待ち合わせしていること、あの天野光が自分を見て笑いかけていること。信じられなかった。


今日の天野は、白いブラウスに淡いピンクのスカート、そして小さなハンドバッグを持っている。

普段の学校での制服姿とは全く違う、大人っぽくて上品な装いだった。やばい、かわいすぎる…


「待った?」


「いや、俺も今来たところだから」


嘘だった。

30分も前から待っていたくせに、なぜかそう言ってしまった。


「そっか、よかった!じゃあ行こうか!」


天野の屈託のない笑顔に、俺の心臓が跳ねる。

でも同時に、緊張で頭が真っ白になりそうだった。


「あの...今日はどこに行く予定だったっけ?」


俺の質問に、天野が少し困ったような顔をする。


「えっと...前に夜に話していくつか候補出したけど結局決めてなかったよね?」


「...あ、そうだった」


完全に忘れていた。デートの場所を決めていなかった。昨夜、服装に夢中になって、肝心の行き先を決めるのを忘れていたのだ。


エスコートとか、服装とかそれ以前の問題だ。


「ごめん、実は...特に決めてなくて」


俺の情けない告白に、光はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに明るく笑った。


「そっか!じゃあ、一緒に考えよう?何か見たい映画とかある?」


「映画...?」


俺の頭に浮かぶのは、プログラミング関連のドキュメンタリーやSF映画ばかりだ。でも、天野がそんなものを見たがるとは思えない。


「えっと...天野は何が見たい?」


「私?うーん、最近話題の恋愛映画とか?『君との距離』っていうのが評判いいって聞いたけど」


恋愛映画。

俺が最も苦手とするジャンルだった。

でも、天野が見たいと言うなら...


「それでいいよ」


「本当?和人くんも恋愛映画好きなの?」


「...まあ、嫌いじゃない」


また嘘をついてしまった。

でも、正直に「苦手だ」なんて言えるわけがない。


「やった!じゃあ映画館に行こう!」


天野が嬉しそうに歩き出す。

俺はその後を追いながら、自分の情けなさに嫌気がさしていた。



映画館までの道のりで、俺は天野との会話に苦戦していた。


「和人くん、普段はどんな映画見るの?」


「えっと...SF系が多いかな」


「へー!SF!なんかかっこいい!どんなの?」


俺が最近見たのは『ハッカー帝国理論』という、量子コンピューターをテーマにした超マニアックなドキュメンタリーだった。

でも、それを説明したところで天野が楽しめるとは思えない。


「いや、そんなに面白いもんじゃないよ」


「そんなことないよ!今度一緒に見せて!」


天野の素直な反応に、俺は少し戸惑った。

本当に興味を持ってくれているのか、それとも単に話を合わせているだけなのか。


「...うん、今度」


曖昧に答えながら、俺は歩く光を見つめた。

彼女の歩く速度は俺より少し速い。

いや、正確には俺が緊張して歩幅が小さくなっているのだ。


「あ、和人くん、あそこのクレープ、映画の前に食べない?」


光が指差す方向を見ると、確かに行列のできているクレープ屋があった。


「いいけど...結構並んでるね」


「大丈夫!私、並ぶの慣れてるから」


光は迷わず列に並び始めた。俺もその後に続く。


「普段、よく並ぶの?」


「うん、撮影の合間とか、友達と遊ぶ時とか。あ、そうそう、この前雑誌の撮影で...」


光が撮影の話を始める。

普段なら聞き流してしまいそうな芸能界の話だが、今日は天野の表情を見ながら聞いていると、なんだか新鮮だった。


「その時のカメラマンさんがすごく面白い人で、『表情筋を意識して』って言うんだけど、私、意識しすぎて逆におかしな顔になっちゃって...」


天野が笑いながら話す様子を見ていると、俺も自然と口元が緩んだ。


でも同時に、改めて天野の世界の広さを感じてしまう。

俺の世界は、学校と家とPC の前だけ。

天野は雑誌の撮影現場で、大人たちと仕事をして、様々な経験を積んでいる。


「和人くんは?何か最近面白いことあった?」


「俺?...特には」


それは本当だった。天野のような華やかな経験なんて、俺にはない。


「そんなことないでしょ?プログラミングの話とか!」


「プログラミングの話なんて、面白くないよ」


「ええー、そんなことないって!この前、PC直してもらった時、魔法みたいだと思ったもん」


天野の言葉に、俺は少し救われた気持ちになった。でも、それは図書館での一件の話だ。あの時の俺は、null として天野を助けるという明確な目的があった。


今は違う。ただの和人として、天野と向き合っている。そこには、頼れるような技術的解決策もない。


「次の方、ご注文は?」


気づくと、順番が回ってきていた。


「えっと、イチゴチョコで!」


光が迷わず注文する。


「君は?」


店員さんに聞かれて、俺は慌ててメニューを見た。種類が多すぎて、何がいいのか分からない。


「あ、えっと...」


「和人くん、甘いもの好き?」


天野がそっと俺に聞く。


「まあ...好きかな」


「じゃあバナナチョコがおすすめ!私も今度食べてみたかったの」


「それで」


俺はホッとした。天野が決めてくれて、本当に助かった。


支払いの時、俺は財布を取り出そうとしたが、天野が先に店員さんにお金を渡していた。


「あ、俺が...」


「いいよいいよ!今日は私が誘ったようなものだから」


「でも...」


「今度、和人くんに奢ってもらうから順番ね!」


天野の笑顔に、俺は何も言えなくなった。



映画館で映画を見ている間、俺は全く内容が頭に入ってこなかった。


隣に座る天野の存在が気になってしまうのだ。

時々聞こえる小さな笑い声や、感動的なシーンで微かに聞こえるすすり泣きの音。


俺は画面を見ているふりをしながら、横目で天野の表情を盗み見ていた。

改めて、本当に綺麗な顔してるなあ。


映画の中では、主人公の男性が積極的に女性をリードしている。レストランでは自然にエスコートし、会話では相手を楽しませ、時には強引に手を引いて走り出したりもする。


俺には、そのどれもできない。


映画が終わり、ロビーに出ると、天野が感想を話し始めた。


「すごく良かった!最後のシーン、泣いちゃった」


「そうだな」


俺の返事は相変わらず短い。何か、もっと気の利いたことを言えればいいのに。


「和人くんはどうだった?」


「えっと...いい映画だったと思う」


「どのシーンが一番好きだった?」


俺は困った。正直言って、映画の内容をほとんど覚えていない。天野のことばかり気になっていて、ストーリーを追えていなかったのだ。


「...最後の方」


曖昧に答えると、天野が嬉しそうに頷いた。


「やっぱり!あのシーン、すごく感動的だったよね!」


俺は適当に頷いたが、内心では自己嫌悪に陥っていた。


映画館を出ると、もう夕方になっていた。


「お疲れ様!今日はありがとう、和人くん」


「こちらこそ...えっと、楽しかった」


それは嘘ではなかった。天野と一緒にいる時間は楽しい。でも同時に、自分の不甲斐なさばかりが印象に残ってしまった。


「また今度も、一緒にお出かけしよう?」


天野の提案に、俺は頷いた。


「うん...また」


「やった!じゃあ、また学校でね」


天野が手を振って去っていく。

俺はその場に立ち尽くしたまま、天野の後ろ姿を見送った。



家に帰る電車の中で、俺は今日一日を振り返っていた。


デートの場所も決められず、服装も自信がなく、会話もうまく続けられない。エスコートするどころか、天野にリードしてもらってばかりだった。


クレープ代も天野に払われてしまった。男として情けなさすぎる。


俺の頭の中で、今日の失敗が次々と蘇ってくる。


映画の感想を聞かれた時の曖昧な答え。

会話が途切れそうになった時の沈黙。

天野が楽しそうに話している時の、俺の上の空な相槌。


天野は今日のデートを楽しめたのだろうか…?

俺は自分のことばかり考えていて、天野が楽しめてるかなんて考える余裕すらなかった。


「何やってるんだ、俺は...」


電車の窓に映る自分の情けない顔を見ながら、俺は深くため息をついた。


結局、俺たちの関係は、まだどこか中途半端なまま だった。


恋人同士のような親密さもなければ、友達以上の特別感もない。ただ、お互いを意識しながらも、どうしていいか分からずにいる、そんな微妙な距離感。


家に着いて部屋に戻ると、俺はPCの電源を入れた。普段なら、こんな時はプログラミングに没頭して嫌なことを忘れる。


でも今日は、キーボードに向かっても集中できなかった。


画面に映る自分の顔が、さっきの電車の窓と同じように情けなく見える。


俺は、null として Hikari と深夜の世界で心を通わせるてきた。でも、黒瀬和人として天野光と向き合うには、あまりにも未熟すぎた。


「どうすればいいんだ...」


俺は頭を抱えた。

今の俺に天野の横に立つ資格はない。


技術的な問題なら、論理的に解決策を見つけることができる。でも、恋愛は違う。感情というバグだらけのシステムに、明確な解決策なんて存在しない。


俺は、恋人になる方法が分からないまま、この中途半端な関係を続けることになるのだろうか。


PCの画面を閉じて、ベッドに倒れ込んだ。


来週また光と会って、また同じような失敗を繰り返すのかと思うと、憂鬱になった。


でも同時に、また光に会いたいという気持ちも確かにあった。


この矛盾した感情を、俺はどう処理すればいいのだろう。


深夜の静寂の中で、俺は答えの出ない問いを抱えたまま、眠りにつこうとしていた。

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